キリスト者にとっての慰霊──内心に潜む神道信仰 [キリスト教]
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キリスト者にとっての慰霊
──内心に潜む神道信仰
(「神社新報」平成10年3月9日から)
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「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決から、まもなく1年になる。
どうにも理解しがたいのは、
「元来、わが国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきている」から「政教分離規定を設ける必要が大であった」とする判決理由である。
「一元的」「単層的」な宗教など、世界のどこにあるだろうか?
たとえばキリスト教はどうだろう?
「ヤスクニ闘争」を指導してきたキリスト者はこう語る。
「どこの教団にも戦没者を慰霊する宗教施設はあるんです」
靖国神社だけが特別扱いされるべきではない、という論理である。
少数者の信仰を保護すべきだ、とする意見に異論はない。しかし、本来、キリスト教の教義は慰霊鎮魂とは無関係のはずである。
キリスト教会の戦没者慰霊施設とは、いったい何だろう? ましてキリスト教徒ではない、絶対多数の戦没者の慰霊と、キリスト教信仰とはどう結びつくのであろうか?
聖書によれば、亡父の葬儀に出席しようとした弟子に、イエスは、
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と語っている(マタイ伝8章22節)。
信仰を持たない者は「死人」同然だと語っているのである。つまり、非キリスト者の戦没者をキリスト者が慰霊することは何の意味もないことになる。
また、現代日本の代表的キリスト者である渡部昇一氏の『アングロサクソンと日本人』には、次のような逸話が載っている。
のちに聖ボニファチウスと呼ばれるイギリス人宣教師が8世紀初頭、いまのオランダ周辺でキリスト教を布教した。教えに共鳴し、受洗したラードボードという酋長がこう尋ねた。
「われわれは死んだら天国に行くが、入信せずに死んだ親はどうなるのか?」
宣教師が答える。
「洗礼を受けなければ天国には行けません」
酋長は憤然として、
「乞食坊主の話を聞いて損をした。地獄だろうと何だろうと、俺は先祖のいるところへ行く」
と語り、宣教師を追放する。
たとえ故人が受洗者だったとしても、年祭に当たる「記念会」は故人の神の恵みを讃え、神の栄光を仰ぐことが目的であり、故人を礼拝することではない。だから、霊璽や遺影を拝することは禁じられる。
ましてキリスト者が異教徒の死者を慰霊することは、唯一絶対神への信仰とはまったく異なるといわねばならない。
とすれば、キリスト者にとっての慰霊行為とは何だろう?
おそらく日本のキリスト者の深層に潜む、伝統的な宗教的感情が作用し、慰霊行為を行わしめているのではないか?
日本の宗教伝統である神道がいかにも原始的で幼稚な宗教であるかのように語るキリスト者もいるが、日本人であるかぎり、古来の祖先崇拝を引き継いでいることは十分に推測される。
たとえば、毎日新聞の対談「宗教に聞く」で、カトリック信徒で、作家の田中澄江氏が、カトリック大司教の白柳誠一師に語っている。
田中「私は山が好きですが、山が神だから拝むという気も全然ありません」
白柳「キリスト教の世界観では自然を賛美しても、それを神としてあがめるのは(しません)」
田中「こんなにも美しい山を神様は人間のためにつくられた、その神様に対して『ありがとうございます』と。……神を感じ、感謝するのです」
もとよりキリスト教と神道は神概念が異なるが、田中氏は間違いなく、自然の神霊に魂を揺り動かされている。ただ、神霊の存在を拒絶している。というより、一神教の厳格さから、認めたくても認められないということではないのか。自然な宗教感情が、知性によって抑えられているのだろう。
カトリックではいま2000年の「大聖年」を前にして各種行事が目白押しらしい。露払いとなったのは、昨年(平成9年)2月の「二十六聖人殉教400年祭」である。
殉教の地・長崎で教皇特使を迎え、6000人が参列して催された「荘厳ミサ」では、床に巨大な十字架が浮き彫りにされ、「二十六聖人」を象徴する26本のロウソクが壇上に掲げられた。
紛うことなきキリスト教儀礼だが、木の十字架やロウソクの灯はキリスト教以前の古代ヨーロッパの自然崇拝に淵源するといわれる。
キリスト教はゲルマンやケルトの宗教を否定し、浸透していったが、自然崇拝と祖先崇拝を引き継いでいることは間違いない。
そして翻って、日本のキリスト者が木の十字架やロウソクの光に法悦の涙を流すとすれば、それは彼らのなかに、間違いなく、日本古来の神道信仰が息づいていることの証明ではないか?
宗教の多元性、重層性は日本の宗教だけではない。欧米のキリスト教も同じである。
一神教と多神教との「積極的共存」が望まれる今日、日本のキリスト者は、日本の宗教伝統をかたくなに拒否するのではなく、むしろ内心の声に静かに耳を傾けるべきではないだろうか?
