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飢餓の世紀がやってくる──他人事では済まされない [食と農]

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飢餓の世紀がやってくる──他人事では済まされない
(神社新報、平成9年7月14日)
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2年前(平成7年)のことである。「世界最貧国」といわれるバングラデシュの首都ダッカの高級住宅街を散策していた。以前は日本大使館も並んでいた街は、物乞いなど貧しい人たちのたまり場でもある。

髪を2つに束ねた女の子が歩いてくる。薄汚れたワンピースに裸足だが、ポリ袋を片手に表情が明るい。何やら重そうだ。「何を持っているの?」。声をかけ、袋を覗き込んだ途端、絶句した。残飯だった。

政府高官や大使館員の自宅では、毎日のように昼間から豪華なパーティーが開かれているという。女の子は残り物にありついたのだろう。今日の命の糧を得た喜びを満面に表しているのを見て、人間の尊厳とは何だろうと胸が痛んだ。

だが、人口1億2000万人のうち「絶対的貧困ライン」を下回る人たちが2、3割にも上るといわれるこの国の現実は、80億の人口を目前にする「満員の地球」にとって他人事ではない。


▢1 「黄金のベンガル」の現実。目を覆う大戦中の大飢饉

1年数か月ぶりのダッカは、ずいぶん様変わりしていた。空港にはエプロンが新設され、国際空港らしくなった。空港ビルを出た途端、物乞いや野次馬たちの「大歓迎」に度肝を抜かれることもなくなった。

街には高層ビルが増え、縫製工場では、女工たちが夜遅くまで働いている。道路も良くなった。バスやトラックが猛スピードで走り去るのは相変わらずだが、こぎれいな車が多くなった。

一見、確実に経済発展を遂げているかに見えるこの国だが、貧富の差はますます拡大しつつあるらしい。ダッカ中央駅の周辺に、路上生活者の掘っ立て小屋がひしめき合っているのには驚いた。駅構内にあったスラムが拡大し、外にまで溢れているのだという。

「都会はまだしも」と語るのは、ほとんど1人で援助活動に取り組んでいる「雲母(うんも)の会」の河原裕子代表だ。最北部のクリグラム県では海外援助も届かず、餓死が日常的に発生する。着るものもなく、「冬には凍死者も出るんです」。

ダッカ郊外の村で出会った土地なし農民A・ジャラールさんは、「明日から仕事がない」と嘆いていた。「雨季には働き口がない」。日当は40〜50タカで、2年前の2倍に増えたが、インフレで生活は楽ではないようだ。

4人の子供は学校には通っていない。食事は1日3回は食べられない。かわいそうなのは妻ビアさんの病気で、「去年から一日中、胃が痛い」。月90タカの薬代は家計を圧迫している。それでも「よく訪ねてくれた」といって、小豆粒ほどの落花生を差し出してくれたのには涙が出た。

救われるのは彼らの明るさと優しさだ。

詩聖タゴールがかつて、「黄金のベンガル」と謳い上げたほど豊かな国が、なぜこうなってしまったのだろう。ほんとうに食糧は足りないのか、というとどうやらそうでもない。

この国では、地域によっては半年も土地が水没するが、灌漑すれば年に3度、米が穫れる地方もある。反収は低いが、1991(平成3)年には2738万トンの米が生産された。日本は1201万トンだったから、2・3倍にあたる。その後、2年続きの豊作に恵まれ、完全自給を達成したばかりか、5万トンを輸出したともいわれる。

国民1人あたりの穀物消費はアメリカの年800キロには及ばなくとも、インドの200キロよりは高い水準を期待できるはずだ。

それなのに、なぜ餓死者が発生するのだろう。71年の独立以来、毎年200万トンもの米を海外からの援助と輸入に依存しなければならなかった理由は人口圧だけではない。

第2次大戦中の43(昭和18)年、目を覆うような大飢饉がベンガルを襲っている。東大の荏開津生氏によるとこうだ。

42年の前半、米の移出が増加し、在庫が乏しくなったところへ、10月にサイクロンが襲い、年末に収穫されるアマン稲の収量が激減した。さらに悪いことに、大雨でガンジスが氾濫し、ベンガル湾からは津波が押し寄せた。

