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北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか? [稲作]

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北海道・寒地稲作に挑んだ人々──なぜ米を選んだのか?
(「神社新報」平成8年7月15日)
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「北海道の米なんて、美味しくないっすよ」。美唄生まれの青年が自嘲して笑う。

 ところが最近は必ずしもそうではない。都内のある米穀店主は、「ゆきひかりが出てから美味しくなりましたね。きらら395なんて、昔のに比べたら美味しい米ですよ」。

 北海道では年間35万トン(平成5年)の米が生産されている。新潟66万トン、秋田54万トン、山形40万トン、茨城38万トンに次いで、全国第5位の生産量を誇る。

 中国・揚子江中下流域または東南アジア島嶼地域が栽培起源だといわれる米が、夏の短い雪国でこれほど大量に生産されているというのは驚くべきことである。それどころか、日本の米どころはいまや北国ばかりだ。

 そもそもなぜ日本人は、栽培環境の厳しい最果ての地で困難なはずの稲作に挑んだのだろうか? 北限の稲作を見てみたい──そう思って(平成8年)6月中旬、稚内行きの飛行機に飛び乗った。


▢ 「米作日本一」に輝く篤農家
▢ 「日本最北の純米酒」の美味

 日本最北端の稚内から南へ85キロ。途中、美しい雪化粧の残る利尻富士を右手に眺め、東京の山手線2つ分がすっぽり入るというサロベツ原野を過ぎると、天塩郡遠別町にいたる。

 ここが最北端の米作地帯だ。

 遠別川の河畔には、西欧風の赤い屋根に煙突という、いかにも北海道を思わせる家屋と日本的な田園風景とが融合して広がる。

 涼風に揺れる青々とした稲の葉。これが北限の稲であり、同時に世界最北の稲なのか、と思うと言い知れぬ感動がこみ上げてくる。

 遠別で水田耕作の試みが始まったのは、明治30年という。

 中村亀吉氏が小川の水を利用して米作りを始めたのが最初で、安定した収穫が得られるようになったのは、34年に福井出身の南山仁太郎氏が3反歩の水田を試作してからだとされる(『遠別町史』)。

 大正末には「北方稲作は冒険」と危惧する多くの反対者を納得させて土功組合が結成され、灌漑用水路が完成。米作りは本格化し、北限の稲作が確立される。

 その後、「米作北限界の輝く勝利であり、本町稲作の歩みに偉大な金字塔を打ち立てた」(前掲町史)のは、石黒初明氏である。

 昭和24年、朝日新聞は創刊70周年の記念事業として、農林省後援による「米作日本一の表彰」を行った。3500名の篤農家のなかから技術賞と北海道ブロック1賞に輝いたのが石黒氏で、北海百十九号という品種で、反収509・7キロ(町史によると11俵)を成し遂げた。

「北緯44度7分のわが国水稲栽培の北限界でこの収穫は驚異に値する。寒冷地稲作の奨励技術を取り入れたことはいうまでもなく、防風林を設け、客土と深耕ならびに堆肥の増施によって知力増進を図った」と当時の朝日新聞は伝える。

 石黒氏は25年、28年、29年にも入賞した。

「北限稲作は“彼に学べ”という言葉さえ普及している」と町史に記されている。

 遠別神社宮司の猿子(ましこ)尚弘氏は、「小さいころのことでよく覚えていない」としながらも、「研究熱心で、人付き合いのいい、指導力のある人だった」と懐かしむ。

 最北の米を食べてみたい、と思って、町の米穀店を訪ねたが、「売っていない」という。

 あるのは本州産の「コシヒカリ」や「あきたこまち」だった。

「農協ならあるかも」というのでAコープに行ってみたが、ない。若い女性店員に文句を言ってみても始まらない。

「町で生産されるのはモチ米の『はくちょう』という品種だけなんです」

 年間3710トン(平成6年)の米はそのままホクレンに収められてしまうらしい。

 遠別産のモチ米100%で造るという酒を代わりに買った。「日本最北の純米酒」は一徹者の厳しさと優しさが感じられた。


▢ 開拓使は西欧型農業を導入
▢ 聖書教育を進めたクラーク

 北海道が現在のような米どころとなるには、ある人物の苦労と涙の物語を紐解かなければならないが、その前に北海道の近代史を振り返ってみる。

 明治2年、開拓使設置。蝦夷地は「北海道」と改称される。

 同年、神祇官では大國魂(おおくにたま)神、大那牟遅(おおなむち)神、少彦名(すくなひこな)神を「開拓三神」として祭典が挙行され、北海道総鎮守・札幌神社が創祀された。

