日照りのときは涙を流し──東京・川の手 2人の神職の物語 [神社人]
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日照りのときは涙を流し
──東京・川の手 2人の神職の物語
(「神社新報」平成7年6月12日号から)
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「日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」
病床にあった晩年の宮沢賢治が「雨にも負けず」を手帳に書き付けた昭和6年の秋、東北・北海道は大飢饉に襲われていた。
この詩は大自然の猛威に対する人間の無力、そしてそれゆえにこそ、神々に無心に祈ることの尊さを教えてくれる。
一昨年(平成5年)は冷夏と長雨に泣き、昨年(同6年)は猛暑と水不足に苦しんだ日本列島──。女心どころか、気狂いしたかのような異常気象に、人はなす術を知らない。
科学万能の時代にあって、いまだ人間は台風を避けることもできず、逆に雨粒一滴も降らすことはできない。
人間は水がなくては生きてはいけないが、その水が神々の手に委ねられていることは、昔も今も変わらない。
命の支えである一方で、ときには尊い人命をも奪い去っていく水──。
今回は、この水について、「水干ともに患う」といわれた東京・川の手に生きた、2人の神職の生き方を通して、考えてみたい。
▢1 関東平野を沃野に一変させた伊奈氏三代の治水工事
私たちの身体は体重の3分の2までが水だという。生命を維持するには、食物と水が不可欠であるが、面白いことに、食物だけを摂取した場合よりも、水だけを摂取した場合の方が、長く生命を保つことができるらしい。
まさに「生命の水」である。
古来、日本人が水を神とあがめ、清らかな湧水や井戸水を重要な神饌として天神地祇に捧げてきたのは、「生命の水」なればこそだろう。
水はまた田畑を潤し、豊穣をもたらす稔りの源泉である。ゆえに水禍を防ぎ、旱魃に備えることが人類の永遠のテーマとなる。
現代人は、蛇口をひねれば安全な水を簡単に手に入れることができると、ともすれば思い込みがちであるが、それは単なる現代文明の幻想に過ぎない。
たとえば、関東平野の中央を流れる利根川は、日本でもっとも流域面積の広い、日本を代表する河川であるが、ひとたび氾濫すれば、手に負えなくなる暴れん坊で、「板東太郎」と異名をとったほどである。
そのため天正18(1590)年に江戸に入府した徳川家康は、新田開発とともに、河川改修に取り組むこととなった。
もっとも代表的なのは、当時、江戸湾に注いでいた利根川を鹿島灘に東遷させるという大工事だった。
工事を指揮したのは、関東郡代・伊奈忠次、忠政、忠治の三代である。
伊奈氏三代の闘いは、65年におよび、関東平野を貫く河川の流れは一変し、氾濫原は沃野に生まれ変わった。
▢2 無私無心なればこそ天つ神に通じた祈雨
葛飾区高砂の毛なし池(葛飾区のHPから)

時代がくだり、江戸から東京に変わったばかりの明治6年、東葛飾郡(いまの葛飾区)の人々は酷暑に苦しんでいた。
なにしろ雨の降らない日が何十日も続き、大地は乾き、水田は干上がってひび割れた。
4年前は冷夏と水害に見舞われていただけに、農民たちは恨めしそうに、空を仰いでいた。
古利根川の下流・中川のほとり、高砂の毛なし池に鎮まる神社に、人々はワラにもすがる思いで、雨乞いをすることを決めた。
天水分神(あめのみくまりのかみ)をまつる同社には、旱魃のときに神池の水を田畑に注いで祈願すると雨が降る、という言い伝えがあったからである。
同社に残された記録によれば、8月14日から3日間、氏子一同による祈雨が斎行された。
「頃日絶久不雨降天津日乃光不得堪植田蒔苗鳥獣虫草木至迄焦損凋枯為諸人等憂吟以為使無天都水仰待」
霊験あらたかというべきか、16日の夕刻、待ちに待った雨が降ってきた。
けれども、乾ききった大地はまたたく間に雨水を吸い込んでしまう。氏子たちは肩を落として帰っていった。
同社の神職は、その晩からたった1人で社殿にこもり、以前にも増して一心に祈ったという。