翌43年の年初から米価が暴騰、6月には前年比8倍に跳ね上がる。飢餓が発生し、疫病が蔓延した。死者は300〜400万人に及んだという。

原因は米不足というより、買い占めによる米価の高騰であり、その背景には戦争がある。

破竹の勢いの日本軍が42(昭和17)年3月、ビルマのラングーンを占領したのち、大量の難民がベンガルに流れ込んだ。イギリス軍は食糧を半ば強制的に徴用し、食糧を奪われた人々は難民の群れとなり、カルカッタの路上で死んでいった(『「飢餓」と「飽食」』など)。

結局、飢餓は天災であると同時に人災であり、政治問題なのだろう。一国のなかに南北問題があり、飢餓と飽食が同居する。カラスや野犬といっしょに掃きだめを漁る人がいるかと思えば、何百ヘクタールもの大土地所有者や高層ビルの個人オーナーもいる。

そして、「南」の国の悲劇は「北」に住む私たちの生き様と深く関わっている。


▢2 数十年後に地球の危機。絶対量が不足する食糧

国際日本文化研究センターの安田喜憲氏は、地球の人口が80億を超える2020〜30年ごろに環境悪化、食糧不足、高齢化、飢餓、難民の大量発生、旱魃などによる文明崩壊の危機に直面する可能性が高いと警告する(『講座文明と環境6』)。

飢餓の時代の到来を予測するのは、安田氏ばかりではない。アメリカ、ワールドウオッチ研究所のL・ブラウン氏は90年代を境に、食糧増産の時代は終わったと分析する。

根拠としては、①食糧増産のための新しい農業技術がない、②漁場や放牧地の生産能力が限界にきた、③水の需要が地球の供給能力を超えている、④化学肥料による増収効果が期待できない、⑤工業化の影響で農地が消失している、⑥人口急増と環境悪化が社会混乱と政治分裂を引き起こしている──をあげている。

2030年までの40年間に人口は毎年9000万人ずつ、計36億人増加するが、地球は巨大な人口を養っていけるのかというのである(『飢餓の世紀』)。

京大の頼平氏は、人口爆発の中心である中国とインドの動向に注目する。

中国では「一人っ子政策」にもかかわらず、毎年1300万人の人口増が続いている。農民は穀物よりカネになる園芸作物に走り、あるいは農業を捨てて都市に流入する。農村は荒廃し、耕地は激減している。他方、食生活の向上で畜産物の消費が増えれば、飼料穀物の需要は増す。消費生活が台湾並みになれば、4億トン近い穀物が不足する。

ところがそれに見合うだけの供給量は、地球を逆さに振っても出てこない。果たせるかな、94年秋、中国は穀物の輸出禁止に踏み切った。食糧輸出国から輸入国に転落したのだ。暗い予測は現実になった。

一方、インドは21世紀末には人口が20億人に達するという。

インドを旅し、経済都市ボンベイで出国審査を終えたあと、視界に飛び込んできた光景には目を奪われたことがある。ガラス1枚隔てた向こう側に、「世界最大のスラム」が大パノラマのように広がっていたからだ。これが急成長するインドの現実なのだった。

現在の生活水準を維持しようとすれば、世界の人口は80億人が限界だという。95年を転機として、世界は食糧過剰期から不足期に移行した。2020年頃には食糧危機が到来する。食糧を買いたくても買えない時代になるという。食糧の絶対量が不足するのだ。食糧争奪の修羅場が展開されざるを得ない。

安田氏が次のように書いている。日本の未来予測図はバラ色に描かれている。都市には超高層ビルが建ち並び、スーパーハイウエーを未来カーが走る。超音速ジェット機が大空を舞い、リニアが人を運ぶ。ところが、田畑は描かれていない。21世紀はバイオで合成した宇宙食のような食事をするというのか(『講座文明と環境15』)。

