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神として祀られる「赤米」 ──国境の島に咲く赤い花は雨に濡れて [稲作]

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神として祀られる「赤米」
──国境の島に咲く赤い花は雨に濡れて
(神社新報「クヒモノロジー食と日本人4 赤飯はなぜ赤い その2」。1989年10月2日)
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 前回は、ハレの日の食物である赤飯のルーツは、古代米といわれる赤米(あかごめ)にある、とする柳田民俗学の学説を紹介した。

 しかし赤米といっても、あまりご存じでない読者も多いのではないだろうか?

 そこで今回は、この赤米について、さらに詳しく探ってみたい。同時に、古来、大陸文化の中継点として知られる、国境の島、対馬の古社・多久頭魂(たくずだま)神社に伝わる赤米神事もあわせて紹介する。


□ 貢ぎ物として平城京へ
□ 白米に圧されて姿消す

 赤米は文字通り赤い米である。果皮と呼ばれる外層部分にアントシアン系の赤い色素が蓄積されるため、玄米は赤い色をしている。完全に精白すると色素は糠(ぬか)となって除かれる。

 茨城県つくば市にある農水省農業研究センターの横尾政雄氏によると、「白米ほどではないが、赤米にもたくさんの品種がある」という。

 実際、生物資源研究所のジーンバンク(遺伝子銀行)には、外国種も含めて、100品者以上の赤米が登録されている。品種特性も千差万別で、ウルチもあればモチもある。

 赤米の栽培は古くから行われ、その赤い色ゆえに特別視されたらしい。

 奈良時代には各地で栽培され、『本草綱目啓蒙』には「白粒よりは赤粒の者実多きゆえ、多くはこれを栽ゆ」(原文は漢字カタカナ混じり)と記されている。

 神祭りの際の赤飯や貴族の日常食に用いられ、平城京跡から出土した数多くの木簡には、尾張、播磨、但馬から赤米が都に貢ぎ物として運ばれてきたことが示されている。

 しかしその後、食味評価の高い白米の栽培が増えるに連れて、赤米は徐々に姿を消していった。


▽ 渡来した「大唐米」

 10世紀頃になると、代わって粒の長いインディカ・タイプの赤米が渡来した。大唐米(だいとうまい)とか唐法師(とうぼし)と呼ばれる赤米である。

 生命力が旺盛で多収でもあったので、急速に普及した。粘りが少なく、味が劣るため、貴族は口にしなかったが、自分で作って食べられるのが農民には魅力だった。

 大唐米の栽培は、15、16世紀にピークに達するが、やはり白米増産のあおりを受けて、その後は減少傾向を強めていった。

 江戸時代の地方の記録や農書などに赤米の記載があるそうだから、近世になっても赤米はまだ全国的に栽培されたのであろう。

 井原西鶴の『好色一代女』には、「朝夕も余所はみな赤米なれども、此方は播州の天守米」とある。庶民の食卓には赤米がしばしば登場したらしい。

 明治時代の半ばから、政府は多収性の白米の生産を奨励し、品種改良を強力に推し進めた。赤米は雑草同然になり、水田から追放される身の上となった。


□ 多久頭魂神社の赤米神事
□ 神田に植え続け千数百年

 ところが、いにしえの昔から現在に至るまで、神田に赤米を植え続けている神社がある。

 岡山県総社市新本にある2つの国司(くにし)神社、長崎県下県郡厳原(いずはら)町豆酘(つつ)の多久頭魂(たくずだま)神社、鹿児島県熊毛郡南種子町茎永の宝満神社の4社である。

 9月半ば、多久頭魂神社(本石正久宮司)を訪ねた。生憎の雨だった。

 同社が鎮座する豆酘は、玄界灘に浮かぶ対馬の南端に位置する、世帯数660、人口約2000人の半農半漁の小さな集落である。

 厳原町に住む元・純真女子短大助教授(民俗学)の城田吉六氏によると、豆酘の赤米栽培は5世紀にさかのぼるという。

 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)をまつり、観音寺豆酘寺が建てられ、同時に神田が開かれたのが発端だというのである。


▽「頭仲間」が交替で耕作

 三方を山に囲まれ、前方は豆酘湾、わずかに残った平地に水田が広がる。一面だけ赤く見えるのが神田である。花が赤いから、すぐに分かる。近寄りがたい神々しさがある。

 室町時代から同じ場所にある。広さは1反4畝2歩。別名「仏の座」「寺田」と呼ばれる。女人禁制である。

 赤米を耕作するのは「頭仲間」という集団で、1年交替で耕作を担当する。その年の当番を「受け頭」という。種籾は門外不出で、収穫された赤米は「神」としてまつられる。神事用に用いる以外の赤米は受け頭が食用にする。

 食糧が乏しく貧しかった時代には、人々にとって赤米は命を支えてくれる大切な神様だったのだろう。

 神事はむろん1年間続く。行われている神事は、室町期のものとほとんど変わりがない。神事を引き継いでいるのは、供僧集団である。鎌倉期以来の家柄とされる9軒の家からなる。世襲である。


□ 神事のハイライト「神渡り」
□ 種籾の米俵を伏して拝む

 赤米神事のハイライトは旧暦1月10日の深夜に行われる頭受け神事「神渡り」である。

 前年の秋に収穫された赤米はすでに新しい俵に詰められ、受け頭の奥座敷の床の間に吊され、神として祀られている。

 奥座敷はいわば聖域であり、不浄の者や女性の入室は家族といえども許されない。

 月が山の端にかかる深夜丑の刻に神渡りは始まる。種籾がその年の受け頭に引き渡されるのである。

 奥座敷の床の間から下ろされた俵を「お守り申す」役が背負い、その上から麻の裃を掛け、前年の受け頭からその年の受け頭の家まで、しずしずと運ばれる。

 神渡りは完全な沈黙と闇の中で行われる。聞こえるのは松明がパチパチと燃える音だけである。行列が通ると、人々は戸外に出てきて、土下座して米俵を拝する。

 雨や風の夜であっても、不思議にも収まる。まさに雲が動くという雰囲気である。


▽「受け頭」は緊張の連続

 今年の受け頭は本石伸五郎さんである。

 玄関の前には忌竹が立ち、注連縄が張られている。受け頭になると、かなり緊張した1年を送る。あらかじめ屋根を葺き替えたり、襖や障子を張り替えたり、「結婚式を挙げるのと同じように準備して受け頭になる」という。

 厳しい精進潔斎も要求される。赤米は人々の篤い信仰に支えられ、守られてきたのだ。

 赤米が栽培されているのは、もちろん日本ばかりではない。中国大陸では雲南を中心に栽培され、東南アジアの稲作圏には赤米を特定の儀礼に用いる民族や種族が見受けられる。


□ 文化人類学からの反論
□ 小豆を加えるのはなぜ

 さて、赤飯である。

 かつての赤米が儀礼用として残されたのが赤飯のルーツであるとするのが、柳田民俗学の考え方である。

 だが、これには異論もある。

 そもそも赤米が白米に先行するとは必ずしも断言できない。また、色づけするだけならば、小豆の煮汁だけで足りるはずである。なぜ煮た小豆を加えて蒸すのであろうか?

 文化人類学者のなかには、小豆栽培とその利用という観点から柳田説を批判する人もいる。次回は、この仮説を紹介しながら、赤飯の謎にさらに迫ってみたい。


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