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ふたたび古代の酒を探る ──外宮「火無浄酒」に秘められた謎 [酒]

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ふたたび古代の酒を探る
──外宮「火無浄酒」に秘められた謎
(「神社新報」平成9年11月10日号)
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先月中旬、神宮では伊勢市民が「大祭り」と呼ぶ、1年でもっとも重要な神嘗祭が斎行された。心の御柱の御前に由貴大御饌を供し、大神の御神徳に答える。斎庭稲穂の神勅を淵源とする最重儀である。

主饌のひとつたる神酒は明治以後、白酒、黒酒、醴酒、清酒の4種となり、篤志家から献納される清酒のほかは、神職が忌火屋殿で調進する。まず糀を御酒殿に納め、御酒殿神の御加護を祈る神事ののち、醸造が始まる(櫻井勝之進『伊勢神宮』)。

ところが、外宮では古くは「火無浄酒(ほなしのきよさけ)」という、聞き慣れない神酒が供されていた。糀を用いない酒で、「粢(しとぎ。米を水にかして砕いたもの)に御井の御水を加えただけの酒」と櫻井氏は説明する。

糀を加えないで酒がつくれるはずがない、とお考えの読者も多かろうが、実際にこれを復元した人がいるから驚きだ。前回は口噛酒を取り上げたが、噛むわけでもなく、糀も使わない火無浄酒が古風を伝えていることは間違いない。いったいどんな神酒なのか。


▢1 抜穂の御田の稲を御料とし粢に水を加えた神酒

神宮に関するもっとも古い文献で、祭祀経営の根本規範とされる『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』によると、平安期には内宮と外宮では神酒が異なっていたようだ。

延暦23(804)年に皇太神宮の禰宜などから神祇官を経て、太政官に奉られた『皇太神宮儀式帳』には、神嘗祭の由貴大御饌に酒作(さかとく)物忌が造る白酒、清酒作(きよさかとく)物忌が造る黒酒の二色の神酒を添えて供進することが記されている。

そのことは前回も触れたが、興味深いのは、これより数か月早く、度会宮の禰宜たちから太政官に提出された『止由気宮儀式帳』の方だ。

6月の月次祭、9月の神嘗祭、12月の月次祭の三節祭に、大物忌父が耕作した抜穂の御田の稲を御料として火無浄酒を造って供し、つぎに大神宮司が充てた2カ所の神戸から貢進された稲で火向神酒(ほむけのかんみき)を造って奉る、と記載がある。

白酒・黒酒はよく知られているが、火無浄酒、火向神酒の方は馴染みが薄い。どんな酒なのだろう。

ふつうはまず米を蒸煮して糀を作る。この蒸煮の際に「火」(「ほ」は「ひ」の古語)が用いられるのだが、名前から察すると、火無浄酒はこの「火」を用いない、つまり麹を利用しない酒の意味か、あるいは火を用いない粢の酒という意味らしい。

けれども、延暦の『儀式帳』には製法は記されていない。

少し詳しい記述があるのは、幕末から明治にかけての考証学の泰斗といわれる御巫清直氏が慶応元(1865)年に書いた「二宮由貴具辨正」(『神宮神事考證』所収)だ。

これによると、火無浄酒はいまは御饌に供する粢と同じように、砕いて忍穂井(おしほい)の水を加えたもので、「志乃世」と呼ぶ、とある。

忍穂井の水とはもちろん上御井の御水だが、これでほんとうに酒が造れるものなのか。米の澱粉質を糖化する過程がなければ、酒ができるはずはないから、工程の一部が脱落して伝えられているのではないか。

他方、火向神酒はいまは酒米を用いて醴酒を製する、と御巫氏は記している。醴酒とは、一夜酒とか甘酒と呼ばれるものらしい。

御巫氏の考証は江戸末期のものだから、古代の製法はまた別なのかも知れないが、延暦の『儀式帳』に、火無浄酒は大物忌父が耕作する抜穂の御田の稲を御料とするとあり、「浄酒」と呼ばれていることは注目すべきだろう。

