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農業神から武家・町人の信仰へ ──おびただしい数の江戸・京橋の稲荷 [神社]

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農業神から武家・町人の信仰へ
──おびただしい数の江戸・京橋の稲荷
(「神社新報」平成10年7月13日)
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「伊勢屋、稲荷に犬の糞」

 口の悪い江戸っ子はものの多いことのたとえにそう表現した。

 それほど江戸の町にはおびただしい数の稲荷社が鎮座した。初午の日には提灯に灯がともり、五彩の幟が連なり、人々は赤飯と煮しめで祭りを祝ったという。

 天正18(1590)年の家康の入府以後、潮入りの葦原に水路が開かれ、入江が埋め立てられ、町が造られた。17世紀初頭には江戸は人口500万人の世界最大の都市となる。

 それほどの大都市に、農業神であったはずの稲荷信仰がなぜ他を圧するほどに浸透していったのだろうか。農民の信仰がなぜ武家の屋敷神や町人の福神信仰に転換したのだろう。

 興味深いことに、無数に近いほどの稲荷社は近代を経て、現代の硬度工業化社会に淡々と受け継がれている。その多くはビルの屋上の小祠だが、信仰は生きている。それはなぜか。

 かつての職人町で、いまは企業の本社ビルが林立する東京・八重洲口のオフィス街・京橋に視点を定めて、考えてみたい。


▢ 伊勢屋、稲荷に犬の糞
▢ 今はビルの屋上の小祠


 いま地下鉄の銀座線が走る中央通りに、幕府は日本橋、京橋、新橋の3つの橋を架けた。欄干を擬宝珠で飾った橋はこれらだけで、この道筋は江戸の目抜き通りと位置づけられた。

 日本橋と京橋の間が「京橋」地区で、「日本橋」とともに江戸の商工業の中心であった。商業地と武家地が相半ばする町で、稲荷のメッカでもあった(『中央区史』など)。

『中央区史』に掲げられた「江戸時代における区内の社祠一覧表」では、69の社祠のうち、稲荷社は57社を数え、圧倒的な数の多さを誇る。

 また、江戸期に出版された区分地図『江戸切絵図』の「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」(文久再鐫)では、大工町、鍛冶町、畳町などの町名が並ぶ、いまの八重洲・京橋地区に、11社もの「イナリ」を確認できる。

 そのほかには「不動」が1祠あるだけだから、いかに稲荷が多いかが分かる。

 しかし、実際の数はこの程度のものではなかったらしい。

『江戸名所図会』や『武江年表』の作者として知られる、斎藤月岑が江戸の年中行事を詳細に記述した『東都歳時記』(天保9年刊)の「初午」の項には、武家は屋敷ごとに稲荷を祀り、市中では1町に3社、5社と勧請した、とある。

(平成10年)5月26日の午後、八重洲口の小さなビルの屋上に鎮まる出世稲荷神社の例大祭が行われた。

 いまにも降り出してきそうな天候を心配しながら、広さ10畳ほどの「境内」にビルのオーナーや町内の崇敬者約20名が参列した。建設工事や交通騒音など都心の喧噪で、祝詞の声も打ち消されがちだが、神事は粛々と進行する。

「ビルの屋上の神社なんて」

 といってしまえばそれまでだろうが、創建は5代将軍綱吉の治世、貞享4(1687)年とされ、300年以上の歴史がある。『江戸切絵図』には「出世イナリ」と大書され、当時から広く知られていたらしい。

 けれども、ここに誰がどのような経緯で祀ったのか、詳しい由緒は分からない。戦災で古い記録が灰燼に帰したからである。

 502機のB29が15万発の焼夷弾を投下し、東京を火の海にしたのは、昭和20年5月25日の夜半である。

 このとき社司の高次秀直氏は永田町の日枝神社に奉仕していて、不在だった。のちに神社本庁職員となる一人娘の喜久さんが出世稲荷の御霊代をリュックにお納めし、猛火のなかを日枝神社に逃れた。