すると、28日の満願の朝、雨雲が辰巳(東南)と戌亥(西北)の方角から湧き出で、徐々に空を覆っていった。
黒雲はちょうど神池の真上でぶつかり、雷鳴とともに、ついに大雨が降ってきた。
身命を賭した祈りは天つ神に届き、大地は生き返ったと伝えられている。
残念ながら、この神職の雨乞いの伝承を証明する史料は見当たらない。東京気象台が観測を始めるのは、2年後の明治8年6月からである。
しかし葛飾ではないが、弘化2(1845)年から明治12年までの35年間、東京・町田市馬駆の天気を連日克明に記録した『佐藤晴雨日記』というものがあり、これによると、「明治六癸酉(みずのととり)」は、
「7月2日朝曇、午前8字(ママ)小雨」
のあとは40日以上も干天が続いている。二度、三度と村で雨乞いが行われているほどだ。
その後、ようやく
「8月16日晴、午後5時雨、16日夜雨」
「17日晴、午前9字(ママ)大雨、直に晴」
と待望の雨が降り、
そしてまさに
「28日雨、28日午前6字(ママ)7時小雨」
「29日雨在り」
「30日雨有り」
と3日間、雨が続いたことが確認される。
葛飾区の神社に伝わる雨乞いが雨を降らせたなどとは断定できないが、少なくとも東京地方でこのとき雨が降ったらしいことは確認できる。伝承はけっして作り話ではない。
同社の神職は、天保3(1832)年の生まれで、もとは「百姓」だった。
神仏分離のとき、別当寺の本寺の願い出によって、「兼神道執心罷在候」のため、「百姓株悴(ママ)権次相譲」、改名のうえ、明治3年、神職となったと当時の文書が伝えている。
3年前までは自分も「百姓」だっただけに、旱魃の恨めしさを痛いほど感じていたに違いない。
ことに榛名山への信仰が人一倍篤く、下駄履きのまま、ひょいと家を出たかと思うと、歩いてお山に向かい、ひと月も帰宅しないことがしばしばだった。
正妻のほかに内妻が2人いたという俗臭さを持っていた反面、修験の山で魂を磨くことを怠らなかったのだろう。4代目に当たる現宮司はこう語る。
「雨乞いのような祈祷は結果がすぐ見えるし、神職の資質と信仰が問われる。願主と心を1つにして、神様の前に自分を無にしなければ、とてもできることではありません」
いうまでもなく、斎戒には、外清浄と内清浄がある。内清浄を軽視すれば、明鏡止水の境地に到達できようはずはない。
初代宮司は自分の死亡日時を予言し、みずから霊璽を墨書し、木像を刻んだ。そして予言通り、明治35年2月27日の午後11時、71歳で帰幽した。
常人離れした霊力を備えていたのであろうか。残念ながら、その人となりを直接知るのはすべて鬼籍の人で、これ以上詳しいことは分からない。
▢3 神と自然と人にかしづく句作が不断の「心の禊ぎ」
さらに時代はくだり、昭和38年3月、葛飾区高砂から江戸川区を貫いて江戸川に注ぐ中川放水路(新中川)が完成した。人工の川である。
「ともすれば、たぎりあふれて堤を崩し、町々の産業(なりわえ)をそこなうのみならず、都の東の江戸川区、葛飾区、足立区、また埼玉(さきたま)の県(あがた)の一部をもしたして、濁り江の水のちまたとなすこと、免れ得ぬならいを憂(うちた)み、思おい」
河口近くの今井水門完成後の通水式に、江戸川区のある神社に奉仕する宮司が奏上した祝詞の一節である。
海抜ゼロメートル地帯の江戸川区は、たび重なる水害に苦しんできた。だからこそ、25年にわたる工事の末に完成した放水路は、
「都の東の人らは申すにおよばず、埼玉の県の人たちに大きな利益と恵みを授けたまえる」ものだった
しかし宮司自身はもうひとつ別の思いも抱いていたらしい。
そのむかし、宮司が奉仕する村の鎮守は、果てしなく広がる蓮田に囲まれた、静かな田園だったという。明治32年生まれの宮司は、ネコヤナギが芽吹き、ヨシキリがさえずる、美しい豊かな自然のなかで育った。
宮司は「鳴瀬」と号する俳人で、蓮を好んで詠んだことから、「蓮の鳴瀬」の異名をとった。
「私の俳句は『泥臭い』ですよ。土の匂いがぷんぷんするんです」
田園詩人の俳風は、青年時代、百姓仕事に従事したからだけではなく、戦後、江戸川、葛飾の神社数十社を兼務して磨きがかかった。
