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餅なし正月の謎──畑作民が伝える国つ神の儀礼 [稲作]

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餅なし正月の謎──畑作民が伝える国つ神の儀礼
(「神社新報」平成7年1月16日)
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「いちばん大変だったのは昭和41年ごろですね。
 正月用に1人2キロのモチ米の配給があって、お客さんはみな『餅にしてくれ』っていうもんだから、暮れの25日の晩から30日の朝まで不眠不休で、のし餅を作って配達して、忙しかったですよ。
 正月三が日は疲れ果ててもうバタンキューってなもんです。家族みんな寝正月でした」

 と笑うのは、東京・北青山の米穀店主・宮崎昭次さん(59)。アルバイトを6人雇い、1週間足らずで約1千軒分、150俵の餅をついたという。

 日本の正月といえば餅──食を通じて日本文化の深層を探るシリーズ「続・クイモノロジー」第1回のテーマは餅である。


▢ 餅を忌避して400年
▢ 東京の旧家の新年

 かつて1日は夕方から始まった。年が明けるのは大晦日の夕方で、このとき神棚に餅を供え、翌朝、雑煮にして食べたのが雑煮餅の始まりという。

 餅は稲の象徴であり、神そのものである。餅を食べることは神霊を体内に鎮め、生命を再生させる儀礼であった。

 ところが、正月に餅をつき、神仏に供え、食べることを禁忌する一族や地域もある。「餅なし正月」または「イモ正月」という。

 たとえば東京にもある──。

 といったら、「ほお、地方によって違うんでしょうね」と宮崎さんが目を丸くした。

「足立郡四ッ谷(よつや)村といえる一里、しわす28日に家ごとにもちいを搗きて、翌年正月元日の雑煮はさらなり。もちいを喰うこと深くいましめ、慎みて……」(雀庵長房著『さえずり草』)

「四ッ谷村」はいまの足立区青井2丁目あたり。

「当村の開墾は文禄慶長のころのことにて、次郎左衞門、権右衛門、庄兵衛などいう者、開けりという」(『新編武蔵風土記』)

 萱や葦の生い茂る荒野を新田開発したのが、鶴飼、市川、高橋兄、高橋弟の4軒だったので、「四ツ家(よつや)」の地名が生まれた。「足立区」の成立前は、綾瀬村次郎左衞門新田と呼ばれた。

 数十軒の本家・分家がいまも餅なし正月の風習を守っているという。

「30日にお飾りを下げたあとは、正月11日に蔵開きするまで、餅は食べないんです」

 そう教えてくれたのは、鶴飼友之助さん(80)。次郎左衞門を祖とする鶴飼家の分家でもっとも古い12代目の当主である。

 餅なし正月の禁忌は厳しい。

「かくせざれば火の神の祟りありとてなりとぞ」。隣村に引っ越した子孫が雑煮で正月を祝ったところ、火事になり、「一村いよいよ厳かに慎むことなりとぞ」と雀庵は江戸末期に書いている。

「親戚の菓子店から暮れに大福餅をもらい、子供が口に入れたのを慌ててはき出させた、なんていうこともありました。どうしても食べたい場合は、垣根の外で食べましたよ」


▢ 祖先は南部藩の家臣
▢ 新田開発の苦労を偲んで


 厳格な習わしが4世紀にもわたって守られてきた背景には、何があるのか?

 一説には、将軍が鷹狩りにやってきた折りに失火したため、村中お咎めを受けたのが始まりともいう。

 しかし友之助さんは否定する。しかも、『地誌書上(かきあげ)』では次郎左衛門は「相州鎌倉の人」とあるが、「先祖は南部藩の家臣だった」という。

 友之助さんは「10年前の夏、青森の八戸に行ったとき、鶴飼の姓が多いのに気がついた」。電話帳で調べたら65軒。本家は20キロ離れた岩手県軽米町にあることが分かり、さっそくレンタカーで訪ねた。

 県境にある軽米は、山間の町である。久慈平岳(くじひらだけ)西麓の上館地区には鶴飼という集落がある。久慈平岳は戦前は鶴飼嶽と呼んだらしい。

 町全体で鶴飼姓が40軒。

「本家といわれる家は床の間だけで3間もある、大きな酪農家で、四ツ家の鶴飼よりも古い家柄でした」

 主は、

「200年前に火災で記録を失いましたが、もともとは南部藩の家臣です」

「先祖がお供をして京都に行ったという話は聞いていますが、そのあとどうなったか……」

 と話したという。

 近世、南部藩の藩祖は26代南部信直(のぶなお。1546〜99)。南部氏の一族・石川高信の長男で、本家南部晴政の養子。世継晴継早世のあと、天正10(1582)年に南部氏を継ぐ。お家騒動のさなかで、統制力は弱く、九戸、八戸、津軽は半独立状態にあった。

