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異説・日本に「野生稲」──在野の植物学者・直良信夫の人と生涯 [稲作]

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異説・日本に「野生稲」──在野の植物学者・直良信夫の人と生涯
(「神社新報」平成7年2月13日)
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 日本列島で稲作が始まったのは、いつのころからなのだろうか?

 以前は縄文時代晩期(紀元前650〜300年)とされていた稲作の起源が年々塗り替えられ、昨年(平成6年)3月には縄文時代中期中頃(約4500年前)の土器片から稲の細胞成分が検出された、という発表に驚かされた。

 けれどもその稲のルーツは、といえば、アジア大陸から栽培種が伝来したというのが学問上の定説である。日本列島には栽培種と関係のある野生種が見当たらないからである。

 ところが、いまから1万年前以上前の、氷期と間氷期が繰り返されていた洪積世末期に野生の稲が存在していた、と “異端の学説”を唱える考古学がたった1人だが、いる。事実だとすれば、日本で独自に稲作が起こった、という可能性も出てくるのだが──。(文中敬称略)


▢ 洪積世末期地層から「稲籾の化石」出土


 40年前の昭和29年12月19日、当時、早稲田大学講師だった直良信夫(なおら・のぶお)は自宅近くでとんでもない発見をする。東京・中野の工事現場で掘り起こされた洪積世の地層から「野生の稲籾の化石」を採集したのである。

 その日、結核で武蔵野療養園に入院していた長女・美恵子を見舞った帰り道、獅子舞で知られる江古田3丁目の氷川神社の前の道を歩いていた。東福寺を過ぎ、江古田川にかかる東橋の近くまで来たとき、都営アパートの建設予定地で地質調査のために櫓が組まれ、畑地が掘り返されているのが見えた。

 地下2メートルの試掘孔からイラモミやカラマツなど寒系植物の化石が多数、掘り出されている。洪積世最末期の「江古田植物化石層」に違いない。危うく埋め戻されるところであった。

 直良は現場主任にペコペコ頭を下げ、ネズミ色の土をリンゴ箱数個に詰めてリヤカーで自宅に持ち帰った。

 すると、土の塊から化石化した稲籾がたった1個だが、現れた。

「小穂現長7・3ミリ、幅2・6ミリ、厚さ1・4ミリ」

「芒(ぼう。のげ)はその基部で破損」していたが、有芒種で、「面はなめらかで光沢のある漆黒色をしていた」。

 外見では、栽培種のジャポニカとインディカ種の中間のようであった。

 洪積世から稲の化石が発見されたのは、世界にも例を見ない。平均気温がいまよりも10度も低い寒冷な時代、ゾウやシカが日本列島をのし歩いていた時代に、熱帯産といわれる野生の稲がたくましく生きていたのである。

 直良は「熱いものを感じた」。

 江古田川・妙正寺川流域に広がる「江古田植物化石層」は、昭和12年春、水道工事の際に発見された。

 関東ロームの高台を削った谷底には、白い粘土層が厚さ2メートルも積もっている。1万6千〜1万1千年前、最終氷河期の針葉樹の化石を含んでいて、洪積世と沖積世を区切る重要な基準値層となっている。

 命名したのは共同で研究した京大の三木茂だが、間違いなく直良の発見である。

 直良は脱稿していた『日本古代農業発達史』に野生稲の発見を加筆し、昭和31年に発表している。

 だが、江古田植物化石層の発見は早くから認知されているのに対して、野生稲の化石については今日なおほとんど顧みられていない。

 旧石器時代に野生稲が存在したとする破天荒な発見をした直良とは、いかなる人物だったのか。


▢ 「明石原人」を発見。エリート研究者は冷たく


 直良(旧姓村本)は明治35年元旦、大分・臼杵の「恥ずかしいような極貧の農家」に生まれた。先祖は対馬宗家の流れを汲む庄屋だが、零落して祖父のとき稲葉5万石の藩士村本家に養子入りし、明治維新でふたたび没落した。

 8人兄弟の2番目、「冷や飯食い」「犬の糞」といわれる次男坊だった。2キロ離れた小学校に行く道すがら、天秤棒を担いで畑の野菜を売って歩き、下校時は畑の肥料にする馬糞を拾いながら帰った。

