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皇祖と民とともに生きる天皇の精神 ──宮廷行事「さば」と戦後復興 [昭和天皇]

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皇祖と民とともに生きる天皇の精神
──宮廷行事「さば」と戦後復興
(「神社新報」平成10年6月8日号)
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 明治時代に惜しくも廃止されてしまいましたが、千年にわたって続いた「さば」と呼ばれる宮中行事があります。

 漢字では「生飯」などと書き、梵語(ぼんご)だといわれます。仏教に由来するとされ、仏教辞典には食事のときに少しの飯粒をとりわけて鬼界の衆生(しゅじょう)に施すこと。あまねく諸鬼に散ずるために「散飯」。最初に三宝(仏法僧)、次に不動明王、鬼子母神に供するところから「三飯」という──と書かれています。

 仏教系の新宗教教団などでは月に何回か日を決めて節食し、献金して基金を作り、国際的な援助活動を展開しているところもあります。世界の貧しい人々と「同悲同苦」の仏教精神を体験するという趣旨には、「生飯」と通ずる餓鬼供養の発想がうかがえます。

 他方、皇室の「さば」はインドに源流がある外来文化だとの認識から廃されたようですが、もともと日本の伝統文化だとする見方もあります。それどころか、皇祖と民とともに生きる天皇統治の本質そのものと関わっているようにも見えます。

 たとえば、戦後史を振り返りながら、考えてみましょう。


▢ 民の苦しみは朕が苦しみ
▢ 御巡幸で国民を慰めたい

 昭和20年8月15日、長い戦争の時代が終わりました。「敗戦」という日本が有史以来、経験したことのない屈辱の結末でした。国内だけで数百万の人命が失われ、国土は焦土と化しました。しかも外国の軍隊が進駐して、日本はその支配のもとに置かれ、「国体」が侵されることになりました。
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 御治世にこうした未曾有の事態を招いたことについて、昭和天皇の御心中はいかばかりであったか、拝察するにあまりあります。終戦の詔書に

「五内(ごだい)ために裂く」

 とあるのは御実感であられたでしょう。

 翌9月下旬、陛下はみずからお出ましになって、アメリカ大使館に連合国軍最高司令官マッカーサーを表敬されました。45分間の会見内容は秘密になっていますが、昭和39年に翻訳出版された『マッカーサー回想録』にはこう記されています。

 マッカーサーは、陛下が「戦争犯罪者」として起訴されないよう自分の立場を訴えはじめるのではないか、と思っていました。ところが、陛下は

「私は、国民が戦争遂行に当たって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためお訪ねした」

 と語られました。

「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度」

 は、マッカーサーをして

「骨の髄までも揺り動かした」

 のでした。

 また、藤田尚徳侍従長によれば、陛下は、「このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝」になり、「天真の流露はマ元帥を強く感動させたよう」(『侍従長の回想』)でした。

 陛下は、民の命は朕が命である、民の苦しみは朕が苦しみである、との姿勢を示されたのでしょう。

 共同通信の高橋紘記者によると、地方御巡幸の計画が持ち上がったのは、この第一回の会見直後のことでした。

 陛下は側近に、戦争で傷ついた国民を慰めるため、全国をまわりたい、ともらされました。加藤進・宮内省総務局長は陛下のお気持ちをこう記録しています。

「戦争を防止できず、国民をその惨禍に陥らしめたのは、まことに申し訳ない。私は方々から引き揚げてきた人、親しい者を失った人、困っている人たちのところへ行って慰めてやり、また働く人を励ましてやって、一日も早く日本を再興したい。このためには、どんな苦労をしてもかまわない。そう働くことが、私の責任であって、祖先と国民とに対し、責を果たすことになるのだと思う」(木下道雄『側近日誌』の解説)

