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杓文字を作る人々の祖神「惟喬親王」──没落した渡来氏族の悲しい歴史 [食と農]

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杓文字を作る人々の祖神「惟喬親王」
──没落した渡来氏族の悲しい歴史
(「神社新報」平成7年5月15日号)
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 甲子園のアルプス・スタンドで広島県代表校の応援団がたたいて鳴らす杓文字(しゃもじ)の音は、高校野球に欠かせない風物詩だが、今春(平成7年春)の選抜野球では阪神大震災の余波で自粛された。

 杓文字は敵を“メシ取る”という縁起かつぎで、応援席に陣取る身の丈ほどもある大杓文字は、「安芸の宮島」で授与されたものである。

 厳島神社が参拝者に授与するようになったのは、江戸・寛政年間、「参拝の証として適当の土産品なかりしを嘆き、且つまた窮民に垂るる憐愍の心」(『厳島』)から、僧誓真が楽器の琵琶のかたちにヒントを得て創作したといわれる。

 100年後、日清戦争が始まると「これは敵をメシトルなり。征戦の首途にすこぶる吉兆」として、武運長久を祈る出征兵士やその家族が回廊の柱に打ち付けた。

 いま祈願絵馬よろしく、千畳閣(豊国神社)に山のようにうずたかく宮嶋杓文字が奉納されるまでになった経緯である。

 それにしても、なぜ日本人の信仰と杓文字が結びついたのであろうか。


▢ 不予にまします元正天皇に
▢ 強飯を奉った多賀大社伺官

「杓文字」は「柄杓(ひしゃく)」の女房言葉である。いまでは水をすくうのは柄杓、味噌汁をよそうのは杓子(しゃくし)、ご飯を盛るのは杓文字とほぼ使い分けているけれども、じつはみなまったく同じ道具だった。

「柄杓」の語は、瓢箪(ひょうたん)の異称「瓠(ひさご)」がなまったもので、古代人は乾燥させた瓢箪をタテ割りにして、水や汁や飯をすくったらしい。

 瓢箪はその独得な形から神霊の容器と考えられ、杓子はくりぬかれた中央のくぼみに神霊が宿るとして神聖視されたと民俗学では説明している。

 近世、爆発的に流行した伊勢群参のお蔭参りで、巡礼者が曲物柄杓を腰にさした背景にはこうした信仰がある。

 柄杓と神社との結びつきは、ほかにも例がある。

 滋賀県犬上郡の多賀大社には、有名な「お多賀杓子」がある。年間10万本が参拝者に授与されるそうだ。

 同社がまとめた『多賀神社史』は、

「元正天皇の養老年間中、天皇、不予(ご病気)にましまし、供御(くご)を聞こし召されなかったにより、本社に御祈願あり、伺官ら忌火をもって強飯を炊き、神山の#(木偏に夫)栘(しで)の木をもって杓子を作り、これに副えて奉ったところ、とみに御悩みの平癒を見た」

 とその由来を記している。

 話はさらに続き、杓子を作った木の枝を地面に差したところ、根が生じたのが、田園にいまも大きな枝を広げるケヤキの大木の「飯盛木(いもろぎ)」で、男木と女木があり、県の天然記念物に指定されている。

 元正天皇(第44代)は、史上8人10代おられる女性天皇のお一人で、霊亀元(715)年9月、母君・元明天皇(第43代)の譲位を受けて、36歳で即位された。

 2代続いた女性天皇であるが、元正女帝の父君は草壁皇子(天武天皇の皇子)であって、むろん、いわゆる女系継承ではない。

 何よりも激動の時代であった。

 元正天皇をテーマにした小説がある。

 作家・永井路子氏による『美貌の女帝』で、次第に勢力を拡大させて、ついに政治の実権を握る藤原氏との確執のなかで、長屋王(父君は天武天皇の皇子・高市皇子)との恋を断念し、女帝の運命を甘受して生きる「蘇我の娘」として同帝を描き上げている。

 元明天皇の母は蘇我氏の出であった。そして氏族間の政争に巻き込まれるのである。

 簡単に歴史を振り返ると、霊亀3年3月、左大臣・石上(いそのかみ)朝臣麻呂の死によって、右大臣・藤原不比等は文字通り政界の第一人者にのし上がった。

 不比等は、蘇我本宗家を滅ぼし、大化改新を達成させた立役者の1人、中臣鎌足の次男で、鎌足の後継者として着々と権力の階段を駆け上ってきた。

 しかし養老4(720)年8月に不比等が病を得て薨じると、皇親派は巻き返しを図り、翌5年1月には大納言・長屋王が右大臣に昇進して、政権を掌握する。

 元正天皇は甥の首(おびと)皇太子(聖武天皇、第45代)に譲位されたのちは、太上天皇として権限を発揮された。

 ところが、神亀6(729)年2月、頼みとする従弟の長屋王が自害し、室の吉備内親王(元正帝の妹君)が殉じて、一族は滅亡する。藤原氏による陰謀事件といわれる長屋王の変である。

