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宝満神社のお田植祭 ──赤米をつくる種子島の神社 [稲作]

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宝満神社のお田植祭
──赤米をつくる種子島の神社
(「神社新報」平成7年7月10日号)
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 お祭りの前日、松原堅二宮司はいかにも慌ただしげに、1トン・トラックに乗ってあらわれました。

「神主だけじゃ食っていけないもんだから、色々やってます」

 仕事の合間をみて、お田植えの苗を用意するなど、明日にひかえた祭典の準備で、猫の手も借りたいという心境のようです。

 宝満神社は種子島の南端・南種子町茎永(くきなが)に鎮まっています。神武天皇の御母・玉依姫(たまよりひめ)を祭神とし、古くから神田で赤米が「神の米」として栽培されてきました。茎永の地名は赤米の草丈が高いところに由来するともいわれます。

 宮司家に伝わる『宝満宮紀』などによると、玉依姫は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)とともに島の北端の浦田で農耕をはじめられ、その後、茎永に遷られたことになっています。赤米は、かつては全島で栽培されていたといわれます。

 翌日の午前九時ごろ、「今年はとくべつ寒い」と口々にいいながら、地域の男性ばかり20人が集まってきました。お田植にさきだって神事が斎行される御田の森は、女人禁制の聖地なのです。

 こんもりとした丘のうえにあるハマガシの神木の根元に、赤米の早苗2束のほか甘酒や赤米の玄米などを供えて、豊作を祈願します。甘酒は古くは赤米でつくられたようです。

 神事のあと、まず神前に供えられた稲苗が御田に植えられます。

♪ 峰の若松さがり枝……

 畦で古老が太鼓に合わせて田植歌を歌うなか、オセマチという1・8アールほどの神田の一角に、氏子たちは手際よく赤米を植えていきます。

 今年は新6年生の男子15人もおそろいの白のハッビ姿で参加しました。4、5年前、体験教育の一環で茎永小学校の児童に参加してもらうため、祭日は4月5日から3日に変更されたといいます。

 お田植えが引き続き、神田脇のお畑(はた)で直会(なおらい)か始まります。お下がりの甘酒をまわし飲みし、芋焼酎を酌みかわします。赤米のおにぎり、竹の子やツワブキの煮シメも欠かせません。おにぎりは笹に似たシャニギの葉に包まれています。

 明治の後半までは苗代づくりや田植の前に馬による踏耕(ホイトウ)が行われました。京都大学の渡部忠世教授によると、ホイトウは「まぎれもなく東南アジアの諸島嶼あるいはマレー世界ともいうぺき熱帯空間の技術」で、「南西諸島沿いに北上した別の稲作技術要素の残存」だそうです。

 8、9年前までは舟田と呼ぶ天水田で正装した社人(しゃにん)夫婦によるお田植舞が舞われました。種子島はもともと水田の少ない畑の島ですが、同社の舟田はここの赤米が水陸未分化米であることの裏づけでもあるようです。

 さらに近畿大学の野本寛一教授によると、「鹿児島・日置八幡のセットベ、高知・室戸の八幡宮の泥練り、伊勢・伊雑宮の泥かけと黒潮沿いに踏耕の名残をとどめる祭りがある。宝満神社の社人の舞は黒潮上にある飛び石のひとつであり、『海上の道』の証左といえる」そうです。

 ところがいまは肝心の社人のなり手がいません。耕耘機の導入でホイトウの馬はいなくなりました。時代の流れとともに祭りの形態は変わっていきます。とくに「今年は新入生が3人しかいない」と赤米伝承の将来を危惧する声も聞かれました。

 けれども、「祭りの心は子供たちに伝はっている」と、氏子総代を務める元同町助役の柳田幸雄さんは自信たっぷりです。「祭りは形式ではない。赤米を神さまの米として次の世代に伝えていくことが大切」といいきっています。

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