つまり、大物忌とは本宮の御饌を供する童女で、つねに忌火物を食し、潔斎を厳重にする物忌のなかでも、とくに重職の物忌である。

『延喜式』当時、両宮とも禰宜は1人しかいなかったが、内宮の大物忌は禰宜と同列の最大級俸が与えられた。外宮では禰宜に次ぐ二級俸だが、4人の大内人と同格であった。

この大物忌を補佐するのが大物忌父で、父といっても本当の父子ではなかったようだが、大物忌父が抜穂の御田で作る稲が用いられたことは火無浄酒の重要性をうかがわせる(中川経雅『大神宮儀式解』、阪本廣太郎『神宮祭祀概説』)。

櫻井氏がいうように、火無浄酒の方に「古風があるかもしれない」。


▢2 山口県農業試場長が復元。目を奪う稲芽の糖化力

糀を用いず、粢から造る火無浄酒の復元に挑戦し、みごと成功させたのは、元山口県農業試験場長の岩瀬平氏である。

以前、「イセヒカリ」誕生物語でご登場いただいた人物だ。「山口県神社史研究」(平成8・9年)に掲載された研究論文を追ってみる。

山口県庁に勤め、もっぱら農政畑を歩んできた岩瀬氏が専門外の火無浄酒復元に駆り立てられるきっかけとなったのは、『延喜式』の記述だという。「造酒司(さけのつかさ)」の項は「こうじ」に「糵」の字を当て、「よねのもやし」と読ませていた。なぜ「麹」ではないのか。なぜ「もやし」と読むのか。素朴な疑問が湧いた。

「この時代。麹と糵の混同があった」と説明する研究者もいるが、『延喜式』編纂という大事業に不統一な文字使用があったとは「腑に落ちにない」。そうではなくて中国の餅麹と区別する意味で、日本の散(ばら)麹を「糵」と表記したのではないだろうか。

麹による酒造法は中国大陸から伝来したという説があるが、じつは日本と中国では大きな相違点がある。中国では小麦などを製粉して水で練り固め、クモノスカビなどを繁殖させる餅麹だが、日本は古来、蒸し米を粒のままでコウジカビを生やす散麹を用いる。

『延喜式』編纂は国家的な文化事業である。日本の独自性を主張しようとすれば、餅麹を表す「麹」は使えない。けれども、中国には散麹を表す文字はない。そこで「糵」で表したのではないか。「糵」は中国では漢代以降、「麦芽」の意味で、それで日本での訓は「よねのもやし」とされたのだろう。「糀」という国字が作られるのは後世になってからである。

とすると、中国には穀芽の酒があったのだろうか。いや、確かにあった。

中国・軽工業部食品局工程師を務めた包啓安氏は論文「中国の製麹技術について」(「日本醸造協会誌」90年1月)に、糵酒つまり穀芽のアミラーゼを利用する醴は麹利用の酒より発生が早い。明代の書『天工開物』には、古来、麹で酒を造り、糵で醴を造る。後世、味が薄いことが嫌われて、伝を逸したとあって、糵は水の中で容易に糖化し、麹酒よりも簡単に酒になる、と書いている。

醴酒=糵酒とするこの論文に岩瀬氏は注目した。ただ、日本の醴酒、少なくとも『延喜式』の醴酒は糀酒であって、穀芽を利用する中国の醴酒(糵酒)とは異なる。とすれば日本には糀酒に先行する穀芽酒(稲芽酒)がなかったのか。そうではない。火無浄酒こそが稲芽酒なのではないか。

籾が発芽し、もやしになるとき、糖化酵素が分泌される。このアミラーゼを利用すれば、火を用いずに酒が造れるかもしれない。芽米を粢にして水を加えれば、酒を造れるかもしれない。岩瀬氏はそう考えた。

熊本工大の上田誠之介氏を訪ねると、はたして「米の澱粉を糖化する力は唾液のアミラーゼ、発芽時のアミラーゼがもっとも強い。麦芽アミラーゼが及ぶところではない」との教示を得た。「目から鱗が落ちた」。