 当時の社会混乱は想像を絶していました。衣食住はすべて不足し、とくに「一千万人餓死説」が流れるほど、人々は飢えをしのぐのに精一杯でした。

 昭和20年は40年ぶりの凶作で、食糧が絶対的に不足していました。政府はくり返し米の供出の協力を訴えましたが、農家の供出への意欲は極端に乏しかったのです。政府の威信は地に墜ちていました。

 農家には戦時中、むりやり供出させられたことへの不信感が根強かったのです。しかもヤミにまわせば供出価格の10〜20倍、それ以上で売れました。生産資材の高騰で、ヤミ米を売らなければ経営は維持できませんでした。

 21年5月には都内では「米よこせ大会」が開かれ、勢いに乗ったデモ隊が赤旗を先頭にして皇居になだれ込むという事件さえ起きました。参加者25万人もいわれる「食糧メーデー」が宮城前広場で開かれ、群衆は労働歌を歌って気勢を上げました。「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」のプラカードもありました(岸康彦『食と農の戦後史』など)。

 マッカーサーは進駐後、反天皇、反政府行動を奨励するような政策を採っていたのですから是非もありません。


▢ 食膳で皇祖と相対峙する
▢ 名もない民草を思われて


 21年1月、木下道雄侍従長のもとに学習院の英語教師ブライスからメモが届けられました。ブライスは「覆面の立役者」といわれるイギリス人で、皇室とGHQとの仲介をつとめていました。

 前出の『側近日誌』にブライスの覚書が載っています。まず、

「天皇は……親しく国民に接せられ……国民の誇りと愛国心とを鼓舞激励せらるべきである」

 とあって、そのあとに「天皇と食糧問題」の見出しが続き、こう記されています。

「ヤミ取り引き、ヤミ市がさかんに横行しておる……日本人の真心を呼び覚まし、これを奮い立たせねばならぬ。これはマッカーサーの力およばぬところで、ひとり天皇のみなし給い得るところであり、思うにいまがその絶好の機会ではあるまいか……広く巡幸あらせられて……国民の語るところに耳を傾けさせられ、また親しく談話を交えて、彼らにいろいろの質問をなし、彼らの考えを聞かるべきである」

 これに対して陛下は大いに賛成され、巡幸について

「ただちに研究せよ」

 と側近に命じられたといわれます。

 こうして御巡幸は翌2月に始まります。陛下は物質的精神的戦後復興の先頭に立たれたのです。

 当時、きびしい食糧事情にあったのは皇室も例外ではありません。もれ承るところでは、国民の窮乏をお思いになり、御所でお食事のときに一品か二品をえらばれ、

「今日はこれだけいただこう」

 と皇后陛下とお話になり、満足されたといいます。

 なぜそうされたのでしょうか。

 空襲で明治宮殿が焼けたとき、陛下は

「これでやっとみんなと、同じになった」

 と語られました。終戦の御聖断では、

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」

 と仰せられた、と伝えられます。民の憂い、苦しみを共にされるのが天皇なのでしょう。

「さば」の行事にも、民と生を共にされるという御精神が貫かれているようです。戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦氏はこう書いています(『天皇』)。

 ──天皇は毎食ごとに皇祖神と相対座され、「さば」の行事を行われた。食膳において、かたわらの御皿に一品ずつ御料理をおわかちになり、そのあとにはじめて御自身が召し上がられる。皇祖の御意を重んじ、「わが知ろしめす国に飢えた民が1人あっても申し訳ない」という御思いで、名もない民草のためにこの行事を続けてこられた。

「さば」はインドの仏語ともいわれますが、昭和13年春まで30年間、靖国神社の宮司を務めた賀茂百樹氏によると、「さば」は梵語で仏教起源とするのは必ずしも正確ではない、といいます(『神祇解答宝典』)。

 文化4年(1807年)に刊行された儒者村瀬之煕の随筆『#(のぎへんに丸)苑日抄』巻之八には、僧侶は食事のときに数粒の飯粒を取り分ける。これを生飯という。これは食事を衆生に施すという意味だが、古人が食を神に供えた遺風を後人が偽っただけのことである、とあるように必ずしも仏教起源とはいえない、というのです。