同じ区内でも自然は多様で、湿地もあれば、砂地もある。粘土もある。土が人を育て、村独特の気風、習慣、言葉遣いまでが形成される。
「それが産土(うぶすな)なんだよ」
「土をバカにしてはならない」
宮司の口癖だったという。
神と自然と人にかしずくように前屈みで歩く「鳴瀬の畏(かしこ)み歩き」は有名だった。自然に神々が宿り、人間は神の宮であるという信念を実践した。
市井の人と分け隔てなく、気さくに偉ぶらずに交わった。おカネに執着しないから、大事にしていたバイオリンを惜しげもなく乞食に与えてしまう。不幸な境遇に耐えかねて自殺しようとまで思い詰めた女性に、句作を勧め、死を思いとどまらせたこともある。
よく通る、透明感のある、いい喉だった。詩情あふれる祝詞は氏子を魅了し、とりわけ弔辞は参列者の涙を誘わずにはおかなかった。他方、宴席ではちょっと淫猥な自作の歌が人気を博したという。
人徳ばかりではない。節分祭の神事芸能など、お宮の行事を作れば、たえず人が自然に集まってくる。境内には自然があふれ、人々の「心のオアシス」だった。
けれども今井水門が完成したころから、区内の歴史的な地名が新しくなり、同時に蓮田は消え、都市化が進んだ。
そんなとき宮司は自宅で転び、足を負傷した。リハビリすれば歩けるようになるものを、あっさりと車イスの生活を選び、二度と外の世界を見ようとはしなかった。
医者嫌いのせいもあろうが、蓮田のなくなった古里を見たくはなかったのではないか。
宮司にとって神々は身近にいた。それは美しく、ときに荒ぶる自然であり、また人間の誠の心であった。ものぐさで、たまにしか禊ぎをしなかったのは神職として誉められたことではないが、「水垢のついた句は作らない」を信条とする句作は不断の「心の禊ぎ」だったのだろう。
晩年、宮司はこう詠んだ。
神に仕へなぜか寂しき麻暖簾
「なぜか寂しき」にどんな思いをこめたのだろう。
昭和55年の春、郷土の自然と人をうたった30冊の大学ノートいっぱいの俳句を残して、宮司は80年の生涯を閉じた。
日照りのときは涙を流し
──東京・川の手 2人の神職の物語
(「神社新報」平成7年6月12日号から)
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「日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」
病床にあった晩年の宮沢賢治が「雨にも負けず」を手帳に書き付けた昭和6年の秋、東北・北海道は大飢饉に襲われていた。
この詩は大自然の猛威に対する人間の無力、そしてそれゆえにこそ、神々に無心に祈ることの尊さを教えてくれる。
一昨年(平成5年)は冷夏と長雨に泣き、昨年(同6年)は猛暑と水不足に苦しんだ日本列島──。女心どころか、気狂いしたかのような異常気象に、人はなす術を知らない。
科学万能の時代にあって、いまだ人間は台風を避けることもできず、逆に雨粒一滴も降らすことはできない。
人間は水がなくては生きてはいけないが、その水が神々の手に委ねられていることは、昔も今も変わらない。
命の支えである一方で、ときには尊い人命をも奪い去っていく水──。
今回は、この水について、「水干ともに患う」といわれた東京・川の手に生きた、2人の神職の生き方を通して、考えてみたい。
▢1 関東平野を沃野に一変させた伊奈氏三代の治水工事
私たちの身体は体重の3分の2までが水だという。生命を維持するには、食物と水が不可欠であるが、面白いことに、食物だけを摂取した場合よりも、水だけを摂取した場合の方が、長く生命を保つことができるらしい。
まさに「生命の水」である。
古来、日本人が水を神とあがめ、清らかな湧水や井戸水を重要な神饌として天神地祇に捧げてきたのは、「生命の水」なればこそだろう。
水はまた田畑を潤し、豊穣をもたらす稔りの源泉である。ゆえに水禍を防ぎ、旱魃に備えることが人類の永遠のテーマとなる。
現代人は、蛇口をひねれば安全な水を簡単に手に入れることができると、ともすれば思い込みがちであるが、それは単なる現代文明の幻想に過ぎない。
