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義人たちはいま何処──全国「芋神様」総覧 [神社]

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義人たちはいま何処──全国「芋神様」総覧
(「神社新報」平成7年10月9日)
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 前々回の記事で、18世紀初頭に“国禁”を犯して琉球に渡り、鹿児島にサツマイモ(甘藷)をもたらした漁師の前田利右衛門が人々から「甘藷爺(からいもおんじょ)」とあがめられ、故郷の山川町・徳光神社に祀られていることをご紹介したところ、

「“芋神様”は利右衛門だけではない。忘れてもらっては困る」

 という苦情を若干ながら頂戴した。

 べつに忘れたわけではないけれども、ご要望にお応えして、今回は全国の代表的な芋神様を取り上げてみたい。そろそろ焼き芋の恋しい季節でもあるから──。(文中敬称略)


▢ 中国に漂流した御物宰領の手土産=沖縄

「唐芋(からいも) 加良(から)とは西土(もろこし)を指せる言にて、書紀、万葉集に漢とも唐ともあり」

 中南米原産といわれる甘藷は、江戸後期、薩摩でまとめられた農学書『成形図説』に記されているように、「唐の国」中国から渡ってきた。

 その由来から考えるなら、全国の芋神杣のなかで最初に名をあげるべきなのは、沖縄・宮古島の長真氏旨屋(ちょうしんうじしおく)であろう。

『平良(ひらら)市史』などによると、貢物運搬の責任者・御物(ごもつ)宰領に任じられた旨屋は、尚寧6(文禄3、1594)年、中山(首里)に行っての帰途、暴風に遭遇し、中国に漂流する。3年後、帰郷する際、甘藷のつるを持ち帰り、島中に広めた。

 これが日本への伝来の最初という。

 琉球地方は土地が狭いうえに、痩せている。ただでさえ米や粟の収穫が少ないのに、自然の猛威にさらされた。ひとたび台風に襲われると、たちまち食糧の欠乏を来たし、

「富貴の人も銭箱を枕に餓死した」

 と島袋源一郎は『琉球百話』に書いている。カネはあっても食糧そのものがない悲劇である。

 旨屋がもたらした甘藷ははじめは救荒作物だったがやがて主食となる。

 島民の感謝の思いは深く、旨屋は平良市(いまは宮古島市)西仲宗根の小祠いわゆる御嶽(うたき)に祀られ、初甘藷を捧げる「芋豊礼(いもぶり)」の祭りが行われるようになったという。

 大正14年には宮古神社の境内に、「産業界之恩人記念碑」が建てられ、造林および宮古上布の功労者とともに旨屋の名が刻まれた。


▢ 町主催で行われる「野国総官まつり」=沖縄

 沖縄本島に最初に甘藷が伝えられたのは尚寧17(慶長10、1602)年という。

『嘉手納町史』などによると、進貢船の管理責任者の1人であった、通称野国総官と呼ばれる人物が、公務で中国・福州(福建省)に渡って帰国したとき、甘藷の鉢植えを持ち帰り、野国いまの嘉手納町内の集落に広めたという。

 本名も生没年も知られていない野国総官だが、人々は「芋大主(うむうふしゅ)」「蕃藷大王(うむふうすう)」とあがめた。

 野国から苗をもらい受けるとともに、栽培技術を学んで甘藷の普及を推進したのは、儀間真常(ぎましんじょう)である。真常は生長に献策して琉球中に栽培を奨励したという。

 その後、甘藷は五穀に代わる沖縄の重要作物となった。真常は甘藷普及のほかに、琉球木綿や製糖にも功績があり、沖縄最大の商業功労者といわれている。

 約100年後の康熙39(元禄13、1700)年、野国村地頭の野国正恒は、野国総官の偉功を追慕して、私費で石壇と石厨子をしつらえ、移葬した。毎年早春になると、土地の人々は墓前で豊年を祈ったという。

