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稲作を伝えた人々の神──なぜ「八百万の神々」なのか [稲作]

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稲作を伝えた人々の神──なぜ「八百万の神々」なのか
(「神社新報」平成9年3月10日)
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前回は、日本の稲作の源流として注目される長江文明について紹介した。5千年前、地球の寒冷化によって、中国・長江流域に稲作を基盤とした古代文明が誕生する。メソポタミアと肩を並べる世界最古の文明である。

3千年前にふたたび寒冷化がおこり、北方民族が南下、中国は春秋戦国の動乱期を迎える。戦乱を避けて、稲作民が周辺地域に散った。日本に稲作が伝来するのは、じつにこのときという。

その後、古墳時代までに100万人が渡来したともいわれるが、興味深いことに、先住の縄文人と混血同化し、「本土日本人」が成立する。

稲作の伝来は宗教をどう変えたのだろう。多神教から一神教への転換がおこったのか。激烈な神々の戦争がおこったのかというと、そうではない。縄文人が信じた大地の神と渡来人が崇めた稲作の神が、併存したらしい。

八百万(やおよろず)の神々が共存する日本人の信仰は、弥生時代にはじまるようだ。そのことはどんな意味を持つのか、世界の文明史からひも解いてみたい。


▢ 砂漠で生まれた一神教
▢ 大地の神からは天候神

東京大学の鈴木秀夫先生によると、一神教は5千年前、エジプトのナイル川のほとりで生まれたという(『森林の思考・砂漠の思考』)。

このころ地球は寒冷化と乾燥化が平行しておこる。緑に包まれていたサハラは砂漠化した。人々はナイル河畔に集中し、流民を安い労働力や奴隷とする古代エジプト文明が誕生する。

乾燥化は森林を消滅させ、宗教を変えた。農耕生活で信じられていた地母神、雨の神など多神教の神々が離脱し、太陽神だけが残る。

エジプトで唯一神が生まれたのに触発されて、イスラエルの民が一神教に移行する。砂漠の周辺で牧畜生活をおくる彼らに大切なのは草であり、恵みの雨をもたらす嵐であった。嵐の神バールから唯一神ヤハウェが生まれる。モーセの「出エジプト」の時代らしい。

西洋の宗教はこうして砂漠で生まれたが、一方、東洋の宗教はインドの森林で成立した。

3500年前、地球の乾燥化が進み、インダス文明が終焉する。その後、侵入したアーリア人は森林を火で焼き、農地を開いた。イスラエルの影響で、インドにも一神化がおこる。火の神、太陽神、モンスーンの神がその座を去った。

造物主の概念も展開される。しかしアーリア人は万物の根源より、万物を生じさせる根本の力に注目し、ブラフマン(梵)と名づけた。独自の世界観を生んだのは森林である。日常を離れた瞑想と思索のなかで、アートマン(我)と梵とが1つになる梵我一如の真理に到達する。

灼熱の砂漠の思想はやがてユダヤ・キリスト教となり、深い森林の黙想はバラモン教、仏教に展開した。かたや唯一絶対神、天地創造と終末を信じ、かたや世界の無始無終、万物流転を説く。西洋と東洋の文明の違いは、3500年前の地球の乾燥化から生まれた、と鈴木先生は説明する。

国際日本文化研究センターの安田喜憲先生は、3200年前ごろの気候変動を境に、西アジアでは天候をつかさどる嵐の神バールが力を増してくると指摘する(『文明と環境1』)。

遺跡には蛇を殺すバール神の浮彫りが見られるようになる。蛇は大地の神で、バール神は左手に豊穣のシンボル、右手に斧や棍棒を持ち、蛇神と戦っている。

大地の神から天候神への転換だが、この背景には、気候変動が影響しているという。

気候が安定していた時代は大地の恵みに感謝すればよかった。しかし天候が不順になり、麦が稔らなくなると、天候神への祈りが捧げられる。バール神は新たな豊穣の神であった。

奇しくもこの時期は、カナンの地にイスラエル人が居住を始めた時期と重なるようだ。バール神からヤハウェが生まれることはすでに触れた。『聖書』は悪魔(サタン)を蛇として表現している。

蛇神を殺すバール神は、須佐之男命による八岐大蛇退治を想起させる。安田先生は、須佐之男命は日本のバール神だと理解する(『文明と環境2』)が、何かつながりがあるのだろうか?