とりわけ、国に一命を捧げた戦没者の真の慰霊のために……。
キリスト者にとっての慰霊
──内心に潜む神道信仰
(「神社新報」平成10年3月9日から)
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「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決から、まもなく1年になる。
どうにも理解しがたいのは、
「元来、わが国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきている」から「政教分離規定を設ける必要が大であった」とする判決理由である。
「一元的」「単層的」な宗教など、世界のどこにあるだろうか?
たとえばキリスト教はどうだろう?
「ヤスクニ闘争」を指導してきたキリスト者はこう語る。
「どこの教団にも戦没者を慰霊する宗教施設はあるんです」
靖国神社だけが特別扱いされるべきではない、という論理である。
少数者の信仰を保護すべきだ、とする意見に異論はない。しかし、本来、キリスト教の教義は慰霊鎮魂とは無関係のはずである。
キリスト教会の戦没者慰霊施設とは、いったい何だろう? ましてキリスト教徒ではない、絶対多数の戦没者の慰霊と、キリスト教信仰とはどう結びつくのであろうか?
聖書によれば、亡父の葬儀に出席しようとした弟子に、イエスは、
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と語っている(マタイ伝8章22節)。
信仰を持たない者は「死人」同然だと語っているのである。つまり、非キリスト者の戦没者をキリスト者が慰霊することは何の意味もないことになる。
また、現代日本の代表的キリスト者である渡部昇一氏の『アングロサクソンと日本人』には、次のような逸話が載っている。
のちに聖ボニファチウスと呼ばれるイギリス人宣教師が8世紀初頭、いまのオランダ周辺でキリスト教を布教した。教えに共鳴し、受洗したラードボードという酋長がこう尋ねた。
「われわれは死んだら天国に行くが、入信せずに死んだ親はどうなるのか?」
宣教師が答える。
「洗礼を受けなければ天国には行けません」
酋長は憤然として、
「乞食坊主の話を聞いて損をした。地獄だろうと何だろうと、俺は先祖のいるところへ行く」
と語り、宣教師を追放する。
たとえ故人が受洗者だったとしても、年祭に当たる「記念会」は故人の神の恵みを讃え、神の栄光を仰ぐことが目的であり、故人を礼拝することではない。だから、霊璽や遺影を拝することは禁じられる。
ましてキリスト者が異教徒の死者を慰霊することは、唯一絶対神への信仰とはまったく異なるといわねばならない。
とすれば、キリスト者にとっての慰霊行為とは何だろう?
おそらく日本のキリスト者の深層に潜む、伝統的な宗教的感情が作用し、慰霊行為を行わしめているのではないか?
日本の宗教伝統である神道がいかにも原始的で幼稚な宗教であるかのように語るキリスト者もいるが、日本人であるかぎり、古来の祖先崇拝を引き継いでいることは十分に推測される。
たとえば、毎日新聞の対談「宗教に聞く」で、カトリック信徒で、作家の田中澄江氏が、カトリック大司教の白柳誠一師に語っている。
田中「私は山が好きですが、山が神だから拝むという気も全然ありません」
白柳「キリスト教の世界観では自然を賛美しても、それを神としてあがめるのは(しません)」
田中「こんなにも美しい山を神様は人間のためにつくられた、その神様に対して『ありがとうございます』と。……神を感じ、感謝するのです」
もとよりキリスト教と神道は神概念が異なるが、田中氏は間違いなく、自然の神霊に魂を揺り動かされている。ただ、神霊の存在を拒絶している。というより、一神教の厳格さから、認めたくても認められないということではないのか。自然な宗教感情が、知性によって抑えられているのだろう。
カトリックではいま2000年の「大聖年」を前にして各種行事が目白押しらしい。露払いとなったのは、昨年(平成9年)2月の「二十六聖人殉教400年祭」である。
殉教の地・長崎で教皇特使を迎え、6000人が参列して催された「荘厳ミサ」では、床に巨大な十字架が浮き彫りにされ、「二十六聖人」を象徴する26本のロウソクが壇上に掲げられた。
紛うことなきキリスト教儀礼だが、木の十字架やロウソクの灯はキリスト教以前の古代ヨーロッパの自然崇拝に淵源するといわれる。
キリスト教はゲルマンやケルトの宗教を否定し、浸透していったが、自然崇拝と祖先崇拝を引き継いでいることは間違いない。
そして翻って、日本のキリスト者が木の十字架やロウソクの光に法悦の涙を流すとすれば、それは彼らのなかに、間違いなく、日本古来の神道信仰が息づいていることの証明ではないか?
宗教の多元性、重層性は日本の宗教だけではない。欧米のキリスト教も同じである。
一神教と多神教との「積極的共存」が望まれる今日、日本のキリスト者は、日本の宗教伝統をかたくなに拒否するのではなく、むしろ内心の声に静かに耳を傾けるべきではないだろうか?
とりわけ、国に一命を捧げた戦没者の真の慰霊のために……。
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