気候変動と戦争、人口爆発と環境破壊、疫病でギリシャ文明が衰亡への道をたどったように、現代文明も崩壊に向かっていると安田氏は警鐘を鳴らす。


▢3 葦津耕次郞の東亜への思い。隣国の飢餓を黙過できるか

昭和11年夏、日支事変(日中戦争)が勃発してから、葦津珍彦氏の父耕次郞氏は、飢えと寒さに苦しんでいるであろう占領地域内の中国人難民の身の上を案じて、居ても立ってもいられないというような状態だったという。

「支那難民救恤問題」を放置しておいて、どうして日支提携など成立し得ようか。東奔西走し、当局者に破れるほどの大声で弁じ立てた。疲れて帰宅すると、ひとり悄然とうなだれ、傍目にも気の毒なほどだった。あるいは、たとい外交辞令程度の返答でも、なにがしかの進展があると子供のように喜んだ。

東亜の将来を思う耕次郞氏の念頭を離れなかったのは、明治天皇の御製「いつくしみあまねかりせばもろこしの野にふす虎もなつかざらめや」で、つねに拝誦していたという。

昭和初年といえば、日本の農村も大恐慌に続いて凶作が頻発し、窮乏のどん底にあった。とくに東北は悲惨だった。岩手のある女性教師は日記にこう書いている。「はるばると通学してくる生気のない欠食児童の顔……かつての教え子は料理屋に売られた」。宮澤賢治が「雨ニモ負ケズ」を書いたのはこのころである。

耕次郞氏は東亜の将来を思うあまり、寝食を忘れ、健康を害する。けれども病床にあってなお軍の暴走を必死で止めようと「国難に直面し我政府当局の反省を望む」を書いた。諫諍論文は直ちに発禁押収される。親友の池田警視総監が忠告すると、「いまの日本で反軍でない奴は不忠不義だ」とまで言い切った。

耕次郞氏の辞世には、日中の和解を望んでやまなかった氏の深い同情が込められている。「天地の道に二つはなかりけり慈しみてふことのほかには」。

昏睡状態に陥ったあと、うわごとのなかで、生涯の事業とした祭祀の確立ができなかった責任と日支事変の解決を図れなかった責任を、何度も誰かに詫びているようだったと珍彦氏が書いている。最期の瞬間まで、難民の境遇が気がかりだったのだろう。

さて、毎日のように鎖国政策のわずかな隙間から伝えられる北朝鮮の飢餓は、深刻さを増すばかりである。なぜこの国が食糧問題に苦しむようになったのか。灌漑設備がない、化学肥料の過剰投入、土壌の荒廃、勤労意欲の低下、農政の破綻という専門家たちの指摘はあるが、それだけなのか。

ジャーナリストの黒井尚志氏によると、日本が「天明の大飢饉以来」の凶作に見舞われた4年前(平成5年)、北朝鮮もまれにみる飢饉に陥った。翌年、タイ米の買い付けを試みたが、価格が折り合わずまとまらなかった。日本が大量の緊急輸入に走ったため、国際価格は2・5倍に高騰していたからである(『飽食の終わり』)。

日本人が「臭い」「不味い」といって捨てた米を、彼らは口にすることができなかった。私たちは隣国の窮状に対して、知らぬ存ぜぬを決め込むことができるだろうか。だが、政治の分厚い壁が立ちふさがっている。「自分こそは人類を悲惨から救出せねばならぬ責任者」と信じて疑わなかったという耕次郞氏ならば、どうしたであろうか。

世界では毎日1万1000人の子供が餓死している。世界最大の食糧輸入国である日本が輸入の無駄をなくせば、1億人以上の飢餓が救えるという試算もある。何しろ日本の台所のゴミは4割が食べ残しだという。(註=参考文献の執筆者の肩書きなどは発行当時)


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