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竈神はどこへ──土間もヘッツイも姿を消したが [稲作]

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竈神はどこへ──土間もヘッツイも姿を消したが
(「神社新報」平成7年4月10日号)
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 前回は電気釜を取り上げた。

 東芝社内で「お釜の正吾」の異名をとったという、開発者の山田正吾さんは洗濯機、冷蔵庫、餅つき器、電子レンジ、ミキサーなど多くの家電製品の開発に携わった人で、日本の家電の歴史そのものといっていい。

 ところが「電化製品の普及は女性の家事労働の軽減になると信じていた」というフェミニストはいま自責の念にとらわれている。

「日本人の生活様式が変わり、女性の社会進出が進んだ反面、古き良き時代の文化が忘れられている。いまの女性は和服も1人で着られない。日本の女性を堕落させた張本人は私かも知れない」。

 台所の近代化とともに姿を消したかに見えるものがもうひとつある。それは女性が祭祀を司った竈神(かまどがみ)である。竈の神様はどこへ行ってしまったのか──。


▢ 竈に神が宿っていた
▢ オカマサマの民間信仰


 東京の東北端・葛飾区水元──。

 中川(古利根川)と江戸川に囲まれ、平安期から室町にかけては「葛西御厨(かさいみくりや)」、江戸期は天領で、ついこの間まで「葛西三万石」といわれる東京の穀倉地帯であった。

「2・26事件があった次の年」の1月、21歳の大川アグリさんは川向かいの八木郷村(いまの三郷市)から水元飯塚に嫁いできた。大川家は元禄期にさかのぼる旧家で、「水田が一町五反」「若い衆が3人」いた。

