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「米離れ」を呼び起こしたのは誰か──恐るべしアメリカの世界戦略 [稲作]

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「米離れ」を呼び起こしたのは誰か
──恐るべしアメリカの世界戦略
(「神社新報」平成10年4月13日)
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 昭和40年代──それは日本の稲作の歴史にとって、そして同時に日本人の精神史にとって最大のターニング・ポイントであったといえるだろう。

 米の生産がピークに達した一方で、消費は一転して下降する。「米離れ」は「米余り」を加速させ、政府はついに歴史的な「減反」政策を開始させる。

「米離れ」の原因は、国民所得が増えて消費構造が変化したからだ、と一般には理解されているが、はたして豊かさの代償であろうか?

 米の消費量が減ったのとは逆に、小麦の消費量が増えた。ところが国内産小麦は「安楽死」させられ、実際に増えるのは輸入小麦であり、とくにアメリカ産である。子供たちにパン食を定着させた学校給食はマッカーサーの置き土産であり、小麦食奨励のパンフレットを何十万部とばらまいたのは小麦業界であった。

 日本の米は輸入小麦に喰われたのであり、「米離れ」はアメリカの食糧戦略の果実なのではなかったか。その結果が日本人の稲作信仰の衰退ではなかったのか?


▢「走る台所」に出費した狙い
▢米食民族の食習慣を変える

 ここに、20年前(昭和54年)に出版された1冊の名著がある。『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』。著者はNHKの高嶋光雪氏である。

 著者は最初の章で、「キッチンカー」を取り上げている。年輩の読者ならご記憶かも知れないが、冷蔵庫や調理台を備えた大型バスが昭和31年から、軽快な音楽を奏でながら田舎道を走り、山村や離島に至るまで、くまなく巡回した。

 神社の境内などに駐車すると、野良着姿の主婦などが集まり、ホットケーキなど、ハイカラな料理の実演に見入り、舌鼓を打った。「走る料理教室」はどこでも人気の的だった。栄養士は「米偏重」の粒食をやめて。もっと小麦中心の「粉食」を採るよう奨励した。

「動く台所」は厚生省の外郭団体日本食生活協会が主催し、厚生省が後援した。当初は8台、その後は12台に増え、36年までに沖縄をのぞいて、ほとんど全国を回り、2万回を超える講習会を開いた。参加者の数は200万人。走行距離はのべ57万5千キロで、地球を14周したことになるというからすごい。

 じつは、この事業の資金を支出したのは、日本政府ではない。1億円を超える資金はすべて、何とアメリカ農務省が支出した。

 事業は31年5月、アメリカ農務省の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟と食生活協会との契約で始まり、協会はまさにこの事業のために創設されたのだという。

 アメリカの狙いは何だったのか? ずばり言って、米食民族の食習慣を小麦に変えることだったという。

 大戦中、アメリカ小麦の生産は飛躍的に伸び、連合国の兵糧をまかなった。戦後は生産が回復しない各国から援助の要請や商談が殺到した。その後、朝鮮戦争でふたたび需要が膨らんだが、1953(昭和28)年の休戦で需要は一気に冷え込む。

 ちょうど1953〜54年は小麦の大豊作で、倉庫からあふれた小麦は港に野ざらしにされ、余剰問題は深刻化した。政府の在庫は小麦、綿花、乳製品など計55億ドル(2兆円=当時)にのぼった。

 アイゼンハワー大統領は海外にハケ口を求めることを決め、ベンソン農務長官は「10億ドル相当の余剰農産物を大統領権限で処分する法律案」を発表する。翌54(昭和29)年春には大統領特命の使節団が日本にもやってきた。

 そのころの日本は食糧不足に悩まされていたから、割安のアメリカ小麦はノドから手が出るほどほしかった。だが、慢性的な外貨不足で買うことができない。

 同年夏、ドル不足の隘路を克服する画期的な法律がアメリカ議会を通過する。「PL480」、正式には「農業貿易促進援助法」、一般には端的に「余剰農産物処理法」と呼ばれた。

 画期的なのは、たとえば日本ならドルではなく、日本円でアメリカ小麦が買えることである。しかも代金の一部はアメリカが日本国内の現地調達などに使ってくれる。残りは後払いで、さしあたり日本の経済開発に使えるのがミソである。

 こんな美味しい話はない。


▢外貨節約は好機と飛びつく
▢農業は工業発展の捨て石に

 農産物の余剰問題を解決する大統領の切り札は同時に、余剰処理で生まれた資金をアメリカの世界政策に利用するという狙いを持っていた。時代は冷戦下、借款は自由陣営の経済強化という目的があった。

 そして、もうひとつ。販売代金の一部はアメリカ農産物の海外市場開拓に運用されることになる。日本をアメリカ農産物のお得意さんにするための種が蒔かれたのだ。

 吉田首相は大いに乗り気だった。

 なにせ前年の昭和28(1953)年は不作だった。しかもワンマン政権は崩壊寸前、首相は小麦輸入に延命を賭けた。

 東畑四郎農林事務次官が呼び出され、極秘のプロジェクト・チームが組まれる。

「アメリカの小麦を入れれば、日本の農業がつぶされる」

 という厳しい指摘もあったが、

「外貨を節約できるならチャンス」

 とする現実論がまさったらしい。

 受け入れ推進派の東畑次官らは、愛知用水、八郎潟干拓など推進中の巨大農業プロジェクトに、見返り資金が使えることに注目した。

 29年秋、愛知揆一通産相を団長とする政府使節団がワシントンに乗り込んだ。難航の末、11月13日に日米交渉が妥結し、翌年5月、「余剰農産物協定」が正式調印される。

 日本は2250万ドル相当の小麦(35万トン)のほか、綿花、米、葉タバコの計1億ドル(360億円)を受け入れることになった。

 1億ドルのうち15%の55億円相当は学校給食用の小麦などの現物贈与で、残る85%の306億円が円貨買い付け分、そのうち7割が電源開発や愛知用水などに、3割が在日米軍用住宅建設、そしてアメリカ農産物の日本市場開拓などに運用される。