▢ 中国・長江の稲作民の神
▢ 縄文人の神と弥生人の神

5千年前、中国・長江流域で成立した長江文明は、アジア稲作の源流といわれている。ところが下流域で5千年前に栄えた良渚(りょうしょ)文化は、4200年前に襲った大洪水によって突如、崩壊する。その後、遺民が黄河流域に建てたのが黄河文明だとされる。

なぜ良渚文化は滅亡したのだろう。それほどすさまじい洪水だったのか?

金沢大学の中村慎一先生によると、文明の爛熟の結果、自滅したのだという(『講座文明と環境5』)。

洪水は稲作の予祝をつかさどる祭祀王の権威を失墜させる。災害の責任は祭祀王に帰せられ、王は殺され、秩序回復が図られた。しかし、何十年も続く洪水は神聖王権の基盤そのものを崩壊させた。

長江文明を支えた稲作民は、どのような神を信じていたのだろうか?

国際日本文化研究センターの徐朝龍先生によると、殷(いん)から西周前期にかけて、長江上流に栄えた三星堆(さんせいたい)文明では、太陽信仰、神鳥崇拝を核にした宗教が崇拝されたという(季刊『考古学』96年8月)。

アジア民俗学の萩原秀三郎先生によると、長江の稲作民の末裔が湖南省などに住むミャオ族だという。

人口は503万人(82年)。文字はない。洪水で生き残った兄妹が人類の始祖となるという洪水神話を持ち、もちろん稲作を行い、高床住戸に住む。祖先祭や正月を大切にし、餅、おこわ、糯(もち)稲の酒を欠かさない。チガヤ信仰や鳥霊信仰がみられる(月刊『しにか』93年8月号)。

黄河文明最初の夏王朝の始祖となるのは、江・河・淮・済の四瀆(とく。河川)を改修するなど、治水の大業を果たした古聖王禹(う)である。

禹王が掘削したと伝えられる龍門は登竜門の故事で知られる。鬼門の祭りを立派にし、灌漑を広め、みずから耕し、天下を治めた。そして、のちに農業の神と崇められた。

夏・殷・周の皇帝は、神木を依り代とする「社」を建立し、土地神と穀物の神をまつった。皇帝は社の前で、上帝の命を受けて即位したことを宣言した。上帝を祀ることは天子の特権であった(水上静夫『中国古代王朝消滅の謎』)。

また、周では藉田の儀礼が行われた。皇帝みずから田植えをされるのである。

3000年前、気候の寒冷化で北方民族が南下すると、中国では春秋戦国の動乱期が始まる。「気候難民」や「ボート・ピープル」が大量に発生し、混乱を避ける稲作民が周辺地域へと拡散する。稲作が拡大し、森に覆われた日本列島にもおよぶ。

縄文人は大地の神々を信じ、蛇を大地の主と考えていたらしい。縄文土器には蛇の文様が見られる。ところが、弥生時代には蛇を追いかけるような文様が銅鐸などに現れるという。

天理大学の金関恕先生によると、3世紀の南朝鮮・馬韓(百済)地方では、農耕神として鬼神がまつられていたという(『弥生文化の研究8』)。穀倉を兼ねた神祠に男女2対の祖先像がまつられ、木の鳥をあしらった背の高い竿(烏杵。そと)を立てて聖域とした。

弥生時代後半から古墳時代に入ると、大地の神々をまつる信仰と同時に、天を祀る信仰が生まれる。従来の祭祀具である銅鉾や銅剣は人里離れたところに埋納されたままになり、代わって銅鏡が中心的な役割を果たすようになる、と安田先生は書いている。

古社中の古社である大神(おおみわ)神社は、大国主命が国作りの際、御諸山(三輪山)に大物主神を祀られた社とされているが、興味深いのは箸墓伝説である。

孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命は、いつも夜になって通ってこられる夫の大物主神に、お顔を見せてほしいと願う。神は

