SSブログ

赤飯は古代食の名残り──「ハレの食物」そのルーツを探る [食文化]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
赤飯は古代食の名残り
──「ハレの食物」そのルーツを探る
赤飯はなぜ赤い その1
《神社新報 クヒモノロジー食と日本人3 平成1年9月25日》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


クヒモノロジー第二弾は赤飯である。いふまでもなく、モチ米に小豆を混ぜ、蒸籠で蒸し上げた食べ物で、別名「オコハ」ともいふが、東北では「フカシ、オフカシ」、岡山では「オムシ」、沖縄、奄美では「カシキ、カシチー、カミイチ」または「ウブク」と呼ぶ。冠婚葬祭のとくにおめでたい席で食べるのがふつうだが、一体なぜさうした習慣が形成されたのだらうか。


▢赤飯は「ハレの食物」
▢不祝儀に食べる地方も

神祭りや冠婚葬祭の供物や儀礼食として赤飯を食べる習慣は、現在ではほぼ全国的といっていい。

いはゆるハレの食物であるが、なかには吉事だけではなく、凶事の場合にも赤飯を供する地方もある。また、不祝儀の場合は白大豆を加へたり、モチ米だけの白蒸し(しらむし)にする地方、黒豆を入れた紫がかった「黒豆おこは」を食べる地方もある。

他方、ハレの日の食事に必ず赤飯が出されると考へるのは間違ひで、地方によっては寿司、餅あるいは粥がハレの食事の主役を演ずる。また米の生産が少なかった地方ではウルチ米だけを炊いた白飯がハレの食物となることもある。

考へてみれば、全国津々浦々で3度の食事に白い米を満足に食べられるやうになったのはそれほど古いことではない。

▢砂糖を入れる津軽の赤飯

一口に赤飯といっても、地域によっていろいろなバリエーションがある。

岡山県山間部ではモチ米とウルチ米を混ぜて炊き、その比率が3対7なら「小豆飯」、8対2なら「鍋おこは」と呼ぶ。鍋おこはは日常的なちょっとした行事の際に作る。

新潟県蒲原地方では、モチ米にひじきを加へ、醤油で味付けした「炊きおこは」が人気があり、運動会などに作る。

青森県津軽地方では蒸し上がった赤飯を桶にあけ、砂糖をかき混ぜたのち、もう一度蒸し直す。かなり甘みの利いた赤飯になる。

小豆は皮が破れやすいことから、腹切りに通じることを忌み、代はりに大角豆(ささげ)を使ふ地方はかなり多い。食紅で色づけする所もある。重箱に詰めたときに南天の葉を飾りにあしらふ場合もある。


▢宮中では「赤の御膳」
▢諒闇中は召し上がらず

鎌倉末期の書物『厨事類記』によると、宮中では3月3日、5月5日、9月9日の節句の御膳に赤御飯をすすめるのが恒例だったといふ記述があるが、現在ではこの習慣はない。

天皇誕生日、入学式や卒業式の折に赤飯を召し上がるのは一般国民と同じだが、現在(この記事が書かれたのは昭和天皇崩御の年である)は諒闇中なので召し上がらない。

陛下に差し上げる小豆御飯は女房詞で「赤の御膳」「こはご」と呼ばれる。

▢「五穀飯」は韓国の「赤飯」

韓国の食文化に詳しい食文化研究家・槇浩史氏によると、韓国には日本のやうな小豆御飯はないが、赤飯に似た「五穀飯(オーゴッパン)」をハレの食膳で食べるといふ。

①米(ウルチ米とモチ米)、②黍、③粟、④小豆、⑤黒豆をいっしょに炊いたもので、悪鬼を払ひ福を呼ぶ意味で、旧暦1月15日の小正月や冬至に食べるといふ習慣がいまでも続いてゐる。