 天正17年に津軽の大浦氏が独立。翌18年、信直は小田原で秀吉に拝謁して7郡の本領を安堵したのもつかの間、19年、九戸の乱が起こる。葛西・大崎一揆などに乗じて、九戸政実が反旗を翻したのである。

 小軽米左衛門佐久俊と蛇口蔵人吉広を除いて、九戸地方の地士は九戸氏と結んだ。信直は秀吉に援助を求め、みずから上洛する。秀吉は10万の大軍を派遣。九戸城は落城し、降参した一族郎党5000人が「なで切り」にされた。九戸氏ほか九戸党の多くは滅亡した。

 そのころ軽米は軽米兵右エ門の館があり、上館には工藤右馬助の館があったとされる。ともに九戸の乱で滅んだ。

「鶴飼はもとは隠し念仏の里で、上館地区のなかで独立した集落を形成していました」

 と上館・八坂神社の一條善人宮司。次郎左衞門が信直方だったか、九戸方だったかは、分からない。

 乱のあと、信直は病をおして上洛し、文禄慶長の役に参じて、肥前名護屋に赴く。

 家康が江戸に入府したのは天正18(1590)年のことである。当時の江戸は未開の原野または沼地で、利根川の氾濫で洪水が頻発していた。家康は河川改修と新田開発に取り組んだ。

 次郎左衞門新田が開かれたのもこのころである。

「ちょうど時代が変わるときです。いまさら岩手に帰っても、と考えて、先祖は刀を捨て、江戸にとどまったらしい。この辺は1メートル掘ると貝殻ばかりです。正月の餅どころではなかったはずで、苦労を忘れないために、餅を食べないようになっのでしょう」

 と友之助さん。

 鶴飼本家に残る慶長19(1614)年の年貢割付状は「下田壱町五反三歩」
について仕付はしたが、米ができないため貢租を免除する、と記している。

 新田開発を保護奨励するため、一定期間、年貢諸役が免除されるのが常だったとはいえ、その苦労がしのばれる。


▢ 焼き畑民的農耕文化の痕跡
▢ 風化するサトとヤマの民俗


 友之助さん宅では、正月に、雑煮餅の代わりにヤツガシラの芋雑煮を食べる。ヤツガシラを餅のかたちに似せて四角に切り、小松菜を入れて味噌汁にし、三が日の朝にかならずいただく。元日と3日の夜は白いご飯。2日の晩は赤飯に塩鮭と小松菜の煮物を神棚に供える。

 軽米の鶴飼地区には餅なし正月の習俗はないが、岩手の他の地区には餅を食べないところもあるらしい。

♪ 南部よいとこ粟飯(あわめし)稗飯(へめし)

 南部盆唄に歌われるように、県北地方の主食は稗で、水田のない農家は粟を混ぜた従兄弟(いとこ)飯を炊いた。飢饉が頻発する、厳しい土地柄であった。

 餅なし正月の儀礼は米が食べられないような「貧しい文化」だというのではない。その逆である。

 餅なし正月が餅正月と同等の価値をもって全国的に存在することを突き止めたのは民俗学者の坪井洋文で、餅なし正月は「焼き畑民の歴史的経験の痕跡ではないか」と指摘した。四ツ家の例はむしろ歴史的に新しく、餅なし正月は稲作以前の縄文文化の名残だという。

 かつて柳田国男は、日本文化の基礎に稲作文化を起きながらも、その前提として複数の「種族」の存在を認め、

「先住者=国津神集団」
「渡来者=天津神集団」として概念化した。

 坪井は、

「ヤマ=国津神の領土=餅なし正月的文化空間」
「サト=天津神の領土=餅正月的文化空間」として「畑作文化類型」と「稲作文化類型」を対比させ、日本文化は稲作文化が一義的に発展したのではなく、稲作文化と畑作文化が接触することによって、多様で豊かな文化が生まれた、と指摘した。

 しかしいまや「稲を選んだ日本人」の文化も、「稲を選ばなかった日本人」の文化も危機的状況にあるといえないだろうか。

 いま都内で年末に餅をつく米穀店はほとんどない。

「いまはオートメーションですよ。餅なんて年中ありますからね。正月だから餅を食べるという感覚がなくなっちゃいました。私の田舎でも孫が食べないからと餅つきもしないんですよ」

 と宮崎さんが嘆く。

 他方、餅なし正月が四ツ家のように守られている例は少なくなっているらしい。

 私たち日本人はサト(田)という文化空間もヤマ(畑)という文化空間も風化させてしまうのだろうか。

 坪井は「異質な文化の同時併存」が「日本文化の特質であり活力であった」といっているのだが……。


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