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水田稲作を伝えた人々 ──縄文人と混血同化した渡来人 [稲作]

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水田稲作を伝えた人々
──縄文人と混血同化した渡来人
(「神社新報」平成9年2月10日)
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「長江文明」──。黄河文明より何と1000年も古い古代の都市文明。その存在を裏づける遺跡が発見された、という世界史の常識を塗り替えるニュースに驚かされたのは昨年(平成8年)10月下旬。

「第5の古代文明」の存在は、すでに長江中・下流域から5000年前の城壁などが発見され指摘されていたが、今回、日中共同の発掘調査によって、上流の成都市郊外「隆馬(りゅうま)古城遺跡」が神殿を備えた巨大な城壁都市であることが判明し、間違いなく都市文明が存在したことが実証された。

 年代は5〜4000年前にさかのぼり、メソポタミアと並ぶ「世界最古の文明」。「4大文明」がすべて麦作文明であったのに対して、稲作が基盤だという。稲作は都市文明を作らないとする歴史の通説は覆された。

 8〜7000年前の世界最古の稲作遺跡が続々と発見される長江はまた日本の稲作文化の原郷といわれるが、さてそれでは、「長江のたまもの」である稲作を日本列島に伝えたのはだれなのか。謎が解かれる日はいずれはやってくる。


▢ 稲作は「長江のたまもの」
▢ 民族移動でアジア各地へ

 昨年(平成8年)10月28日、京都市西京区の国際日本文化研究センター1階の会議室に、100人を超す報道関係者が詰めかけた。「長江文明学術調査隊」(日本側総団長梅原猛=同センター顧問)の記者会見は歴史的発見の驚きに満ちていたようだ。

 無理もない。地下レーダーや衛星などを駆使するハイテク考古学が、「中国最古」の黄河文明を一気に1000年もさかのぼる4500年前の城壁都市を四川省・成都高原で発見したからだ。

 これまで中流域の湖北省石家河(せっかが)遺跡、下流域の湖南省城頭山遺跡の発見で長江文明の存在が提起されてきたが、今回は城壁のほかにピラミッド形の祭壇が同時に発見され、長江の稲作農業が都市を形成していたことが明らかになった。

 1100×600メートルの長方形の城壁に囲まれた遺跡の中央部の丘「鼓墩(ことん)」から見つかった三重の基壇は、南北60メートル、東西40メートル、高さ6メートル。同じ四川省の羊子山(ようしざん)遺跡から出土した周の時代の基壇より1500年も古い、世界最古の祭壇という。

 メソポタミアの古代都市では中央の神殿ジッグラトで王が祭祀を執行したが、今回、発見された基壇の北東隅からは生け贄にされたらしい人骨も発見された。

「鼓墩」の地名は王が太鼓をたたいた伝承に由来するという。どんな祭祀が、何の目的で、斎行されたのだろう。

 調査隊長を務めた同センターの安田喜憲先生は10数年前から小アジア周辺で湿原のボーリングによる花粉分析を行い、古代文明が誕生した5500〜4500年前は地球史上特筆すべき気候変動期に当たるという重大な発見をした。

 5000年前にヒプシサーマル(気候最適期)が終了し、気候は急速に寒冷化する。北緯35度以南の北半球では乾燥化が進み、大河の周辺に住む牧畜民は水を求めて大河のほとりに集中、先住の農耕民と融合する。

 ここに古代文明が同時期に誕生したのではないか、と安田先生は環境考古学の立場から推理する(「科学」88年8月号所収論文)。

 ところが、この仮説では黄河文明の成立が1000年も遅れる理由が説明できない。いや、そうではなかった。それがここ数年来の長江文明の発見だ。そして今回の遺跡発見は、長江文明の存在を決定づけた。