 同年8月、年号は「天平」と改まり、不比等の女・安宿媛(あすかべひめ)が立后する。聖武天皇の皇后となるのである。

 それから20年後、元正上皇が69歳で崩御。かくして蘇我稲目以降、大和政権の中枢にあり、また皇室を凌ぐほどの権勢と栄華を誇った蘇我氏の命脈は完全に途絶え、藤原氏が取って代わることになる。

 話を多賀大社の社伝にもどす。

 養老年中に元正天皇が病を得たという記述は、少なくとも『続日本紀』のなかには見当たらない。

 また、不思議なことに、江戸中期に書写された『多賀大社儀軌』第一の「飯盛木之事」の項は、元正天皇の故事についてまったく言及していない。

 そのため故事は「諸国を勧進廻りした近世の坊人たちが延命・長寿の御神徳を弘布するために“養老”という年号にあやかった創作だ」と見る人もいる。

 しかしそう簡単に割り切れるものだろうか。

 というわけで、多賀大社が鎮まる近江、さらに奈良を取材することにした。

 近江といえば、畿内と並んで、古来、大陸との関係が深い土地柄であった。湖東地方には渡来人の集落が新たに築かれ、高度な大陸文化が栄えていたようだ。

 唐・新羅連合軍10万の前に滅亡した百済の王族や貴族が、大挙して亡命していたからである。

 多賀大社が鎮座する犬上郡の首長であった犬上君御田鍬(みたすき)は遣唐使、遣隋使として大陸にわたり、帰国のたびに百済や唐、新羅からの使者を連れ帰った。それだけ大陸との結びつきが強かったようだ。

 また、蘇我氏は百済系の渡来氏族だとする説が有力で、少なくとも有力渡来氏族と密接な関係を持ち、多くの渡来民を傘下に置いていたことは間違いない。

 ところで、元正帝の治世のころ、ご飯といえば蒸した強飯(こわめし)だったらしい。

 民俗学者の篠田統氏によると、一般に煮飯が主流になるのは釉薬がかかった陶鍋や陶釜が普及する平安中期以降だというのである。

 それ以前は精白技術が十分ではなかったから、ぽろぽろの強飯を食べていたらしい。とすれば、へらの杓文字ではご飯をうまくすくえなかっただろうと思われる。

 元正帝に強飯を奉った杓子がどのような形状だったかは情報がないので分からないが、多賀大社に伝わる「お多賀杓子」は、明治期まではお玉の部分がくぼんでいて、柄はオタマジャクシの尻尾のように曲がっていたようで、その珍しさから盛んに文学に取り上げられた。

 たとえば──。

手強さはお多賀杓子の荒削り ゆがみなりにも命長かれ


▢ 紀氏の末裔・惟喬親王を
▢ 祖神として祀る木地師たち

 杓文字はお椀やお盆などと同じく、木地師と呼ばれる漂泊の山民によって作られた。

 彼らは生産物を、里に定住する農耕民の穀物などと交換した。このため杓文字は山という異界からもたらされる呪具として、里人から神聖視されたと説明されている。

 琵琶湖に注ぐ愛知川を30キロほど遡った袋小路のような鈴鹿山脈の山中に、中世以来、木地師の根源地・発祥の地として広く知られた地域がある。

 君ヶ畑(きみがはた)、蛭谷(ひるたに)、箕川(みのがわ)、政所(まんどころ)、九居瀬(くいぜ)、黄和田(きわだ)の小椋谷(おぐらだに)六ケ畑である。

 木地師たちは「悲運の皇子」惟喬親王を祖神として崇めるという信仰を持っていた。いや、いまも持ち続けている。人々は「親王さま」と呼んで慕い続けている。皇室の物語は暮らしと直結しているのだ。

 中世以降、全国に分布する木地師集落には親王伝説が伝わり、彼らは自分たちを親王の末裔と信じてきたのである。

 惟喬親王は、というと、文徳天皇(第55代)の第一皇子であられた。

 蔵人・紀名虎(きのなとら)の女・静子を母として、承和11(844)年にお生まれになった。右大臣・藤原良房が政治をもっぱらにし、勢力を拡大したころである。

 承和9年7月、承和の変をきっかけに良房は覇権への道を歩み始める。

 仁明(にんみょう)天皇(第54代)の崩御に先立って、女・光明子(あきらけいこ)を入内させ、文徳天皇即位の直後に惟仁親王が生誕されると、今度は惟高、惟条(これえだ)、惟彦の3兄親王をさしおいて、生後9か月で立太子させた。のちの清和天皇(第56代)である。