「山王様へ」

 が厳父の言いつけだった。

 しかしこのとき日枝神社も被災する。父・秀直氏は他の神職とともに御神鏡を辛櫃に納め、国会議事堂に避難した。

 その後、ススだらけになりながら、九死に一生を得た父娘が偶然にも日比谷のお壕端で再会し、無事を確認するというドラマが伝えられている(熊田正治『山王の森』など)。


▢ 信仰の担い手は御用職人か
▢ 流行化の背後に「社会不安」


 民俗学者の宮田登先生によると、江戸の稲荷社は近世初頭から17世紀後半ごろまでは、他国から勧請された例が多い。ところが、17世紀末から18世紀、元禄年間になると、江戸近郊の農村に霊験あらたかな社が急に目立ち始める。

 そして、宝暦〜明和、18世紀後半にはいっせいに流行神現象が起こり、人々が各社に参詣し、利益が説かれるようになる(「江戸町人の信仰」=西山松之助編『江戸町人の研究2』所収)。

 八重洲2丁目の出世稲荷が鎮まる土地は、江戸期は「南鍛冶町」と呼ばれた。

『中央区史』によると、鍛冶町、紺屋町、大工町、大鋸町などが生まれたのは、江戸初期の慶長10年ごろのことという。江戸城築城に当たり、関八州から多くの職人が強制的に集められ、御用職人の町が造られた(乾宏巳「江戸の職人」=西山編『江戸町人の研究3』)ようだが、信仰の担い手は御用職人なのだろうか。

 東京教育大学の直江廣治教授によれば、「原初的には稲の神、すなわち作神として始まった」稲荷信仰が「一方では都市の商工業者の守護神として、広い信仰層を持っている。この点はイナリ山(京都・伏見稲荷大社)の祭祀権をにぎった秦氏の商工業面での活躍に端を発していると考えられる」(「稲荷信仰普及の民俗的基盤」=「朱」昭和43年4月)という。

 けれども、直江先生自身が指摘するように、東京や関東の稲荷が「すべて伏見大社の統率下にある、と言い切るわけにはいかない」。

 その証拠に、出世稲荷がそうであるように、「屋敷神としての稲荷の祭日は、常識化した2月初午説に必ずしも統一されていない」。

 乾氏がいうように、江戸職人の出身地が関八州だとすれば、少なくとも直接的な秦氏との結びつきは考えにくくなり、江戸の稲荷と京都・伏見稲荷との関連は遠のく。江戸の稲荷を「京都伏見稲荷が伝播した現象と見なすのは早急」(宮田前掲論文)なのだろう。

 しかも江戸で稲荷の創建ラッシュが始まるのは、職人町が生まれてから百年もあとの元禄ごろからである。なぜ中期以降、爆発的に浸透していったのか。

 宮田先生は、5つの類型を想定して、次のような考察を加えている(前掲書)。

①田の神型・農業神型=王子稲荷、三囲稲荷など。

 江戸が農村としての性格を強く持っていた段階に水田地帯に祀られ、牛王宝印を出す修験や狐を呼び寄せる老婆(巫女)が関与した。農作の豊凶を示し、恵みをもたらすといった田の神の性格が顕著である。

②聖地型=烏森稲荷、杉森稲荷、宮戸森稲荷など。

 以前は鬱蒼たる森で、烏や狐が棲みつき、人間の入ることを拒む聖地であった。江戸の都市化とともに、祟り地として畏怖され、棲みついていた狐が稲荷として祀りこまれた。媒介者として修験の活躍があった。

③土地神型=茶の木稲荷、日比谷稲荷、桜田稲荷など。

 いろいろな霊験を説かれる前は、その土地の地主神で、とりわけ稲荷の名で呼ばれなくても在来信仰として存在したのだが、江戸の発展に応じて、稲荷神として民衆の前に出現した。

 これら3類型を基底として、江戸の都市化とともに、稲荷信仰が変容する。

 すなわち

④屋敷神型=小日向江戸川端・久保田何某の屋敷の稲荷、大久保本村最寄・小笠原大膳太夫の下屋敷の稲荷、麻布白銀御殿跡の富士見稲荷など。

 都市化によって多くの屋敷地が江戸の町に造成されていったが、古くからの地主神が屋敷地の守護神に転化し、そのまま祀られた。つかわしめの狐が登場し、稲荷として表現される。