 しかし長江文明は4200年前に起こった世界的な洪水で突如、崩壊する。茨城大学の徐朝龍先生によると、生き残った人々が北上して黄河流域に夏王朝を開いたという。

 つまり黄河は文明の先進地ではない。崩壊した長江文明の衝撃波によって生まれた2次文明だという(梅原猛ら編『良渚(りょうしょ)遺跡への旅』)。

 その後、3000年前に起こった寒冷化で北方から狩猟・麦作民族が南下し、中国は春秋戦国の動乱期を迎え、「気候難民」や「ボートピープル」が発生する。

 長江の稲作文化がアジア各地に伝播するのは、じつにこのときらしい(『講座文明と環境5』所収論文など)。


▢ 「渡来系弥生人」の原郷は
▢ 長江流域か北東アジアか

 5000年前、長江下流域では稲作による都市文明が築かれていたのに、わずか600キロしか離れていない日本列島の九州で稲作が始まるのは、それから2000年後のことであった。

 その間、漆や瓢箪、鹿角斧、玉器などの大陸文化は伝来したが、稲作は普及しなかった。安田先生が説明するように、縄文人は稲作を拒否したのだろうか。それとも日本列島がまだ深い森に覆われていて、稲作に適した湿地草原が形成されていなかったからなのか?

 今回の日中学術調査隊の隊員でもある、皇學館大学の外山(とやま)秀一先生が書いているように、日本列島での稲作の開始と波及は従来、考えられていたよりも一時期、あるいはそれ以上さかのぼり、東日本への普及は予想以上に早かったことが分かってきた(『講座文明と環境5』所収論文など)。

 しかし、誰が日本列島に稲作をもたらしたのか、稲作を伝えた弥生人の正体を把握するのはなかなか難しいらしい。

 稲作が伝来した縄文晩期〜弥生前期の人骨がほとんど見つかっていないからである。北部九州で甕棺から膨大な量の弥生人骨が出土するようになるのは、弥生中期という。

 一口に弥生人といっても、一様ではないらしい。

 山口県・土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムの松下孝幸先生は、西日本の弥生人を次の3タイプに分類している(季刊「考古学」96年8月号所収論文)。

①北部九州・山口タイプ=面長+鼻の付け根が扁平+彫りが浅い+背が高い
②西北九州タイプ=顔が短い+顔幅は広い+鼻が高い+背が低い
③南九州・南西諸島タイプ=顔が非常に短い+顔面が小さい+上から見ると頭が円に近い+身長が非常に低い

 このうち農耕民は①で、大陸からの渡来系弥生人と推定される。②と③は漁労民だろうと松下先生は推測する。また、②は縄文人の直系の子孫だというのだが、だとすると、③はどうなのか?

 ③の出土例の1つ、種子島・広田遺跡は弥生中期の埋葬跡で、昭和32年からの発掘調査では100体を超える人骨が発見された。骨格の特徴は現在の島民に似るという。

 遺跡から宇宙センターを隔てて南西6キロのところに、宝満神社が鎮座している。同社では古来、赤米が栽培されてきた。この米は東南アジア起源の熱帯ジャポニカとされ、御田植祭の踏耕(ホイトウ)などに南方系の農耕文化の名残が見られる。

 赤米を伝えたのは広田人なのだろうか?

 さて、①の渡来系弥生人だが、松下先生によると、7000年前の稲作遺跡といわれる長江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡から出土する河姆渡人とは共通性がない。

 河姆渡人は日本の縄文人とも、中国の新石器時代人とも違う異様な容貌をしている。

 けれども、山東省の東周と漢代の人骨は予想以上に①にそっくりで、直接の渡来元はともかく、渡来人の源流が大陸にあることはおそらく間違いないという。


▽ 縄文と弥生の「二重構造」

 国際高等研究所の埴原和郎先生の見方は少し違う。

 縄文人は東南アジアに源流をたどれるが、北九州や山口地方から出土する弥生人は中国ではなく、朝鮮半島からの渡来人で、原郷は北東アジアにあるという。

 渡来系弥生人は朝鮮半島人のみならず、モンゴリア、中国東北地方、東部シベリアなどの高度な寒冷適応を遂げた民族にきわめて近い特徴を持っているというのである(埴原『日本人と日本文化の形成』など)。

 しかし、北東アジアから稲作がやってきたとは考えにくい。

 静岡大学の佐藤洋一郎先生(植物遺伝学)は、朝鮮半島南部をかすめる程度ならいざ知らず、半島経由で稲が渡来したとすれば、元来は晩生の稲が早生化し、のちにまた晩生に戻ったとしなければ説明できない。遺伝学的にその可能性は低いという(佐藤『稲のきた道』)。