 この年、奥羽・北海道は凶作で飢饉が発生している。

 翌3年、黒田清隆が開拓次官に就任。4年、勅許を得て、渡米する。

「人たるや、いまだかつて皇国にあるを聞かず、よって弘くこれを海外に求」めるためで、「宇宙を一周して皇国の至宝を模索」しようとの意気込みだった。

 開拓顧問に招かれたのは、現職のアメリカ農務局長、67歳のホーレス・ケプロンだった。

 ケプロンは当時、アメリカ東北部で主流の、家畜と畑作との混合農業、すなわち19世紀初頭にヨーロッパに興った合理的農業の導入を考える。

 稲作中心の伝統的な日本農業からの脱却を図ったのである。

 開拓使御雇トーマス・アンチセルは「ここに稲田を作らんとするは、もっとも迂なるを知るべし」とし、この報告を受けて、ケプロンは「米はその地積を占めること大にして、かつ費多し。しかして養分に至っては食に供する他の穀類に劣れり」との理由から「各農作物の栄養分をあげ、北海道移民の主作物を変更すべきことを論じた」(『新撰北海道史』『北海道農業発達史』など)のだった。

 明治9年には札幌農学校が設立される。教頭に就任したのが、アメリカのマサチューセッツ農科大学学長ウイリアム・クラークで、1年間の休職を取り、来日する。

 開校式で、黒田は北海道開拓には従来の慣習的な農業に代えて、欧米の科学的農業を摂取し、北海道のみならず日本全国に普及させることが必要だと訴えた。

 生徒に徳育をも施すようにとの黒田の要請に、クラークは「聖書を読ませよう」と答えた。キリスト教禁制が解かれたばかりの当時、官立の学校で聖書教育が実施されることに、黒田は反対したが、やがて黙認する。

「聖書のみが人心の奥底に抜くべからざる道念の基礎を置き得るものと信ずる」とするクラークの信念が勝ったからだろうか?

 クラークがもっとも心血を注いだのが、徳育だ。

 横浜で購入した聖書が何十冊と用意され、1冊ごとに学生の名前が書き込まれていた。

 健康のために食育と性欲とを制し、従順勤勉の習慣を養うべきだと論し、職員や学生に「アヘン及び酒類の用を厳禁すること」(禁酒禁煙の制約)を誓わせ、クラークみずから実践した。

 寮の食事は昼以外は洋食である。開拓使の方針に沿い、寮の規約には「米飯を食すべからず」と明記されていた。例外はライスカレーだけだった。

 祈祷と聖書購読が授業前の日課となった。布教というより「学生の徳性を長養せんには宗教に如くものなし」との信念からだったともいわれるが、クラークの人格に傾倒した学生たちは、師の帰国を前に「我儕(わなみ)は信ず、聖書は唯一直接天啓の書なることを」という「イエスを信じる者の契約」に署名し、受洗した(『北大百年史』『恵迪寮史』)。


▢ 「北海道稲作の父」中山久蔵
▢ 明治天皇行幸で感涙に咽ぶ

 開拓使は西欧農業の導入に腐心し、稲作農業の展開には関心を持たなかった。

 それどころではない。明治8年に入植が始まる屯田兵村では、稲作禁止令が通達され、開拓使を引き継いだ北海道庁では「せめて昼食はパン食にせよ」という米食禁止令が出された。

 北海道で稲作に挑んだのは民間人で、とくに明治初期、石狩地方で米作りに成功した中山久蔵の名を忘れることはできない。

 札幌郡広島町島松。176万(平成7年)の人口を抱え、いまや日本第5位の大都市に変貌した札幌の隣町。道央自動車道の騒音が遠くに聞こえるほかは静かな佇まいの旧街道沿いに「青年よ、大志を抱け」のクラークの碑が建つ。

 かたわらには「北海道稲作の父」の記念碑。穏やかな顔のレリーフは久蔵その人。

 隣の木造建築は国史跡旧島松駅逓所、久蔵の旧宅である。

 久蔵は文政11(1828)年、河内国生まれ。仙台藩士に仕えたのち、42歳の厄年を迎えて北海道永住を決意し、単身、無一物で島松(シママップ)に入植、6000坪の開墾を始めた。

 ケプロン来日と同じ、明治4年のことである。

 粗末な小屋に住み、寒さと飢えと孤独に耐え、6年には渡島地方から取り寄せた芒(のげ)の赤い赤毛種で1反歩の水田稲作を試みる。

 5月に蒔いた籾はなかなか発芽しない。風呂の湯を沸かし、昼夜、苗代に流し入れ、かたわらを流れる島松川の水を暖水路で温めて水田に流すなどの苦労と粘りで、同年秋、2・3石の収穫を得る。