 乾隆16(寛延4、1751)年には子孫によって墓前に顕彰碑「総官野国由来記」が、昭和18年には「甘藷発祥之地」の碑が産業組合によって建てられた。いまこれらは米軍基地内にある。

 昭和8年に官民を挙げて世持(よもち)神社が那覇に創建されたとき、野国と真常は、江戸中期の琉球の政治指導者・蔡恩(さいおん)とともに祭神に祀られた。昭和30年には甘藷伝来350周年事業として嘉手納町内に野国総官宮が創建された。

 昭和54年からは町主催の嘉手納祭が「野国総官まつり」と名称変更され、12月初旬に賑やかに繰り広げられ、その一環として野国総官宮の祭典が執行されている。

 児童文学者・儀間海邦の『沖縄の少年』に

「部落の集まりや祭りの結びつきの強い沖縄では、子供から大人まで結束して総官祭を祝った」

 と書かれている。野国の名前はいまも生き続けているようだ。


▢ 英明なる薩摩家老「種子島久基」の功績=鹿児島

「治世に民を済うの功は食を給すより大なるは莫し、五穀の産出に限りありて、ひとたび凶饉に遇うば民たちまち食に乏しく、餓莩路に横わるを、はじめてかの甘藷を琉球国より猟て、海内に伝播してよりは、五穀の足らざるを補うて、生民の流離救えり、その徳沢もまた大なりというべし、その人を誰とかなす、種子島の十九代弾正久基なり」

『南島偉功伝』は種子島久基の遺徳を高く賞賛している。

 久基は島津氏の家臣で、1領国をなしていた種子島の第19代島主である。国家老の地位にあった元禄11(1698)年、薩摩の支配下にある琉球から甘藷の苗を移入した。

 甘藷が琉球で広く栽培されているのを知り、中山王尚貞と折衝し、甘藷1籠を贈呈されたのだという。

 実際に栽培を成功させたのは、種子島・下石寺に住む篤農家で、製塩業なども営んでいた大瀬休左衛門である。休左衞門は食べ方なども工夫した。

 この努力が甘藷をたちまちにして島内はおろか、藩中に普及させたという。国道58号沿いに「日本甘藷栽培地之碑」が建っている。

 甘藷の導入によって飢える者は食を得、病人は癒やされた。人々は久基の遺徳を偲び、家々で朝に夕に甘藷を床のうえに供え、久基の霊に捧げたという。

 久基は甘藷導入のほか、不毛の地であった国分地方の開田など、治水・文教・産業振興に優れた行政手腕を発揮した。

 ことに追慕の念の深い種子島では、没後122年目の文久3(1863)年、久基をまつる栖林神社が創建された。栖林大権現の神号は藩主から与えられたものだが、もともとは久基が晩年、栖林と号したことに由来する。


▢ 名代官の遺徳たたえる碑の数じつに200余り=島根

 島根で「芋代官」「芋殿さん」とあがめられたのは、天領・石見銀山領の第19代代官井戸平左衛門である。

『島根県史』は、

「究民救恤甘藷栽培の功労者として、はたまた至誠もってその職に尽くし、厚世利民の美蹟芳しき」

 と記す。

『大田市三十年誌』などによると、清廉さと誠実な勤務で将軍吉宗から黄金2枚を賞賜されたほどの平左衛門が、60歳の高齢で大森代官に登用されたのは享保16(1731)年だった。奉行大岡忠相の推挙という。

 着任の翌年、日本国中を大飢饉が襲った。享保の飢饉。平左衛門は

「領内荒涼もっとも酸鼻を極める」

 という領民の窮状を見るに見かねて、年貢を大幅に減免し、村によっては完全に免除したばかりでなく、私財を投じ、義捐金を募り、さらに幕府の許可を待たずに独断で米倉を開いた。領内からは1人の餓死者も出さなかったが、囲米放出の責任を取って自刃したとも伝えられる。

