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モチ米を食べる民族──東アジアのモチ文化 [稲作]


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モチ米を食べる民族──東アジアのモチ文化
(「神社新報」平成8年2月12日)
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米にはウルチ米とモチ米とがある。

日本人は、ふだんはウルチ米のご飯を食べているが、神祭りや冠婚葬祭の際の供物や儀礼食にはモチ米の強飯(こわめし。赤飯)が登場する。古代には強飯が上流社会の日常食であった時代もあったようだが、そのころの強飯ははたしてモチ米だったのか、それともウルチ米だったのだろうか。

最近では強飯というものにお目にかかることがめっきり少なくなってしまったが、日本には古来、「モチ米文化」というべきものがあることはまぎれもない事実だ。しかしこのモチ文化は、どうも日本だけでのものではないようだ。


▢ 戸外の七輪で蒸す
▢ タイ米強飯の美味

そのことを実感したのは、昨年(平成7年)6月、タイ北部を取材していたときだった。

「ゴハン、ゴハン」

ランプーン県マコック村にある、日本の援助団体の研修施設で、土木工事を請け負っている、近所の農家の人たち3人から、片言の日本語で昼食に誘われた。

東屋のテーブルに弁当箱から取り出されたのは、タイ米すなわちインディカ米の、なんと強飯だった。もちろんモチ米である。

1人が食べ方を見せてくれた。指先でちょっと丸めるようにして、一口分をつまむ。どこか日本のお寿司をにぎる要領に似ている。次に肉や野菜の煮込み料理に少しつけ、口に放り込む。これまた醤油を付けて握りを食べるやり方にそっくりだ。

食べてみて驚いた。まさに絶品なのである。

一昨年(平成6年)春の「平成の米騒動」のころ、

「パサパサして不味い」

と不評だったタイ米への偏見を見事に打ち砕く美味だった。同じインディカ米とは思えないほど、粘りのある豊かな味わいなのである。

思わず

「アローイ(美味しい)」

を連発する記者を、3人はただ笑って見つめている。それからというもの、昼時に顔を合わせると、かならず食事に誘われた。

数日後、ミャンマー(旧ビルマ)およびラオスとの国境に近い、チェンライ県メースワイ村で一軒の農家に泊まった。

何となく神社の社殿を思わせる高床式の家で、隣の家の納屋には千木や鰹木のようなものまである。

翌朝6時前、おばあさんが戸外で朝ご飯のしたくをする。

七輪のような移動式カマドに深底ナベをかけ、薪を燃やして湯を沸かす。一晩、水につけたモチ米を竹のザルに入れ、ナベのうえに置く。ホウロウの皿を裏返してフタにする。

1時間後、蒸し上がった強飯はまな板のうえに伸ばして適当に冷ましたあと、赤ん坊の頭大のかたまりにまとめて、おひつに移す。

「手間がかかる」強飯だが、北部タイの人たちはこのモチ米(カオ・ニャオ)の強飯が大好きで、子供も大人も三段重ねのステンレス製の弁当箱などに詰めて、学校や職場に持っていく。

タイの人たちは3年前(平成5年)、日本に緊急輸入されたようなウルチ米(カオ・チャオ)を、みんなが食べているわけではない。バンコクなどの都市住民やインテリは別にして、とくに北部ではモチ米を好んで食べる。

バンコクで働くチェンマイやチェンライの出身者たちに聞くと、決まって、

「私はモチ米が好きだ」

と答えたものだ。

そうした需要に応えてか、バンコクの「銀座通り」シロム・ロードの入り口にあるロビンソン・デパートの地下食品売り場には、できたてを売る、強飯のコーナーがあった。

▽ モチ米の地酒

ランプーン市のマーケットで、ラオ・カオを2瓶、買った。タイ特有の米焼酎だ。値段は1本40バーツ。

これは市販される政府公認の酒だが、北部の山岳地域には同じ焼酎ながら「税金を払っていない」私醸酒がある。原料はモチ米という。

チェンライの教育長が

「醸造現場に案内してやろう」

と約束してくれたが、ついに機会は得られなかった。

酒評論家の穂積忠彦氏は、ラベルもなく、瓶もまちまちな山岳民族の焼酎を、オートメ化され、商業的に売られる日本の酒とは違う「虚飾のひとかけらもない酒」(『焼酎学入門』)と賞賛する。

しかも、これが沖縄の泡盛、日本の焼酎のルーツと聞けば、親しみも湧く。


▢ バングラの少数民族
▢ 儀礼を司祭する王様

ミャンマーを隔てて、タイの西隣の国バングラデシュには、もとはモチ米を食べていたと思われるモンゴル系少数民族がいる。

同国南東部コックスバザール県チョコリア郡ハルバン村を訪れたのは、やはり昨年(平成7年)6月。ここには織物を得意とするラカイン族(アラカン族)の家が50戸ほどある。