 西欧型農業の導入のため、クラークが札幌農学校に着任したのは、その3年後である。

 その翌年、帰国するクラークが学生らと別れを惜しんだ駅逓が、久蔵の自宅だったとは、何という巡り合わせだろうか。

 10年、東京・上野で開催された内国勧業博覧会に、島松の米が出品され、久蔵の名は全国に知らしめられた。

 12年には自作の種籾100俵を石狩、空知、上川などの開拓民に無償配布、稲作に絶望する農民を勇気づけるとともに、稲作が道内各地に拡大していく。

 14年、明治天皇は供奉総員800名、数百頭の馬を引き連れて、奥羽・北海道を巡幸された。

 9月2日朝、札幌発御後、行在所となったのが久蔵宅で、昼食を召し上がり、小憩された。

『明治天皇紀』は「胆振(いぶり)国に入りて島松御昼餐所中山久蔵の家に到りたもう。館主御座所を新築し、供張はなはだ到る、よりてとくにその賜り物を厚くせしめたもう」と記すばかりだが、『広島町の歩み』などによると、親しく米作の御下問に接し、7年間に収穫した稲穂などを天覧に供した。

「金三百円並びに御紋付き三つ組銀盃」を賜った54歳の久蔵は「ひたすら大恩の有り難さを拝し、感涙に咽びたり」とある。

 御巡幸を記念して行在所に神社が創祀され、巡幸記念祭は現在も続けられている。

 御巡幸を区切りとして、開拓使は幕を閉じ、北海道庁に引き継がれる。当初は稲作を試みた農民が投獄されることさえあったが、民間人の成功を無視できなくなった道庁は「稲作の推進」を決め、26年には稲作試験場を開設し、公的な米作りが始まる。

 開拓使設立から四半世紀を経て、ようやく寒地稲作は公認されることになった。

 同26年の新嘗祭には久蔵が育てた新穀が供進された。36年には緑綬褒章を受章する。

 大正4年、米寿を迎えた久蔵は、「明治初頭、私は2キロの種籾で百万石の収穫を上げてみせると大言壮語した。この分だと存命中に百万石達成は堅い」と語ったが、実際、北海道の米生産は久蔵が93歳の天寿を全うした大正8年の翌年、百万石を超える。


▢ なぜ米作に固執したのか
▢ 駆け足で過ぎていく近代

 不作の年、畑作を勧める札幌農学校の教師を、久蔵は怒鳴り返したという。政府の消極的方針にもかかわらず、久蔵らはなぜ米作に固執したのか?

 作柄を記録する『広島村史』には、干害、半作、水害、凶作の文字が無情にも並ぶ。克服すべき困難は想像以上のものであったろう。

 なのに、である。

 民俗学者の柳田国男は考えた。

 日本人の祖先は米作適地を求め、長い歴史をかけて北に移住し、ついには稲作にもっとも不適な雪国にたどり着いた。「ぜひともそうせずには居られなかった、深い動機」があったからだ、と。

 深い動機とは何か、國學院大學の坪井洋文氏によれば、「稲に対する信仰と先祖への信仰」だという。

「非合理的執念ともいえるほどの努力の積み重ねによって、たとえば国策に反してまでも北海道の稲作成功に成功を収めた」(『稲作を選んだ日本人』)というのだ。

 開拓使は、秋には切り株に神棚を置き、黒木の鳥居を建てて、神祭を斎行した。また棒杭に祭神名を墨書して、神社とした(北海道教育大学・村田文江、季刊「悠久」平成5年4月号)。

 深い信仰の支えなしには厳しい開拓事業は進まなかったのだろう。しかし「信仰」の一言で説明するには、あまりに過酷といえないか。いや、それが信仰なのかも知れない。

 広島町は今年(平成8年)9月、市政が施行される。人口5万4000人(平成7年)。いまや札幌のベッドタウンだ。

 交通量が多く、中心街は高速道路のなかに家並みがあるような喧噪ぶり。他方、のヴ今日人口は1%にも満たず、農地は減少の一途だという。

「農業では食っていけない」

 これが今日、稲作農業の悲観論の最大の根拠だが、経済合理性だけなら遠別にまで稲作が北進しただろうか?

 そもそも私たちの祖先は、米作には必ずしも適さないこの日本列島で、米作りを進めただろうか?

「北海道は歴史がない」とはよく聞かれるセリフだが、北国の短い近代史が知らぬ間に駆け足で過ぎ行こうとしている。

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