 これに対する埴原先生の答えはこうだ。

「文化と遺伝子の流れは違う」

 つまり、「北方の民族が南方の米を持ってくる」可能性は十分あるというのだ。

 朝鮮半島では紀元前8〜前6世紀ころに中・南部で稲作が始まったようだが、中国東北部の森林地帯から南下していた北方ツングース系の民族が朝鮮半島南部で稲作の技術を摂取、習熟したのではないかと推測するのである。

 その後、紀元前3世紀ころから朝鮮半島は西方の漢族の攻撃にさらされる。さらに避難民などが殺到すると、動乱を避けて日本列島に渡来したということか?

 他方で、埴原氏は、中国からの直接渡来の可能性も指摘しているが、ともかくも渡来人の大量出現で、日本列島の民族と文化は縄文系と渡来系の「二重構造」を示すようになる。


▢ 渡来人の数は千年で百万人
▢ なお遠き古代天皇制の成立

 弥生時代から古墳時代に移行すると、朝廷が渡来人を積極的に受け入れたため、その数はさらに急増する。

 埴原先生は、弥生初期から6世紀末までの1000年間に数十万〜100万人以上が渡来し、日本人全体の6〜7割にまで達したと推計する。古代の日本列島の国際的環境が浮かび上がる。

 当然、西日本では渡来人の特徴が強まり、その一方で、縄文系と渡来系の中間的特徴を示す個体が多く見られるようになるという。混血が進んだ結果らしい。

 西日本の古墳人は縄文系と弥生人が2対8、または1対9の割合で混血した、と埴原先生は推定する。

 記紀は、葦原中国に天降った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫が国譲りののち、国つ神の娘たちと結婚を重ね、やがて神武天皇が生誕されたとし、天つ神と国つ神の葛藤と和解をつづっている。

 古代史の記憶が神代史にこめられていることは間違いないだろう。

 佐藤先生は、大陸起源の温帯ジャポニカと東南アジア起源の熱帯ジャポニカが日本列島で自然交雑し、早生が生まれ、その結果、短期間に稲作が北東北にまで伝播したとの斬新な説を提起したが、稲作を伝えた渡来系弥生人もまた縄文人と混血し、同化したとは何という符合だろうか?

 日本の稲がそうであるように、複数の民族と文化が混合し、汎アジア的性格を持つ「本土日本人」とその文化が誕生したと見ることはできないだろうか?

 「稲作東漸」と同様に、渡来系稲作民の特徴はその後、まるで「神武東征」さながらに西から東へと拡大していく。

 しかも、埴原先生によれば、縄文系と渡来系の混血同化は現在も進行しているという。

 それにしても、なぜ渡来人は同化したのか?

 かつては縄文人は日本人の祖先によって駆逐されたという説もあったぐらいで、稲という食糧と鉄の武器を持つ渡来人が縄文人を征服することは不可能ではなかったはずである。しかし征服説は今日、否定されているという。

 埴原先生はこう説明する。

「渡来人は一度に大量にやってきたのではない。砂に水が染み込むように、やってきた。縄文人は山に隠れることもできたから、平地に住む渡来人と棲み分けが成立した。混血は人間の本性の結果で、自然に、平和的に進んだのだろう」

 けれども弥生時代はけっして平和の時代ではない。むしろ激動と戦乱の時代である。稲作は富の蓄積をもたらし、同時に犯罪と戦争が発生する。村は侵入者を防ぐために濠で囲まれ、柵や門、物見櫓で固められた。鏃(やじり)や剣、楯などの武器も生まれる。

『魏志』倭人伝は、弥生末期に倭国が乱れ、互いに攻伐し、その後、女王卑弥呼の共立で邪馬台国が誕生したと記している。

 戦いと同化から地域的な政治集団が形成され、やがて統一国家が生まれる。邪馬台国はその過程らしい。古代天皇制の成立はまだ遠いが、その延長線上にあることはたしかだろう。


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