たとえば、関東平野の中央を流れる利根川は、日本でもっとも流域面積の広い、日本を代表する河川であるが、ひとたび氾濫すれば、手に負えなくなる暴れん坊で、「板東太郎」と異名をとったほどである。
そのため天正18(1590)年に江戸に入府した徳川家康は、新田開発とともに、河川改修に取り組むこととなった。
もっとも代表的なのは、当時、江戸湾に注いでいた利根川を鹿島灘に東遷させるという大工事だった。
工事を指揮したのは、関東郡代・伊奈忠次、忠政、忠治の三代である。
伊奈氏三代の闘いは、65年におよび、関東平野を貫く河川の流れは一変し、氾濫原は沃野に生まれ変わった。
▢2 無私無心なればこそ天つ神に通じた祈雨
葛飾区高砂の毛なし池(葛飾区のHPから)

時代がくだり、江戸から東京に変わったばかりの明治6年、東葛飾郡(いまの葛飾区)の人々は酷暑に苦しんでいた。
なにしろ雨の降らない日が何十日も続き、大地は乾き、水田は干上がってひび割れた。
4年前は冷夏と水害に見舞われていただけに、農民たちは恨めしそうに、空を仰いでいた。
古利根川の下流・中川のほとり、高砂の毛なし池に鎮まる神社に、人々はワラにもすがる思いで、雨乞いをすることを決めた。
天水分神(あめのみくまりのかみ)をまつる同社には、旱魃のときに神池の水を田畑に注いで祈願すると雨が降る、という言い伝えがあったからである。
同社に残された記録によれば、8月14日から3日間、氏子一同による祈雨が斎行された。
「頃日絶久不雨降天津日乃光不得堪植田蒔苗鳥獣虫草木至迄焦損凋枯為諸人等憂吟以為使無天都水仰待」
霊験あらたかというべきか、16日の夕刻、待ちに待った雨が降ってきた。
けれども、乾ききった大地はまたたく間に雨水を吸い込んでしまう。氏子たちは肩を落として帰っていった。
同社の神職は、その晩からたった1人で社殿にこもり、以前にも増して一心に祈ったという。
すると、28日の満願の朝、雨雲が辰巳(東南)と戌亥(西北)の方角から湧き出で、徐々に空を覆っていった。
黒雲はちょうど神池の真上でぶつかり、雷鳴とともに、ついに大雨が降ってきた。
身命を賭した祈りは天つ神に届き、大地は生き返ったと伝えられている。
残念ながら、この神職の雨乞いの伝承を証明する史料は見当たらない。東京気象台が観測を始めるのは、2年後の明治8年6月からである。
しかし葛飾ではないが、弘化2(1845)年から明治12年までの35年間、東京・町田市馬駆の天気を連日克明に記録した『佐藤晴雨日記』というものがあり、これによると、「明治六癸酉(みずのととり)」は、
「7月2日朝曇、午前8字(ママ)小雨」
のあとは40日以上も干天が続いている。二度、三度と村で雨乞いが行われているほどだ。
その後、ようやく
「8月16日晴、午後5時雨、16日夜雨」
「17日晴、午前9字(ママ)大雨、直に晴」
と待望の雨が降り、
そしてまさに
「28日雨、28日午前6字(ママ)7時小雨」
「29日雨在り」
「30日雨有り」
と3日間、雨が続いたことが確認される。
葛飾区の神社に伝わる雨乞いが雨を降らせたなどとは断定できないが、少なくとも東京地方でこのとき雨が降ったらしいことは確認できる。伝承はけっして作り話ではない。
同社の神職は、天保3(1832)年の生まれで、もとは「百姓」だった。
神仏分離のとき、別当寺の本寺の願い出によって、「兼神道執心罷在候」のため、「百姓株悴(ママ)権次相譲」、改名のうえ、明治3年、神職となったと当時の文書が伝えている。
3年前までは自分も「百姓」だっただけに、旱魃の恨めしさを痛いほど感じていたに違いない。
ことに榛名山への信仰が人一倍篤く、下駄履きのまま、ひょいと家を出たかと思うと、歩いてお山に向かい、ひと月も帰宅しないことがしばしばだった。
正妻のほかに内妻が2人いたという俗臭さを持っていた反面、修験の山で魂を磨くことを怠らなかったのだろう。4代目に当たる現宮司はこう語る。
「雨乞いのような祈祷は結果がすぐ見えるし、神職の資質と信仰が問われる。願主と心を1つにして、神様の前に自分を無にしなければ、とてもできることではありません」
