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「A級戦犯」松井石根が建立した興亜観音の60年 [A級戦犯]

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「A級戦犯」松井石根が建立した興亜観音の60年
(「神社新報」平成9年12月8日号から)
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 昭和12年の秋、昭和天皇はどのような思いで、新嘗祭を親祭になったのだろう。この年の7月、支那事変が勃発、政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は拡大した。

 翌年の歌会始で、天皇はこう詠まれた。

静かなる神のみそのの朝ぼらけ 世のありさまもかかれとぞ思ふ

「南京大虐殺」が起こったとされるのは、60年前の12年の暮れである。

 中支派遣軍司令官の松井石根大将は「昭和の聖将」ともいわれる人物だったらしい。孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、「アジア人のアジア」を信条とした。

 南京入場後は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと、血潮に染まった激戦地の土を集めさせた。これを持ち帰り、瀬戸焼にして高さ1丈の観音像を建立したのが、熱海・伊豆山の興亜観音である。

 松井氏は「縁起」に、「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す 実に千載の悲惨事なり……観音菩薩の像を建立し 此の功徳を以て永く怨親平等に回向し 諸人と倶に彼の観音力を念じ 東亜の大光明を仰がん事を祈る」と書いた。

 中国、朝鮮からも多くの寄進を受け、14年の冬、興亜観音は落慶した。

 退役した松井氏は文子夫人と2人、山麓に隠棲し、21年3月に巣鴨拘置所に収監されるまで、読経三昧の晩年を過ごした。

 東京裁判が始まり、松井氏は「南京虐殺」の責任者として、絞首刑の宣告を受ける。

 23年12月23日午前零時、松井氏ら「A級戦犯」7人の処刑が巣鴨拘置所で開始された。土肥原賢二、松井、東條英機、武藤章の4氏が絞首台の前に並ぶ。

「松井さん、万歳をやってください」と東條氏。「天皇陛下万歳──」。松井氏に3人が唱和した。

 東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴され、皇太子殿下(今上天皇)の誕生日に死刑が執行された。報復裁判といわれる所以である。

 不思議なことに、処刑の責任者であるH・ウォーカー少将は3年後の同じ12月23日の午前零時、朝鮮半島で事故死する。

 7人の遺体は横浜・久保山火葬場で荼毘に付され、遺骨の大部分は太平洋にばらまかれた。遺族は遺骨の引き取りを願ったが、許されなかった。

 だが、一部は密かに持ち出され、観音像の下に納められたともいう。

 34年、観音像の傍らに自然石の「七人之碑」が建てられた。題字を揮毫したのは、元首相の吉田茂氏である。裏面には7人が処刑の直前に手鎖のまま書いた署名が刻まれている。

「あとのことは頼むよ」という言葉を残して、松井氏が伊豆山を去ったあと、組織的な支援が期待できないなかで、3人の子供を育てながら、苦労して観音像を守ってきたのは、伊丹忍礼・妙真夫妻である。

 46年の冬、過激派が「七人之碑」に時限爆弾を仕掛けた。「碑」は吹き飛んだものの、隣に建つ「B・C級戦犯」の碑で導火線がショートし、観音像は大破を免れた。導火線は「南無妙法蓮華経」の「法」のところで切れていた。

「ドイツにいい接着剤があるというので、取り寄せて、母が破片のひとつひとつをつないだんです」

 両親の遺志を受け継ぎ、清貧の日々を送る三人姉妹の長女・妙徳さんが引き込まれそうな優しい微笑で語る。

 松井氏の辞世の歌に、次の2首がある。

天地も人も恨みず一すじに 無畏を念じて安らけくゆく

世の人に残さばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠のこころ

 興亜観音は今日も、慈愛の眼差しを中国大陸に向けて、合掌している。(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』、田中正明『〝南京虐殺〟の虚構』などを参照した)

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