日本のやうに配るのではなく、福を分けてもらふ意味で、逆に近所の人が鍋をもってやってくる。結婚式に五穀飯を食べる風習はない。


▢「蒸す」から「炊く」へ
▢万葉人は蒸し飯を食べた

現代の日本人が日常的に食べてゐるご飯は「炊く」けれども、赤飯は「蒸す」のが特徴である。

米は生食には不向きで、焼いて食べたのがもっとも古い方法であるらしい。次に現れたのが蒸すといふ調理法で、奈良・平安時代はご飯といへば、甑(こしき)で蒸した強飯(こはめし、こはいひ)だったといふ。

『万葉集』の貧窮問答歌で、山上憶良は「竈には火気(ほけ)ふき立てず 甑には蜘蛛の巣懸きて 飯炊(いひかし)く事も忘れて」と詠ってゐる。穀物が手に入らないので長らく甑が用ゐられてゐないといふ嘆きである。

▢進歩した作陶技術

蒸す方法から炊く方法に変はったのは平安時代からだといはれる。

蒸す方が炊くよりも調理法が煩雑なうへに、余分な手間とより多くの燃料を要する。それにもかかはらず敢へて蒸す理由は、素焼きの土器で炊くと土器の胎土が溶けて崩れてしまふからだといふ。また蒸し飯の方が保存が利くため、調理の省力化にもなったといはれる。

ところが平安時代になると作陶技術が進歩して、土鍋にも釉薬が用ゐられるやうになり、煮炊きしても胎土が崩れる心配がなくなった。炊飯の欠点が克服されたので、蒸し飯にしがみついてゐる必要がなくなったわけである。

斎藤吉久註=これはある食文化研究家の説ですが、いまは否定されているようです。素焼きの土器の胎土が簡単に崩れることはないそうです)


▢ハレの食事の変化
▢昔は姫飯がハレの食物

蒸し飯は古くは上流社会の日常食だったが、やがて庶民が真似をして食べるやうになったとされる。

万葉の時代は、いまとは逆に水を加へて煮た「姫飯(ひめいひ)」や「粥」がハレの日の食物として供されたらしい。現在、神祭りや物日に粥を食べる風習が各地に残されてゐるのは、この時代の伝統が引き継がれたものと考へられてゐる。

しかしその後、姫飯や堅粥(かたがゆ。現在の白飯)が日常食として一般化していくと、今度は以前の蒸し飯を「こはいひ」「こはめし」「むしいひ」と呼んで、物日に食べるやうになった。

赤飯の呼び名は鎌倉末期の『鈴鹿家記』などに現れ始め、室町以降、盛んに使はれるやうになり、ハレの日の食物として作法も定まっていった。ただこれが現在のやうに小豆を入れたものなのか、あるいは赤米(あかごめ)、大唐米(だいとうまい)と呼ばれる赤い色の米を使ったのかは必ずしも判然としない。

江戸中期になると、モチ米を蒸して吉事には赤飯とし、凶事には白蒸しのまま親類などに配るといふ習慣が江戸、京都、大阪に広まっていった。これが明治以後の赤飯のルーツとされてゐる。

▢柳田国男の赤米先行説

忘れてはならないの赤飯のもうひとつの特徴は、小豆を加へて赤く色づけするといふことである。白いはずの米をなぜわざわざ赤く染めるのだらうか。

柳田民俗学は次のやうに答へてゐる。すなはち赤い飯が白い飯に先行し、日本人は白い飯を食する以前に赤い米を栽培して儀礼用、常食用としてきたので、その印象が白い米を小豆で染める習慣を生み、神祭りの供物、儀礼食として伝へられてゐるのだと説明する。

これが柳田国男の「赤米先行説および儀礼への固定化説」である。

現代の日本人にはあまり馴染みのないこの「赤米」とはどのやうな米だったのだらうか。次回はこの謎の古代米「赤米」について探ってみよう。(つづく)


斎藤吉久註=この記事を書くに当たって、食文化、民俗学など多くの先学たちの研究・文献を参考にさせていただきました。参考資料として掲げることはしませんが、心からお礼を申し上げます。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。