「モドゥ(焼酎)を造っている家がある」

というので、案内してもらった。

数年前の水害で竹の橋が流され、車で目的地にたどり着くことはできない。裸足になって歩いて対岸に渡るのだが、川に沐浴と洗濯にやってきた女性たちの顔つきが日本人そっくりなのに驚いた。しかも美人ばかりだ。

ラカイン族はベンガル人とは違って、高床式の住居に住む。台所も高床のうえにあって、焼酎のもろみが入った素焼きの甕が7個、薄暗い台所に並んでいた。

「モチ米(ビン・チャウル)を醸したもろみを、アルミナベを3段に重ねた蒸留器で蒸留して酒にする」

と説明してくれたのは、村で唯一の小学校の、若い校長先生だ。

昨年(平成7年)2月に長野県の僧侶の寄附で学校が創立、約200人の生徒が7人の教師から学んでいる。

人々の主食はベンガル人と同じ米だが、宗教は上座部仏教。元来、チョコリアはビルマ系仏教圏で、スリランカからタイへ伝わった仏教がアラカン山脈を越えて伝来したという。

仏教儀礼以外に祭りらしいものはなく、田植えや収穫期に神々に酒を捧げるような習慣もないと聞いた。

バングラには、人口の1%未満だが、ほかにもモンゴル系少数民族が住む。

最大勢力のチャクマ族は農耕民族で仏教徒、ラカイン族以上に日本人に似る。モチ米を主食とし、モチ米の焼酎を飲む。王様は宗教儀礼を司祭する祭祀王でもあるらしい。

▽ チャクマ王国

チャクマ王国の版図は、かつてはベンガル地方に広範囲に広がっていたが、イスラムの侵入で父祖の地を追われた。不殺生の教えを守り、戦いを好まないチャクマはイスラムの敵ではなかった。50万人のうちのほとんどはいまはチッタゴン丘陵地帯に住む。

丘陵地帯の奥にあるカプタイ湖は、バングラ屈指の景勝地として知られる。東パキスタン時代に建設されたダムによって生まれた巨大な人造湖だが、乾季になると水位が下がった湖面からチャクマ族のかつての王宮が顔をのぞかせるそうだ。

その後、日本の援助で水力発電所が建設されたが、過激な反政府運動を展開する者もいるというので、現在は外国人の立ち入りが禁止されている。

帰り際、ハルバン小学校の校長先生がひとつまみの米を分けてくれた。焼酎の原料でもあるその米は、ウルチ米でもモチ米でもなく、雑多な品種の寄せ集めであった。

しかしそれは当然のことだった。品種の選抜という近代農業の概念を無意識のうちに押しつけていた自分を、記者は恥じた。

このときはモチ米を口にすることはできなかったけれども、数年前にチッタゴン市内のベンガル人の自宅で、モチ米料理をご馳走になったことがある。珍しいことに、赤米のモチ米で、日本の赤飯を思い起こさずにはいられなかった。

しかし、チッタゴン以外のベンガル人はモチ米文化とは無縁のところにいる。ジャポニカのウルチ米でさえ、「粘りがある」と敬遠し、とくにお金持ちは「腹持ちがいい」ジャポニカ米は「労働者の食べ物」と称して、食べたがらない。


▢ 東南アジアの「モチ稲栽培圏」
▢ 日本の「モチ文化」はどこから

モチ米を主食とする民族は東アジアのほかの国や地域にもたくさんいる。

第二次大戦時、山砲第33連隊の大隊副官としてインパール作戦に参加した下田利一氏によると、インド北東辺境のマニプル人はモチ米を珍重するという。

大戦末期、日本軍はチャンドラ・ボース率いるインド国民軍とともにビルマからインドへと攻め入った。マニプル州の州都インパールを88日間、包囲したものの、第15軍は壊滅、6万5千人が戦病死するという大敗北を喫する。下田氏の連隊も3千人の将兵のうち、「生還したのは3人に1人」だそうだ。

北東辺境は民族的にも言語的にも、平野部のインドとはだいぶ異なる独自の文化圏を形成しているようだ。下田氏は数年前、現地を再来して、「大歓迎を受けた」。もてなし料理のなかには「赤米のモチ米料理も含まれていた」らしい。

▽ 謎解きのカギ

京大の渡部忠世先生は、「モチ米が主作物として栽培され、主食として消費される特異な地域」が、「タイの北部と東北部、それとラオスを中心として、周辺のビルマ、中国、ベトナムに一部」に広がっていると想定して、「モチ稲栽培圏」と名付けた(『アジア稲作の系譜』)。