 惟喬親王は皇位継承の機会を失い、他方、良房は太政大臣に任じられ、さらに摂政となり、藤原氏による摂関政治の基盤がつくられる。

 惟喬親王が「悲運の皇子」と呼ばれる所以である。

『三代実録』は、惟高親王が貞観14(872)年に出家され、洛北小野に幽居されたと記している。しかし同16年以降、親王の動静は正史からはうかがえず、入寂の日も明らかではない。

 ところが、木地師たちが信じている惟喬親王伝説によると、出家された親王は密かに愛知郡小椋谷の深山に入御され、小松畑を仮御所として幽棲されたことになっている。

 法華経を読誦する日々を送っていた親王が、ある日、法華経の巻物が転がる原理から、手引き轆轤(ろくろ)を考案され、侍臣に命じて村人に伝えさせた。

 こうして日本の木地業がおこり、小椋谷が木地師の根源地となったというのである。

 君ヶ畑には親王を祭神として祀る大皇器地租(おおきみきじそ)神社、蛭谷には筒井神社が鎮座し、かつては両社の神主が全国の木地師たちを支配した。

 両社だけではない。各集落ごとに親王を祀る、立派なお宮が鎮まり、小椋谷は親王一色に染め上げられている。

 小椋谷のある愛知郡(いまは神崎郡永源寺町から、さらに東近江市)といえば、愛東町には推古天皇の御代に聖徳太子の願いで創建されたという近江最古の名刹・百済寺(ひゃくさいじ)があり、湖東地域でとくに大陸文化の色濃い土地柄でもある。

 その愛知(依智)郡一帯を開拓したのは、やはり渡来民の依知秦氏だといわれる。鋭い刃物を使う轆轤の技術は高度な製鉄の技術が前提で、その技術は百済の技術民がもたらしたものらしい。


▢ 紀氏は「蘇我氏の支族」だった
▢ 紀氏神社のそばに眠る長屋王

 親王を生んだ紀氏は、紀伊国に本拠を置き、中央豪族として成長した。5、6世紀に大和朝廷が朝鮮半島に進出した際の活躍にはめざましいものがある。

 その一派は大和国の平群(へぐり)に移り住んだ。生駒郡平群町に氏神の平群坐紀氏(へぐりにますきのうじ)神社がいまもあり、高市郡には氏寺の紀寺(きのてら)があったといわれる。

 また、湖東地域は平安初期には紀氏の所領であり、江戸初期まで紀氏が根を下ろしていたらしい。

 紀氏と蘇我氏との共通点は少なくない。たとえば、武内宿禰(たけのうちのすくね)の臣(おみ)系豪族であることなどである。

 それどころではない。

 橿原市曽我町の宗我坐宗我都比古(そがのそがつひこ)神社の宮座に伝わる由緒によると、元正天皇の祖母に当たる持統天皇が、蘇我一門(本宗家)の滅亡を哀れんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男・徳永内供に「蘇我氏の支族」である紀氏を継がしめ、内供の子・永末に祖神を奉斎するための土地を与え、社務と耕作をになわせた。

 それが同社創建の縁起だとされている。

 さらにもうひとつ。

 奈良・平群町の平群坐紀氏神社から1キロも離れていない、目と鼻の先に、長屋王とその妃・吉備内親王の墓所が仲良く並んでいる。

 蘇我氏と紀氏とのきわめて近い関係をうかがわせる。

 紀氏は蘇我氏ほどではないにしても、一時は外戚として栄えた。だが、応天門の変以後、その勢いは衰え、政治の表舞台から姿を消し、文学の世界に遊ぶようになる。

 それはちょうど藤原氏の台頭のカゲで、蘇我氏が滅んでいったのと似ている。

 元正天皇の杓文字伝説と惟喬親王伝説との不思議な符合には、没落した渡来民の悲しい歴史が隠されているように思えてならない。逆に、悲しい記憶が親王伝説を生んだのかも知れない。