実験が始まった。材料には特別の好意で分譲された神宮の赤米も用いられた。2日、水に浸したあと30度に保温し、暗所で発芽を促す。発芽後、温風乾燥して粉砕する。これに製粉した掛米を合わせて仕込む。3日目に発酵が動き始め、4日目になると急激に発酵した。5日目には「容器から吹きこぼれるかと思えるほど」で、6日目に入って落ち着いた。

生成酒を分析すると、じつに17〜18%を超えるアルコール度数を示し、ビールやワインを凌駕した。蒸留して試飲してみると、淡泊な味がした。とくに神宮赤米の酒がもっともコクがあった、という。

古代の酒造に近づけるため、乾燥機や籾摺機などを使わないでふたたび実験を試みた。神宮赤米を発芽させ、籾殻の付いたまま搗き砕いて粢とし、仕込んだ。今度は乳酸も酵母も加えなかった。その結果、アルコール度数13%の酒が得られた。粢に水を合わせた古代の酒は確かに存在したのである。


▢3 アジア的視点からの新説。なぜ外宮に伝えられたか

さて、稲芽酒と糀酒、それらはいつ、どこで、どのようにして生まれたのか。

カビ酒(糀酒)の偶然発生説または自然発生説、あるいは日本起源説などの諸説に対して、アジア的な視点から大胆な新説を打ち出したのが、国立民族学博物館の吉田集而氏だ。日本で独自のカビ酒が発見されたという可能性はない。カビ酒は稲作とともに中国から朝鮮半島を経て伝えられた。酒の概念と酒が本格的に定着したのは、紀元前6〜8世紀ごろと推定する。

吉田氏は、カビ酒の起源は麦芽酒で、稲芽酒という中間タイプの酒を経て成立したとする。吉田氏はこれを「カビ酒の稲芽酒起源説」と呼ぶ。

稲芽酒はインドと中国の2カ所で発生した。中国では紀元前400年ごろに華北の黄土地帯で麦芽酒が造られ、前300年頃に華南に伝えられた。黄河と長江の間で麦芽酒は稲と出会い、稲芽酒が生まれる。

ところが、稲芽はほとんど糖化力を持たず、稲芽では酒はできない。できないはずだったが、発芽に好適な条件はカビの繁殖にも好適で、結果として稲芽酒が成立する。やがて試行錯誤からカビが醸造に有効だと知られるに至り、カビ酒が成立する(『東方アジアの酒の起源』)。

「稲芽には澱粉の糖化酵素がほとんどなく、稲芽では酒はできない」というのが吉田説の推論では重要であり、それは前述した明代の『天工開物』の記述とも通じる。

となると、岩瀬氏の火無浄酒復元は吉田説に真っ向から異論を唱えたことになる。実験では稲芽の糖化力が弱いどころか、抜群の発酵を示した。「発芽という生命現象で、ものすごい化学反応が起きている。糖化力が弱いはずがない。実験をすれば明らかだ」。

岩瀬氏の推理では、「焼畑農耕に水陸未分化の稲があって、稲芽酒が生まれ、その試行錯誤のなかから、あるいは同じ照葉樹林帯に属する中国江南から本格的な水稲耕作が伝えられることによって、黄麹菌による糀酒が独立してくることになったと推察される」というのだが、どうだろう。

謎は多いが、稲芽酒とカビ酒の古体が、外宮の火無浄酒と火向神酒に発展したことは間違いなさそうだ。

今年7月、岩瀬氏は山口県神社庁で研究の成果を発表した。それまで櫻井氏とは文献解釈について何度も手紙をやり取りした。復元成功を伝えると返事が届いた。

「粢に水を合わせただけで本当に酒になるものかと疑問を抱いていたが、実際に酒ができると知って安心した。昔の記録に間違いはなかった」

それにしても、火無浄酒が内宮ではなく、外宮に伝えられてきた理由は何か。もしかすると、雄略天皇の御代、丹波国から奉遷された(『止由気宮儀式帳』)という成立史に謎を解くカギが隠されているかもしれない。

さういえば、岩瀬氏の実験に用いられた神宮赤米は10数年前、京都・元伊勢籠神社で赤米新嘗祭が700年ぶりに復活したことを記念して、同社から神宮に奉納されたのであった。(註=参考文献の執筆者の肩書きなどは発行当時)


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