いうまでもなく、斎戒には、外清浄と内清浄がある。内清浄を軽視すれば、明鏡止水の境地に到達できようはずはない。
初代宮司は自分の死亡日時を予言し、みずから霊璽を墨書し、木像を刻んだ。そして予言通り、明治35年2月27日の午後11時、71歳で帰幽した。
常人離れした霊力を備えていたのであろうか。残念ながら、その人となりを直接知るのはすべて鬼籍の人で、これ以上詳しいことは分からない。
▢3 神と自然と人にかしづく句作が不断の「心の禊ぎ」
さらに時代はくだり、昭和38年3月、葛飾区高砂から江戸川区を貫いて江戸川に注ぐ中川放水路(新中川)が完成した。人工の川である。
「ともすれば、たぎりあふれて堤を崩し、町々の産業(なりわえ)をそこなうのみならず、都の東の江戸川区、葛飾区、足立区、また埼玉(さきたま)の県(あがた)の一部をもしたして、濁り江の水のちまたとなすこと、免れ得ぬならいを憂(うちた)み、思おい」
河口近くの今井水門完成後の通水式に、江戸川区のある神社に奉仕する宮司が奏上した祝詞の一節である。
海抜ゼロメートル地帯の江戸川区は、たび重なる水害に苦しんできた。だからこそ、25年にわたる工事の末に完成した放水路は、
「都の東の人らは申すにおよばず、埼玉の県の人たちに大きな利益と恵みを授けたまえる」ものだった
しかし宮司自身はもうひとつ別の思いも抱いていたらしい。
そのむかし、宮司が奉仕する村の鎮守は、果てしなく広がる蓮田に囲まれた、静かな田園だったという。明治32年生まれの宮司は、ネコヤナギが芽吹き、ヨシキリがさえずる、美しい豊かな自然のなかで育った。
宮司は「鳴瀬」と号する俳人で、蓮を好んで詠んだことから、「蓮の鳴瀬」の異名をとった。
「私の俳句は『泥臭い』ですよ。土の匂いがぷんぷんするんです」
田園詩人の俳風は、青年時代、百姓仕事に従事したからだけではなく、戦後、江戸川、葛飾の神社数十社を兼務して磨きがかかった。
同じ区内でも自然は多様で、湿地もあれば、砂地もある。粘土もある。土が人を育て、村独特の気風、習慣、言葉遣いまでが形成される。
「それが産土(うぶすな)なんだよ」
「土をバカにしてはならない」
宮司の口癖だったという。
神と自然と人にかしずくように前屈みで歩く「鳴瀬の畏(かしこ)み歩き」は有名だった。自然に神々が宿り、人間は神の宮であるという信念を実践した。
市井の人と分け隔てなく、気さくに偉ぶらずに交わった。おカネに執着しないから、大事にしていたバイオリンを惜しげもなく乞食に与えてしまう。不幸な境遇に耐えかねて自殺しようとまで思い詰めた女性に、句作を勧め、死を思いとどまらせたこともある。
よく通る、透明感のある、いい喉だった。詩情あふれる祝詞は氏子を魅了し、とりわけ弔辞は参列者の涙を誘わずにはおかなかった。他方、宴席ではちょっと淫猥な自作の歌が人気を博したという。
人徳ばかりではない。節分祭の神事芸能など、お宮の行事を作れば、たえず人が自然に集まってくる。境内には自然があふれ、人々の「心のオアシス」だった。
けれども今井水門が完成したころから、区内の歴史的な地名が新しくなり、同時に蓮田は消え、都市化が進んだ。
そんなとき宮司は自宅で転び、足を負傷した。リハビリすれば歩けるようになるものを、あっさりと車イスの生活を選び、二度と外の世界を見ようとはしなかった。
医者嫌いのせいもあろうが、蓮田のなくなった古里を見たくはなかったのではないか。
宮司にとって神々は身近にいた。それは美しく、ときに荒ぶる自然であり、また人間の誠の心であった。ものぐさで、たまにしか禊ぎをしなかったのは神職として誉められたことではないが、「水垢のついた句は作らない」を信条とする句作は不断の「心の禊ぎ」だったのだろう。
晩年、宮司はこう詠んだ。
神に仕へなぜか寂しき麻暖簾
「なぜか寂しき」にどんな思いをこめたのだろう。
昭和55年の春、郷土の自然と人をうたった30冊の大学ノートいっぱいの俳句を残して、宮司は80年の生涯を閉じた。
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