 日本の1億ドルは他国に比べて、ずば抜けて多かった。市場開拓の最大の標的とされたのだ。日本はPL480の見返り資金で産業開発を推進し、工業先進国への道を驀進する。その一方で農業は捨て石にされた。

 けれども東畑氏は責任を認めず、のちに次のように述懐している。

「PL480は願ってもない外貨導入になると思った。日本の農業を圧迫したとは思っていない。いまでも誇りに思っている。米離れの責任の一端はあるが、ここまで農産物の輸入依存を野放しにしたのはその後の農政の誤りにある」

 しかし高嶋氏が指摘するように、外貨導入で愛知用水や八郎潟の干拓は完成するが、愛知用水はその後、工業用水と化し、八郎潟は減反政策をまともにかぶることになる。「責任の一端」では済まされまい。

 余剰問題に悩むオレゴン州の小麦農民はPL480の成立に小躍りした。小麦栽培者連盟は弱冠31歳の市場アナリスト、のちに「小麦のキッシンジャー」の異名を取る、リチャード・バウムを1954(昭和29)年に来日させ、アメリカ小麦の売り込みに当たらせる。

 そしてバウムは東京で、キッチンカー作戦を思いつく。

 だが、「動く調理台」はなかなか動き出さなかった。農林官僚が頑強に抵抗したからだ。30年は空前の豊作であった。抵抗を抑えたのは河野農相だという。

 昭和31年春、バウムはアメリカ農務省との事業契約に調印する。初年度分として40万ドルの使用が認められた。同年秋、キッチンカーの出陣式が厚生大臣、農林政務次官などが出席して、東京・日比谷公園で行われた。

 アメリカは資金は出したが、口は出さなかった。注文はただひとつ。

「献立に一品だけ小麦料理を入れてほしい」

 ということだけだった。日本人に小麦の味を覚えさせることが売り込みの第一歩という考えで、アメリカは陰に回った。

 外国資金で推進される事業だと知る国民はほとんどいなかった。食生活協会では資金の出所に触れることはタブーに近かったらしい。

 農林省はパン食推進の後押しのために製パン技術者の講習会を開き、文部省は学校のパン給食を推進した。


▢日本人の胃袋に翻る星条旗
▢イセヒカリに大神の御神慮

 PL480は3年間の時限立法だった。農産物の余剰を解決するために考えられた法律だが、3年後には皮肉にも余剰は増えていた。

 法律の見直しが検討されたのは当然だが、1957年6月の上院農業委員会の公聴会で、バウムはこう証言する。

「日本は伝統的な米の国で、パン屋すらなかった。しかしいまや1200万人の小学生の半分がパン給食を食べている。一人当たり米消費量は戦前の149キロが119キロに減り、小麦は14キロから都市部では41キロに増えた」

 日本はアメリカ戦略の成功のお手本なのだった。高嶋氏がいみじくも指摘するように、知らぬ間に日本人の胃袋に勝利の星条旗が高々と掲げられていた。

 振り返ってみると、アメリカの世界戦略は深刻な余剰が発端である。余剰小麦を世界市場に売るために、アメリカはじつに戦略的に用意周到に行動している。恐るべき世界戦略である。

 これに対して、日本はどうだろうか?

 ときあたかも今年(平成10年)は史上最大の減反が実施されるが、96万ヘクタールにおよぶ減反の発端は、4年連続の豊作によって官民の在庫が500万トンを超えると予想されたことである。食糧庁は昨夏(平成9年夏)、6億円をかけて備蓄米「たくわえくん」の販売キャンペーンを展開したが、効果は薄かった。

 結局のところ、日本政府は生産調整を農家に押しつけるしか策がない。余剰問題を世界的視野で解決しようというような発想はまるで出てきそうにない。海外に日本の米を売りさばく食糧戦略もなければ、マーケティングのプロもいないようだ。その結果、民族の命を支え、信仰を育んできた稲作農業の未来は暗澹としている。

 アメリカの小麦戦略に、日本の米がかろうどて完敗を免れたのは、以前、この連載で取り上げた、民間人による電気釜の発明のおかげではなかったか?

 台所に電化革命をもたらした「戦後最大のヒット商品」が売り出されたのは、昭和30年12月で、キッチンカーが走り出す前年であった。電気釜の開発がもしあと1年でも遅れていたら、日本の米はアメリカの小麦に完全に駆逐されていたかも知れない。

 同時に思うのは、日本人の宗教観の行方である。

 海を望む佐渡の棚田では、田植えの日に、村人は神饌を供え、水田を開いた先祖の名を、声を限りに叫ぶという(渡部忠世『稲の大地』)。稲作は日本人の祖先崇拝と深く結びついている。小麦が米に取って代わることは、単に食生活が変わることにとどまらない。米を失ったとき、日本人は日本人でなくなってしまうだろう。

 さて、こうした稲作農業の危機、稲作信仰の危機の時代に、伊勢の神宮で発見されたのが、イセヒカリであった。

 昨年(平成9年)に続き、今年(平成10年)も、神宮ではイセヒカリの種籾が23県、50社に下賜された。栽培は篤農家を中心に、確実に拡大している。

 とくに指摘したいなのは、この米が腰、粘り、香りにすぐれ、「若者向き」と評価されることである。パン食に慣らされた若い世代の嗜好を呼び戻す効果は、十分に期待できるといわれる。この時代に「御神米」が神宮神田で生まれたことの意味をあらためて噛みしめたい。

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