▢ 危機に瀕する木地師の祭り
▢ 出でよ「平成の南方熊楠」


 記者が湖東に旅したのは、3月上旬、まだ日陰に雪が消え残り、明け方はしんしんと冷えた。

「筒井千軒、琵琶湖に影がさす」といわれるほど繁栄した小椋谷に、いま木地師の姿はない。

 明治政府によって山林改革が実施され、戸籍法が施行されて、「飛び」の生活は認められなくなり、全国に数万人いたという彼らの栄光の歴史は幕を閉じた。

 戦後は住宅ラッシュで良材が失われ、そのうえ外材の輸入で林業が振るわなくなり、六ケ畑は過疎の村に転落した。

「30年前は発電所に人がウジャウジャいたのに、過疎化は進むばかりです。子供は1割に減ったし、政所は半分以上が空き家ですよ」

 と嘆くのは、野神照嗣宮司さん。小椋谷のすべてのお宮の宮司を務めている。

 高齢化も悩みの種で、「祭りは簡素になる一方」だ。裏山での嶽詣り神事は、本来の「お池」ではなく、いまは山の麓で執り行われる。

 若衆入りの御供盛り神事は、かつて一人前の証であったが、いまは「若衆を持たん」。何よりも若者がいないのである。

 深刻なのは蛭谷である。

 もともと筒井峠にあった集落が人口減から、明治初年に現在地に移転した。それがいままた風前の灯火となっている。

 氏子はわずかに5軒だけ。「字(あざの)神主」「区長」「氏子代表」の3人が少なくとも祭りには必要だが、「男3人しかいないから、1年交替で回り持ち」の状態だ。

 大榊の神輿渡御は20年前からできなくなった。氏子総代の小椋正美さんは「あと5年くらいは大丈夫」と楽観するが、10年後、20年後のことは誰にも予想が付かない。

 すでに無人となった集落もある。

 君ヶ畑のさらに山奥の茨川はかつての鉱山で、轆轤に欠かせないノミはここの鉄鉱石で作られた。江戸期には約1000人の鉱夫で栄えたが、昭和45年に廃村になり、地図から消えた。

 いまは天照神社神社だけが寂しく鎮まっているという。10月の例祭に、もとの氏子たちが近県から、決まって帰ってくるのが唯一の慰めになっている。

 その昔、小椋谷と木地師支配本所の正統性を競い、いまも「こっちの方が古い」と対抗意識を燃やす多賀町大君ヶ畑(おじがはた)も事情は変わらない。

 惟高親王を祀る白山神社の宮守になると、年3回の「三季の講」には何があろうとも帰ってきて勤め上げるという村のしきたりに従う若者は「いなくなってしまった」。

「ワシら、親の言うたことを守ってきたが、これからアカンようになるやろ」と祭りの保存に熱心な橋本勇さんは寂しそうに語る。

 古儀を守れなくなっているのは、多賀大社とて、例外ではない。

 各字ごとに数人ずつ緒役を出すのが慣例であったが、「過疎でふだんは住民のいない字もある」。

 字がおカネを出し、学生アルバイトを雇って、祭りが存続されているのが現実だ、と中野幸彦権宮司は苦笑する。

「字神主」を30年前に務めた君ヶ畑の牧谷辨治さんは「字神主になると月に9度の朝詣りをする。緊張の連続で、薄明のなかで社殿の御扉を開けるときは、心が洗われるような感動を覚えた」という。

 いま危機にさらされているのは、祭礼の形式ではなく、神に奉仕する心を伝えることであり、“神体験”の伝承かも知れない。

 明治の末期、神社合祀の嵐が吹き荒れ、多くの神社が歴史と伝統を喪失した。いま同じことが過疎という時代の波によって起きている。

 かつて民俗学者の南方熊楠は神社合祀に猛反対したが、「平成の南方熊楠」の出現を待つお宮はけっして少なくない。

 さて、お多賀杓子である。

「ゆがみなりにも」と伝えられる杓子の実物をどうしても見たい、と思って、ほうぼう探したが、見つからなかった。多賀大社の授与所にも杓文字型のものしかない。中野幸彦権宮司は「いまはない」とつれなかった。もしやと思って、町の民俗資料館にも足を伸ばし、倉庫にも入れてもらったが、やはり見当たらなかった。

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コメント 2

さいちゃん

戦後の知識人は、明治になって、天皇は可視化されるようになったとか、それ以前の日本人は天皇の存在を知らなかったとか、訳知りに主張しています
けれども、木地師たちのように、明治までの日本人の天皇意識は、むろん国民を単位とするものではありませんが、生活ときわめて密着しており、そのため非常に多彩で、より根強いものがあったことが分かります
by さいちゃん (2018-02-04 12:20) 

三銀蔵

昔のお多賀杓子 載せています。
杓子は修験者が修行中につくったものを持帰り、お土産にしたのがルーツではないかと思っています。多賀大社の坊人は、修験者です。そして、後、木地師の方にお願いするようになったのではと推測しています。
by 三銀蔵 (2019-02-02 15:53) 

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