「翌朝、櫛箱に入っていよう。でも驚かないように」

とお答えになった。

姫が箱を開けると蛇だったので驚く。神は恥じて山にお帰りになる。命は座り込んだ拍子に箸を陰部に突き刺して亡くなられる。奈良県桜井市の箸墓古墳は命の墓とされる。

大物主神や須佐之男命など国つ神は蛇信仰と関係がある、と安田先生はいう。そしてまさに、最古の巨大前方後円墳といわれる箸墓古墳が造られた時代から、天つ神と国つ神が同時に祀られると指摘する。


▢ 天つ神と国つ神の統合
▢ 記紀に秘められた英知

弥生時代から古墳時代にかけては、やはり気候が寒冷化した時代だという。

中国では洪水が多発し、反乱が激化する。そして、黄巾の乱で後漢は崩壊していく。老荘思想がおこり、仏典が翻訳されるのはこのころである。

日本では、『魏志』倭人伝のいう「倭国大乱」の時代に相当する。大乱を収めたのは卑弥呼の共立、邪馬台国の成立で、卑弥呼は鬼道に仕え、民衆を導いた。鬼道は中国の初期道教だとの説がある。魏の皇帝は卑弥呼に銅鏡100枚を贈った。道教と関係があるらしい。

この古墳寒冷期は、世界的な民族移動の時期でもある。ヨーロッパではゲルマン民族の大移動が起こる。中国では後漢末の大動乱で、難民が大挙して南下した。朝鮮半島では洪水と豪雪が襲い、高句麗が南下、百済から日本列島に渡来人が安住の地を求めて殺到する。

秦始皇帝の子孫とする秦氏、後漢霊帝の子孫と称する漢氏など古代氏族の一大勢力は応神朝に渡来した。今来神も渡来する。秦氏は京都盆地などで水田開発を行い、のちに伏見稲荷大社や松尾大社を創建する。

つづく7世紀も寒冷期で、ヨーロッパがイスラム勢力によって席巻されたころ、東アジアも激動の時代を迎える。大化改新、百済滅亡、白村江の戦い、大津遷都、壬申の乱はこのころに起こる。

激動を乗り越えて、日本は律令時代を迎える。

記紀の編纂は、壬申の乱後、天武天皇の詔によって始められた。既述したような国際的な環境のなかで、記紀神話は成立する。

哲学者の上山春平先生は、記紀の特徴は中国の正史に見られない神代巻にあり、神代巻は氏姓制を打破し、律令的君主制の由来を説く国家哲学だと理解している(『天皇制の深層』)。神話は体系化され、各氏族の神は国家の神として秩序づけられた。

たとえば、天地開闢で、まず天之御中主神が成り、つぎに皇祖高御産巣日神、出雲系の神産巣日神が成り出る。皇祖神天照大神と出雲系の須佐之男命は御姉弟であられる。神武天皇は天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫が国つ神の娘たちと婚姻を重ねあとに生誕される。

上山先生は、大化改新の前後に神々の序列に変動があるとし、「神祇革命」と呼んでいる。その仕掛人は藤原不比等だというのだが、だとすれば、なぜ藤原の氏神を最高神とする一神化を図らなかったのか。なぜ多神教的世界が存続したのか?

西洋では一神化の過程で多神教の神は駆逐され、古代ローマではキリスト教の浸透で祖先崇拝は廃れた。だが、日本ではそうではない。

大嘗祭は新帝が手ずから天神地祇に稲作民の米と畑作民の粟とを供せられ、御みずから聞こし召される国家の最重儀である。ここに神聖な祭祀に基づいて、八百万の神々と国家とを統合し、統治される天皇の偉大な本質が見えてくる。天武天皇が

「大君は神にしませば」

と詠われるゆえんであろう。

おりしもいま閉山が伝えられる三池炭鉱では、戦後の御巡幸のとき、坑夫が赤旗を振って気勢を上げていた。しかし昭和天皇が御到着になると、シュプレヒコールは歓喜の万歳に変わったという。

陛下はキャップランプに白の坑内服姿で地下深い坑道をめぐられた。祭り主の権威は民族の分裂を救うのだ。

世界には2000年もつづく血生臭い宗教的抗争すらあるが、古代においてすでに、日本人は、世界に稀なる、平和と秩序を持続させるための英知を獲得していたのではないか?


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