 父親は

「貧乏人の子は自分の名さえ書ければいい」

 が口癖で、直良は尋常高等小学校の高等科1年が終わると、口減らしのため東京の伯母のところに養子に出された。

 しかし伯母との折り合いが悪く、卒業とともに帰郷し、活版所に丁稚奉公した。その後、本屋に勤めたが、学問への情熱は募るばかりで、ふたたび上京する。

 恩師の家に下宿し、昼は給仕として働き、夜は岩倉鉄道学校で勉強した。猛勉強の結果、2年生のときに特待生となった。

 卒業後、農商務省臨時窒素研究所に勤めたが、肺結核で退職する。「両肺が水を吸った海綿のように腐り」かけていた。

 大正12年の秋、無念の思いで帰郷する途中、姫路に途中下車する。

 姫路には憧れの思い出の人がいた。寺の離れでこっそり勉強していた小学生の彼を、

「しっかり勉強して世界一偉い人になるのよ」

 と励ましてくれた奈良女子師範出のうら若い美貌の女性教師・直良音である。縁とは不思議なもので、翌年春、彼は10歳年上の音と結婚し、直良姓を名乗る。

 明石に移ると、医者が止めるのも聞かず、直良は鍬を手に、毎日、海岸を歩き回った。ゾウやシカの化石が数多く発見されると知ったからだ。独学で考古学の研究が始まった。

 数年間に石器や骨器10数点を発見、昭和6年4月18日には決定的な発見をする。西八木海岸の崩壊した洪積層土のなかから数十万年前のものと思われる人間の腰骨が出てきたのだ。

「身体の震えがしばし止まらなかった」。

 日本列島最古の人類「明石原人」の発見である。

 これで年来、主張してきた旧石器時代人の存在が証明できる。しかし在野の研究者に対する官学出のエリート研究者の目は冷たかった。

「日本に縄文時代より古い人骨があるはずがない」

「投身者の遺骨だろう」

「直良は山師だ」

 学歴のない悲しさである。直良は線路の土手で、「男泣きに泣いた」。

 やりきれない思いで7年の秋、直良は明石を引き払う。

 明石原人が世に認められるようになったのは、終戦後の23年で、発見から18年後のことであった。しかしそのとき人骨は不運にも20年5月25日の東京大空襲で住まいもろとも灰燼に帰していた。

「東京で勉強したい」

 上京した直良は早稲田大学理工学部の徳永重康の助手となり、19年に徳永が他界すると講師となった。戦争で教壇に立つ人が少なくなっていたのである。

 戦争は直良の生活を一変させた。空襲で焼け出されたうえに、妻が肋膜で倒れたのである。終戦後も困窮の日々は続いた。妻の腰巻きを洗い、庭の畑を耕し、大学で講義する。身体の休まるときはなかった。

 栄養不足でヒビやアカギレが全身を覆い、体調は思わしくない。正月の祝い物が買えず、自転車を売って年を越したこともある。

 そのうえ長女が結核を患い、妻は高血圧で寝たきりとなった。

 俸給だけではやっていけない。原稿書きで補おうと、睡眠時間は4時間に減らされた。

 そんな生活のなかで、稲の野生種は発見された。

 32年に『日本古代農業発達史』で文学博士の学位を取得する。病床の妻や子は涙を流して喜んだ。

 35年には助教授を飛び越して教授となる。だが、それもつかの間、40年には最大の理解者であった音が他界する。


▢ 最初で最後のナチュラリスト。著作60冊以上、論文400編


 葛生原人の発見、釣り針のルーツの解明、ニホンオオカミの消滅の謎解きなど、直良の業績は数知れない。活躍した分野は古生物学、考古学、地史学など、多方面にわたる。

 著作は60冊以上、論文は400編。珠玉のエッセイを残し、スケッチは芸術の域に達している。

 事実から真理を追究する、あくなき探究心は心を打つものがある。1人の研究者が一生涯のうちによくもこれほどの量の研究ができるものだと感心させられる。

 国立歴史民俗博物館の春成秀爾は、「学問の分化が進んでいった時代に育った最初で最後の偉大なナチュラリスト・博物学者」と直良を評価する。しかしすんなりとその価値が認められたのは、江古田植物化石層ぐらいである。

 直良は後年こう語っている。

「人より少し先を走ると誉めそやしてくれるが、あまりに先を走ると馬鹿にされ、キチガイ扱いされる」

 直良は少なくとも10年、生まれるのが早すぎたようだ。

 晩年、直良は音の故郷である、神々の聖地・出雲で暮らし、昭和60年、挫折と栄光の83年の生涯を閉じた。

 発見された「野生稲」の化石はいま、ある博物館の倉庫に眠っているらしい。

 直良が子供とフナやクチボソを釣った妙正寺川は改修されてコンクリートの川となり、道路や橋なども昔日の面影はない。

 江古田植物化石層からその後、「野生稲」は発見されていない。


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