「霜が降りて寒い日」だった。

「早く起きて、毛布にくるまってリヤカーで髪結いに行ってね、そのあと氏神様とご先祖様のお墓に『お世話になりました』と挨拶に行ったんです」

 午後に花婿の栄三さんがやってきて、お披露目する。これが「ムコ入り」で、一足先に栄三さんが帰ったあと、アグリさんがタクシーに乗って「ヨメ入り」したのは夕方だった。

 県立松戸高女出の才媛を一目見ようと、「大勢、人が集まってきてね、恥ずかしかったです」。

 白無垢に角隠しのアグリさんは菅笠を頭にかざしながら家の門をくぐり、まず勝手口から母屋の釜屋に入る。広い土間に泥を固めた2つの釜が並んでいた。

 暗い土間に赤々と燃える釜は人知を越えた魔力を感じさせた。5升炊きの飯炊き窯を置く左側の竈の正面の柱に祀られたオカマサマに

「よろしくお願いします」

 と拝礼。そのあとあらためて表玄関から入り直して、座敷で親族総出の祝言が幕を開けた。

 翌日から朝早く起きてワラを燃やし、自家製のつぶし麦を三分入れたイギリメシ3升を竈で炊く、嫁の生活がいよいよ始まった。


▽ オカマサマの団子が楽しみ


 家族の楽しみの1つは新暦10月31日の「オカマサマの日」だった。

 オカマサマは翌年の縁談を決めるため、神無月には出雲に旅立たれるのだという。そこでこの日の夜にしん粉団子と野菜の煮物をオカマサマにお供えするのである。

 午後、石臼でひいた3升の米の粉を熱湯でこね、蒸籠でひとふかししたあと、照りと粘りが出るように若い衆が杵と臼でついた。

 お供え用の団子は「鉄砲玉ぐらいの大きさ」に丸める。

「オカマサマの団子は数ばかりといってね、小さいのを31個、作るんですよ」

 団子は重箱に三角に盛り、うえに小豆のさらし餡をのせた。

 黒いお膳にワラを編んだ釜敷きを敷き、そのうえに重箱を置く。里芋と人参の煮物を二皿、左右に置き、モロコシでこしらえた箸を2膳、添えた。

「神様のことは男の人の仕事というのが家例」で、大川家では栄三さんがオカマサマに灯明をともし、団子をお供えして拝礼した。儀礼が終わると家族みんなで団子を食べた。

「餡ころ餅なんか滅多に食べられないですから、みんな大喜びでした」

 1か月後の11月30日にオカマサマは出雲の国からお帰りになる。「帰りオカマ」ともいう。この日は30個のしん粉団子を供えた。

 翌日12月1日は「ハナヨゴレ」。お供えの団子や残った団子をお汁粉にして神棚と仏前に供え、そのあと家族でお汁粉をいただいた。

 あまりに美味しいので、子供たちが鼻を汚しながら食べるために、その名がついたと説明されている。

 オカマサマは農耕の神でもあった。

 5月下旬、近所や親戚の人たちも手伝って、田植えが始まる。田植えの終わるサナブリの日はご馳走で祝った。

 栄三さんは菅笠をかぶり、早苗3把を12に分けて、オカマサマに並べて供え、拝礼した。苗は暮れのすす払いまでそのままにしておかれる。

 柳田民俗学ではサナブリはサノボリで、田の神が田から上るのだと説明している。


▢ 失われたムラの民俗
▢ 引き継がれて家の神に


 竈神を祀るという民間信仰は、全国的なものである。

 竈の近くに神棚を設け、神札や幣束を納めるのが一般的だが、陸前ではカマオトコとよぶ恐ろしい顔のお面を柱に祀る。畿内では普段は使わない大釜のうえに松や榊を供える。

 地域によっては荒神様、土公神などと呼ぶ。

 民俗学者の郷田(坪井)洋文によれば、「いずれも火の神と農耕神の二面を持っている」。祭祀の司祭者は主婦であった。

 荒神とオカマサマを併祀する例も、岩手県気仙郡、福島県伊達郡、栃木県下都賀郡、長野県小県郡など、全国に及ぶ。とくに東日本に多いようだ。

 郷田は、もともと荒神とオカマサマは「異なった2種の信仰」で、「オカマサマがかつては日本全土にオカマの神として信仰され」、のちに火の神である荒神が田の神の「オカマサマの信仰と習合」したと説明する。

 葛飾では最近まで、年配の人たちは「東京に行ってくる」と表現したという。隅田川の東はかつては下総の国であり、葛飾が東京市に編入されたのは昭和7年である。

 戦後の耕地整理が完了し、中川にかかる飯塚橋が完成して、飯塚の渡しがなくなる昭和30年ごろから急速な宅地化が進む。いまでは水田を見出すことすら難しくなった。

 大川家でも委託生産する3反歩の水田が残るだけである。

 ご飯を炊くのも戦後はヘッツイの竈からタイル張りで三連式の文化釜に、20年前にはガス釜に取って代わり、5年ほど前には竈もなくなった。

 いまオカマサマは台所の片隅の神棚に祀られている。出雲への送り迎えは10年ぐらい前から行われていない。

 水元飯塚の氏神、冨士神社の森山高暉宮司は、

「竈土大神の御神札の頒布数が極端に減ったわけではないが、台所の神様になったり、神棚に納められているのがほとんどでしょう。ヘッツイのある家は見かけないし、
荒神様の祭りも最近は聞かないですね」と語る。

 農村の近代化、都会化のよってオカマサマを祀るムラの民俗は廃れてしまったのか、といえば、それほど単純ではないらしい。

 郷田は、田の神であるオカマサマが山(田)→家、家→山(田)の去来信仰を次第に失い、同時に田から屋敷へ、庭から竈へ、さらに納戸、屋根裏へと祀り場所を移動させて、固定した家の神が成立することを指摘した。

 また、神奈川大学の宮川登教授(民俗学)は、

「竈というモノが消滅したとしても、霊的な意識は消滅しないで、別なかたちで引き継がれるんです」と指摘する。

 実際、田の神であり、火の神であったオカマサマは家の神として引き継がれているようだ。


▢ 発生する都市の民俗
▢ いま釜炊きがブーム


 家庭からは姿を消したかに見える竈と飯炊き釜はじつはまだ廃れていない。それどころか、「ブームになりつつある」。

 道具街として知られる東京・浅草合羽橋の釜専門店・釜浅商店の店先にはさすがに泥のヘッツイはないものの、昔懐かしいツバ釜を乗せた薪用の組立釜が並んでいる。

「暮れが近づくと、幼稚園のイベント用などに組立式の竈が売れますよ。秋に雑誌で紹介されてからは、毎日のように問い合わせがあります。ツバ釜はこだわりを持つお寿司屋さんなどのほかに、最近は毎日何本か、かならず一般の人が買い求めていきます。ヘッツイがなくてもガスコンロ用の台がありますから」

 道具街のそばの矢先稲荷神社(高島邦夫宮司)では、組立式の竈を使った餅つき大会が毎年1月下旬に境内で催される。

「20年ぐらい前からですかね、町内会の青年部が始めたんです。ひと頃は600人ぐらいの子供が集まって賑やかでしたよ」

 境内で餅つき大会をする神社はむしろ都会で増えているらしい。ムラの民俗は失われていくけれども、それに代わって新しい都市の民俗が生まれているといえないだろうか。


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