 賀茂氏はまた、このように語ります。

 ──中国でも古人は飲食するとき各料理から少しばかりをとりわけ器の間においた。その昔、最初に飲食をした祖先をまつり、その歴史を忘れないためであるともいわれる。
 いまも田舎の人間などは食前におしいただいてから食べ始めます。あるいは箸をおしいただいてのち食事します。これは日本古来の風儀なのだ、という。
 さらに、「食べる」と古語「食ぷ」は「賜ぶ」で、「神と君より賜る」という意味である。天皇におかれても、初穂をまず神に奉献され、残りを頂戴すると祝詞にも書かれている。
「さば」はかつては宮中でも神社でも行われたが、これは食事を尊ぶ日本の古俗で、そのために仏教の「生飯」と習合したのだ。


▢ 「君民一体」の理念と実践
▢ 戦後復興の大きな原動力

 人は食によって命をつなぎます。しかしそれは物質的意味にとどまりません。食事は神人共食の神祭りであり、祈りであったのでしょう。

 ことに宮中の「さば」は施しや供養ではなく、皇祖と君と民の一体化を象徴する儀礼なのでしょう。皇祖と天皇と国民の命が「さば」の行事によって1つにつながる。ここに君民一体の政治的宗教的理念と実践があるのではないでしょうか。

 その意味では、朝廷が古来、毎食ごとに淡々とこの行事を実践してこられたことは、驚嘆に値します。たとえば葦津氏はこんな逸話を紹介しています。(『天皇』)

 ──戦後の「米よこせデモ」に参加した知り合いの左翼青年がいた。「さば」の行事について話したところ、青年は語った。
「それは国の統治者として大切な第一の心得だ。しかし一代や二代ではなく、人の見ないところで、千年もの悠久の時を通じて、そのような精神伝統の行事が、日本の天皇制に続いたのだとは、おれは知らなかったよ」

 社会革命を模索していた青年はその後、早世するのですが、その心中に浅からぬ感動の表情を見たのがいまなお印象に残っている、と葦津氏は記述しています。

 宮廷行事としては明治期に廃止されてしまった「さば」ですが、皇祖と民と生を共有されるという精神は継承され、昭和天皇のマッカーサー会見や戦後の御巡幸に遺憾なく発揮されています。「民の声を聞き」「民の心を知る」。国民と憂いを共にされ、「民、安かれ」と祈られるのが天皇なのです。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』によると、御巡幸中の陛下の精神的肉体的な活動量は非常に大きいということから、側近や地方の高官は異口同音に御健康を気遣ったといいます。

 ところが、陛下はじつにお元気でした。供奉(ぐぶ)の者がへとへとになっているのに、陛下だけは余裕綽々たるものでした。

 陛下は御巡幸が立案されるとき、「自分の健康は第二義的に考えてよろしい」と語られました。国民の命はわが命とお思いになって、ご自身の命を皇祖と民の前に投げ出されたのでしょう。「なんじ臣民と共にあり」──国民と共に生きるという精神があればこそ、南船北馬の疲労をはねとばし、尽きない生命力を保持されたのではないでしょうか。

 大金氏は、

「(陛下の)お元気は巡幸という行動と心理のうちに、その源泉を求めるのが妥当である」

 と書いています。

 それは国民も同じだったでしょう。敗戦で憔悴した国民は陛下のお出ましを感激をもってお迎えしました。天皇が引き揚げ者に

「よく帰ってきてくれたね」

 と慰め、子供に

「よく勉強して立派な人になるのですよ」

 と励ますのを間近に見て、国民は涙しました。天皇制に反対する者たちでさえ「万歳」を絶叫した、と伝えられます。

 天皇と名もなき民草の君民一体感が戦後復興の大きな原動力となり、危機の時代を克服させたといえるのでしょう。

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