 平左衛門はさらに、旅の僧から

「薩摩の国に奇種あり」

 との話を聞き及び、薩摩領外への持ち出しを禁じられていた芋種100斤を幕府のお声掛かりで入手し、砂地の多い海岸地方の村々に試作させた。このため天明・天保の飢饉では多くの人命が救われたという。

 甘藷は年貢取立の対象外で、その有利さから、やがて中国地方全域に広まっていく。

 石見路を歩くと、平左衛門の戒名である「泰雲院」とか「井戸明府」などと刻書した、身の丈ほどもある頌徳碑を頻繁に見かける。

 米を作る農家でありながら、めったに米の飯を口にすることができなかった民衆が、平左衛門の遺徳をたたえて建てた「いもづか」で、数は200を超える。

 いまも芋名月の夜に、初物を碑前に供える「芋供養」が行われるという。

 明治12年には、篤農家たちの手で、平左衛門を祀る井戸神社が創建された。

 ただ平左衛門の甘藷導入はかならずしも成功しなかったようだ。甘藷の育成に功労があったのは、医師の青木秀清と篤農家の石田初右衛門で、江津地方では平左衛門とともに、甘藷の3大恩人と仰がれている。


▢ 難破した薩摩藩御用船を救った高潔の「芋爺さん」=静岡

 静岡・御前崎で「いもじいさん」といえば、大沢権右衛門だ。『榛原郡誌』などによると、権右衛門は半農半漁の人であった。

 もとより岩礁の多い御前崎は難所で、明和3(1766)年の春、御前崎の沖、いまの御前埼灯台があるあたりで、江戸に向かう薩摩の御用船・豊徳丸が難破した。

 当時74歳の権右衛門は2人の子供とともに救助に当たり、瀕死の船員23名の命と財物とを救った。

 その功は江戸の薩摩屋敷にまで聞こえてきた。やってきた2人の見届役が報奨金の20両を取らせようとしたのだが、平左衛門は固辞する。

「人の難を救うは常道なり、なんぞ報を望まんや、ただ願う、前夜舟人の食しいたる山吹色の煉油のごときものを賜らんことを」

 積み荷の略奪など当然だった時代のこと、感心した藩士は国外不出の甘藷3個と栽培法を伝授したという。砂地でまったく米が穫れない御前崎で、甘藷はまたたく間に広がっていった。

 町内の海福寺には権右衛門の墓碑がある。明治11年の100年忌に村民たちが五層の宝篋印形の墓を建立、41年には墓前の大銀杏の根元に「大沢権右衛門君碑」が建った。碑には

「おおよそ善を積んで厚徳を有する者は、後人欽慕して諸世に伝え、諸口に誦して赫々前日のごとし。なんじ大沢権右衛門君は、すなわちその人なり」

 とある。

 いま(平成7年秋)本堂の再建に合わせて覆屋などを改修中だが、年内には完成するという。

 子孫が健在だと知って、足を運んだ。ご当主の大沢平八郎さんは19代目。残念ながら、ご本人は不在だったが、奥さんの話では、

「戦前・戦中派の人で『いもじいさん』を知らない人はいません。むかしは学校で修身の時間に習いましたし、命日の芋供養にも参列したそうです」。

 いまも秋には町の有力者が勢揃いして、法要が営まれるという。

 19世紀になって栗林庄蔵が苦心して開発したという芋切干は同地方の名産である。


▢ 幕府に甘藷栽培を建白した昆陽は神職の末裔=千葉

 甘藷の全国的普及の功労者として忘れてならないのは、甘藷先生こと、青木昆陽である。

『昆陽先生甘藷の由来』などによると、昆陽は摂津の神職の末裔という。日本橋魚河岸の魚問屋に生まれたが、勉強が好きで、長じては京都の儒学者・伊藤東涯に学び、江戸に帰って寺子屋を開く。