フィリピンやインドネシアでもモチ米が栽培されているようだが、モチ米文化の中心が北部タイで、西端に位置するのがバングラ、マニプルなのであろう。

民俗学者の柳田国男が日本の稲作の起源地として想定していたらしい、クメール人の領土近辺がモチ文化の中心で、照葉樹林文化のセンターと重なるのも興味深い。

他方、バングラあるいはインド以西はモチ米ではなくてウルチ米を食べるのだが、ウルチ米の「ウルチ」の語源は古代インドのサンスクリット語「ヴルヒ」だという説がある。

これに対して、「稲」の字はもともとモチ稲の意味だとする説もあるが、タイ語の「カオ」とも関係があるらしい。

モチ米は自然界には存在しないから、人間が農耕を通じて選抜したと考えるのが妥当だ。

渡部先生は、稲作以前の根栽農耕時代からの「『ねばい』食物への持続的執着姓」がモチ稲栽培圏を成立させた、と指摘しているが、国立民族学博物館の佐々木高明先生は、さらに古い採集・半栽培段階におけるネバネバしたイモなどへの嗜好性がモチ文化成立の原動力だと考えているらしい。

いずれにしても、モチ稲栽培圏の東端に位置する日本には、この文化はいつ、どこから、どのように伝わったものなのか? 昭和20年ごろは水稲の2割、現在も水稲の5%、陸稲のほとんどはモチ種というほど、根強いモチ米嗜好は、いつ始まったのだろうか?

種子島の宝満神社の御田で栽培されている赤米は、東南アジア起源で陸稲的なジャバニカ(熱帯ジャポニカ)の系統だそうだ。地元では「モチ米ではない」と否定するのだが、食べてみるとけっこう粘りけがある。

なにかモチ米の伝来を解くカギが隠されているのかも知れない。

静岡大学の佐藤洋一郎先生は、

「ウルチとモチの伝来については、まったく分かっていないが、私はモチ米は『海上の道』を通って伝来したのが濃厚だと考えている。東南アジアから伝来したジャバニカはモチ米で、揚子江流域から伝わったジャポニカはウルチ米だったのではないか」

と語る。

民俗学者の篠田統氏によると、釉薬や陶釜が普及する平安中期以前、日本人はいまのような煮飯ではなくて、強飯を食べていたというのだが、その強飯はウルチではなくてモチ米だったのではないか。蒸す調理法から煮る方法に変わって、モチ米からウルチへと嗜好が変化したのかも知れない。


▢ モチ米文化が消えていく北部タイ
▢ 経済発展、農村社会崩壊とともに

渡部先生によると、タイは、かつては全域がモチ稲栽培圏だったらしい。しかもかなり後代まで、ジャポニカが盛んに栽培されていた。

それが18世紀以後、「ウルチ稲を好む」民族が中央平原に進出し、さらにウルチ米の輸出が盛んになったことで、バンコクのある中央平原や東北部の一部ではモチ米がウルチ米に置き換えられたという。

したがって、北部はモチ文化が残された最後の地域だが、その文化が風前の灯火の状態にある。その原因は日本の経済進出とも無関係ではない。

チェンマイに工業団地ができて以降、多くの日本企業が進出した。雇用機会が増えたことを喜んでばかりはいられない。小作農は勤労者となり、人々の生活スタイルは確実に変わった。

チェンマイ=チェンライ間の朝夕のラッシュはものすごい。猛スピードで走り去るクルマやバイクはほとんどが日本製で、小学生のような子供がハンドルを握っていることもしばしばだ。

「毎日のように起こる交通事故とエイズで、若い命が奪われていく」

とチェンライの教育長が嘆いていた。

その言葉は日本を責めているわけでは決してないのだが、心が痛む。しかし同時に、不殺生や不邪淫の戒律に厳しい上座部仏教のこの国で、なぜなのか、という疑問が残る。

「教育者の責任も問われるのでは?」

と矛先を向けたら、

「教えているつもりだが……」

と急に弱気になってしまった。

食文化で大きく変わったことといえば、電気釜の普及だ。まだまだ高嶺の花だが、モチ米を蒸すより調理が簡単で、時間も節約できる。現金収入の増えた勤労世帯が飛びつくのは当然だ。

最新型のマイコン炊飯ジャーならモチ米の強飯もお手の物だろうが、電気釜はそうはいかない。しかもキロ8バーツのモチ米より、10バーツのウルチ米の方がずっと高級感がある。

こうしてウルチ米がモチ米を駆逐していく。

「最近はお祭りなどの日にしかモチ米を食べない」

という人も少なくないらしい。

一昔前はモチ米ばかりだった北部タイの米生産は、モチ米が6割にまで急減したそうだ。モチ米文化だけではない、農村それ自体が崩壊しようとしていると聞いた。

工業化や経済発展はタイの人たち自身が望んだことでもある。人々が近代生活を楽しんでいることも事実であろう。

しかし、タイの人たちの憧れであり続ける日本が、経済発展の果てに経験したのと、同じ農村社会の崩壊や伝統的価値体系の喪失というものを間近に見るのはしのびない。

タイの経済がさらに発展し、強飯も炊ける炊飯ジャーを人々が容易に手に入れられるようになれば、モチ米文化は失われずにすむかも知れないが、話はそう簡単にはいきそうにない。


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