 また、小石川春日町の出世稲荷のように、新たに拝領された土地に屋敷神として勧請される例は枚挙にいとまがない。勧請は時期的に集中し、寛文〜元禄期までで、遅くとも享保年間である。屋敷神の稲荷は、下級武士の拝領地に勧請され、次第に拡大した。

⑤憑きもの型=神田明神境内に建てられた定吉稲荷など。

 幕末に近くなると、憑きものが多くなり、それに連れて稲荷社も増加した。

 また、下谷国珠稲荷のように、救いの願いが強調される場合もある。

 江戸中期には町人に社会不安がみなぎっていて、その守護神として稲荷が祀られた。憑きものによる託宣、狐による稲荷神の予言が強く期待されたからで、とくに享保年間以降、増加し、流行神と結びついて展開した。

 宮田先生は、江戸前期には農業神、聖地・土地神の要素をもって稲荷が発現し、江戸中期から、とりわけ後期にかけて屋敷神・憑きもの型が流行神として現れたと述べている。

 流行化の背景に「社会不安」を想定しているのが注目される。


▢ 食物の神が経済的な福神に
▢ 時代の流転を目撃した神職


 江戸の稲荷は、稲作信仰とは別の視点から検討し直す必要がある、とはいっても、まるで無関係ともいいにくい。その点では、大谷大学の豊島修先生が、畿内の稲荷に限定しながらも、次のように考察しているのは興味深い(「稲荷信仰と福神」=五来重監修『稲荷信仰の研究』所収)。

 農民は五穀豊穣の神として稲荷を福神として祀り、その利益にあずかろうとした。都市民の間に屋敷の守護、商売繁盛の神としての信仰が根強いのは、食物の神としての稲荷信仰が根源にある。

 室町以後、商業主義の発展に従って、都市民だけではなく農民の欲望が多様化し、食物の神から経済的福神に転換、さらに室町時代に成立する七福神信仰とも習合した、というのだ。

 星の数ほどあった江戸の稲荷は、その後の歴史の荒波にもまれ、耐えきれずに廃された例も少なくないようだが、祭りが継承されているケースももちろんある。

 たとえば戦災後、日枝神社境内の仮宮に祀られていた出世稲荷は、戦後の混乱期に境内地を奪われるという苦難を経験したものの、地元の崇敬者の尽力によって、昭和26年、盛大な遷座祭が斎行され、京橋の旧地に奉遷した。

 こうした歴史の流転を目撃したのが高次氏である。

 明治28年の生まれで、國學院大学高等師範部を卒業後、日枝神社主典、鉄砲洲稲荷神社社司、東京大神宮禰宜などを歴任した。

 愚直なほどに神明奉仕に厳しい人だったようだが、どうやら親譲りらしい。昭和2年刊の『きょうば志』が、明治期に紀州熊野権現の一臘職だった音無盛臣のほか、黒田清綱、東久世、徳川慶喜など、著名な歌人が当地に集まったのを機に、氏子拡張を勧めたが宮司が無欲だったので果たせなかったと記しているのは、父・正司氏のことのようだ。

 秀直氏の「無欲」は父親顔負けで、ご奉仕する日枝神社を「給料日というと、しばしば休みを取った」。神明奉仕で“労働の対価”を得ることを恥としたらしい。

 神に仕えることは“メシの種”ではないとする頑なな信念は、神職という“職業”のありようを鋭く問いかけている。

 戦時中は戦陣に散った英霊が戦地から続々と無言の帰還を果たした。東京駅頭での慰霊祭を奉仕したのは秀次氏である。

 東京府神職会理事にまで上り詰め、戦後は神社本庁設立に関わった。「祝詞の名人だった」らしく、『新作諸祭祝詞選集』(神社新報社刊、昭和35年)に14作の祝詞が載っている。

 高次氏が帰幽したのは昭和36年。そのころから京橋は日本を代表するオフィス街へと変貌する。ビル建設ラッシュが始まり、外堀は埋められ、高速道路が走るようになる。

 江戸の大火のほか、関東大震災や戦災を生き抜いた稲荷社の多くは、高度成長時代を“企業の神社”として、ビルの屋上で生き延びる。晩年の高次氏は町の変貌とお宮の変わり様をどのような思いで見つめていたのであろうか。(肩書きは当時)


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