 父母亡き後、6年の喪に服した篤行によって推挙され、奉行大岡忠相の知遇を得た昆陽は、享保18(1733)年、甘藷栽培の必要を建白した。

 長崎では100年以上も甘藷が栽培されていたから、その有利さを若き日に見聞していたのであろう。

 昆陽の『蕃藷考』は将軍吉宗の耳にも達した。甘藷栽培は幕府に採用され、昆陽は薩摩芋御用掛りとなり、同20年、薩摩から取り寄せられた甘藷は小石川後楽園、千葉・馬加(まくわり。いまの幕張)で試作される。

 しかし全国普及への道のりは必ずしも平坦ではなかったようだ。

 上総国不動堂というところでも試作されたが、運の悪いことに不漁の原因を押しつけられたあげくに、有毒だとの風説を呼んで、普及しなかった。

 馬加だけが栽培を続け、50年後の天明の飢饉をしのぐことができた。このためようやく甘藷の評価が高まり、馬加は苗の生産で莫大な利益を得たという。

 当然、昆陽の評価も高まり、弘化3(1846)年には甘藷試作地の向かい、鎮守・秋葉神社の境内に昆陽神社が創建された。

 大正8(1919)年には村の有志たちによって「試作之地記念碑」が試作地跡に建てられ、神社の改修も行われた。

 千葉市の京成幕張駅のすぐ前に昆陽神社がこの(平成7年)春まで鎮座していたが、いまはない。というのは、すぐそばのJRと京成線が並行して走る踏切が朝夕は「開かずの踏切」になってしまうことから、道路を地下に通す工事の真っ最中だからである。

 中須賀武文宮司は

「神社は5年後、道路が完成次第、再興される」

 と語る。


▢ 義人を祀るということ

 柳田国男は『海南小記』に書いている。

「水に乏しい岬や島のかげで、以前は多分に人を住ましむる望みもなかった畠場が、この唐芋の輸入によって、はじめて意味における安楽郷となり、瞬くうちに今日のごとき人口密集を見るに至ったのである。

 ……この小さな島国の山国に、5900万人を盛り得たのは、一半はすなわちカライモの奇蹟である。あるいは激語してカライモの災いといった人さえもあるのである」

 稲作不適地の人々、とりわけ貧しい農民たちが、凶作の年であっても一定の収穫を得られる甘藷をありがたく思ったのは想像に難くない。そこに芋神様の信仰が生まれるのだが、穀霊信仰を基本とする稲作信仰と違って、芋神様は甘藷の伝来と普及の功労者を神式もしくは仏式で祀るのが特徴である。

 芋神様のような、郷土の義人をまつる神社もしくは信仰は近世以前にはほとんど見られない。芋神様は近世の所産である。

 芋神様の信仰のもうひとつの特徴は、社会批判あるいは体制批判がうかがえることである。

 民俗学者の宮本常一は『甘藷の歴史』に

「この作物に関心を持ち、これを広めていった人々のほとんどが、その時代に対して単なる謳歌者ではなく、何らかの意味でその時代や周囲に対して批判も持ち、抵抗も感じ、あるいは時世改良の志の厚かった人々である」

 と書いている。

 だとすれば、地方での芋神様顕彰の神社創建は、国家への功労者を祭神とする神社を全国に創建させていった明治政府の動きとは一線を画すことになる。

 芋神様への信仰は「芋食い」を笑う、富と権力をにぎる階層への反抗でもあったのかも知れない。

「芋代官」などの徳行は昨今の高級官僚の腐敗ぶりとも雲泥の差であるが、現代ほど義人と無縁な時代はない。人のため、公のために身命をなげうつなどという行為は、ややもすれば物笑いの種になりかねない。

 そもそも「義人」なる日本語を聞かなくなって、久しい。「芋食い」という差別語が「1億総グルメ時代」に意味を失ってしまったように、「義人」も死語になったのだろうか。

 現代人にとって、義人信仰、ことに芋神様の遺徳を顕彰し、崇敬する信仰が意味を失ってしまったのだとしたら、寂しい。


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