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「農業基本法」を作った男の不明──筆を折った東大名誉教授東畑精一 [稲作]


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「農業基本法」を作った男の不明
──筆を折った東大名誉教授東畑精一
(「神社新報」平成10年9月14日)
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 農業基本法──日本の農業が向かうべき新たな道筋を明らかにし、農業に関する政策目標を示すため、昭和36年に制定された。
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 農業の法律的基準を示した最初の立法で、根底には西欧的な経済合理性の精神が流れている。戦前までの農本主義的な農業に代わって、新しい近代的な、むしろ工業的ともいえる農業の確立が期待された。

 農基法は戦後の日本農業の指針であり続けたが、農業生産の選択的拡大、生産性の向上、総生産の増大、構造改善などの政策目標は立法から40年近くが過ぎたいまなお達成されていない。農基法農政はなぜ挫折したのか?

 新農政策定に尽力した東畑精一は東京大学名誉教授で、日本の農業経済学を確立した功績から文化勲章を受章したが、晩年は

「私の考えに誤りがあった」

 と不明を恥じ、筆を折った。いったい何がそうさせたのか。東畑は何が誤りだと考えたのだろうか?


▢ 当初から不幸な星を戴く
▢ 3つの課題は達成されず

 農業基本法が制定された昭和30年代、“曲がり角論”が語られるほど、日本の農業は大きな岐路に立たされていた。

 31年度「経済白書」は

「もはや『戦後』ではない」

 と書いた。工業は強気の経済成長路線を驀進(ばくしん)し始めていたけれども、農業は取り残されていた。

 農村から若者が急速に消え始め、後継者を引き留めるための“引き留めオートバイ”が流行した。嫁不足も深刻になった。30年の大豊作以後、反収は頭打ちで、米価は横ばいから下降局面になり、増産すれば所得が増えるという楽しみは薄れた(林信彰『コメは証言する』)。

 32年8月、農林省は「農林水産業の現状と問題点」という副題のついた初めての『白書』をとりまとめる。『白書』は、

①農業所得の低さ、
②食糧供給力の低さ、
③国際競争力の低さ、
④兼業化の進行、
⑤農業就業構造の劣弱化

 ──という当面する「日本農業の5つの赤信号」を率直に指摘したうえで、「日本農業の基本問題」として生産性の低さをあげて訴えた。

「いまや、日本農業の基本問題を直視すべきときである。今後の農業発展、農民の経済的地位の向上は、農業の生産性の向上を基礎としないかぎり、将来に明るい展望はない」

「明るい展望」を求めて、34年5月、総理府の付属機関として農林漁業基本問題調査会が発足、農業基本法の本格的な検討が始まった。調査会の会長に就任したのが、東大を退職したばかりの東畑であった。

 35年5月、基本問題調査会は「農業の基本問題と基本対策」を岸首相に答申、これをもとに翌年6月に農基法が制定されるのだが、「農業基本法は成立の当初から不幸な星を頂いていた」(古野雅美「農業基本法を超える農政展開を」=「日本農業の動き96」)。

 岸退陣で池田内閣に代わっていたが、「前年の『60年安保』をめぐる政治的対決の余韻が続き、何事も与党対野党という対決ムードのなかでぶつかり合う」状況下で、国会はイデオロギー論争に終始し、実質審議はたったの10数時間、衆院農林水産委は「強行採決」、本会議は社会党が「審議拒否」、参院本会議は社党の引き延ばし戦術で徹夜の審議、こうして可決成立は午前4時をまわった。

 農基法の目的は、生産性、所得、生活水準について、農業と他産業との不均衡を是正するため、農業の近代化と合理化を推進することにあった。そのために、

①農業生産の「選択的拡大」(需要の高い農産物の生産を重点的に増やすこと)、
②「農業構造の改善」(零細経営からの脱却)、
③他産業との「格差是正」

 ──の3つの課題が提起された。

 それから30数年が過ぎ去ったいま、基本法農政はこれらの課題をほとんど達成していない。

 たとえば「選択的拡大」。

 農政ジャーナリストの会会長で、共同通信論説委員の古野氏によれば、畜産物や果樹、花卉など需要が増加する農産物はたしかに生産が飛躍的に増大した。しかし、米は違っていた。

 当時、米の供給過剰時代の到来を予測する見方が多かった。ところが、政府は逆に米の需要は微増ないしは横ばいに推移したのち、やがて減少すると見通して、農基法制定直後から米の増産運動を展開した。

 他方、農工間所得格差是正のかけ声のなかで、生産者米価は次々に引き上げられ、その結果、ますます米の過剰基調を促した。

 また、単品目の大規模栽培が進められた結果、各地で連作障害や知力の低下を招いた。畜産と耕種農業が分断され、畜産公害が顕在化した。性急な近代化、合理化は、機械の過剰投資、過剰な農薬投与・施肥、農産物の安全性、環境汚染など、諸問題を発生された。


▢ 「私の考えに誤りがあった
▢ 生活の視点が欠けていた」

 池田内閣の所得倍増計画では、当時25万戸しかなかった2・5ヘクタール以上の自立経営農家を10年間で100万戸育成するとしていた。農基法による農地改革以来の大改革で、他の産業に匹敵するような高所得の大規模農家が増えるはずだった。

 しかし、現実はそうはならず、挫折した(岸康彦『食と農の戦後史』)。

 なぜであろうか?

 農基法農政の立案者である東畑は53年春、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で、調査会当時を次のように回顧している。

 農基法の成立後、農政審議会が生まれ、東畑は初代会長となる。しかし

「審議会を続けること数年間、どうも事柄の進行が思うようにならない」のであった。

 調査会の答申では、高度成長が続くことを前提として、零細農家が第2次、第3次産業に流れることを期待していた。ところが離農は進まず、農家といっても農業収入より農業外収入の方が多い「第二種兼業農家」が増えた。出稼ぎで農業所得以上の収入を得ても、農民は土地を捨てなかった。

 若者は「金の卵」となって都会に流れ、農業就業者は激減したが、「3ちゃん農業」というように高齢者や女性が従来の農業を支えたのである。

 東畑によれば、「これを促進した最大の事情」は、「全国の地価の大暴騰であった」。

 高度成長に伴う地価の高騰が農民の土地保有欲をかき立て、規模拡大を妨げるとともに、兼業農家だけが増加した。こうして

「農業構造改善も経営規模の拡大もまったく吹っ飛んでしまった。基本法の基本観念が崩されてしまった」。

 東畑は調査会の速記録を読み直し、「驚くべきことを発見した」。

 調査会は地価問題をなんと一度も議論したことがなかった。問題にしてもいなかったのだ。

「議長としての私の問題提起力を疑わしめるものであるのに気づいた。他を責める要はない、自分の頭が問題なのだ。そう気づくと自己嫌悪、敗残兵のように背骨が抜けていくように思った」

 東畑は任期途中で審議会議長の職を辞し、それ以来、

「長らく農業問題を扱う気力も気概もなくして沈黙を守った」。

 39年の夏、滋賀県大津市で開かれた夏期大学で講演したとき、東畑は旧知の谷口知事から詰問された。

「いろいろ教わろうと思って出席したが、農業問題を審議せずに後進国問題ばかりを論ずるとはどういうことか?」

 東畑は

「恥ずかしながら、その資格がないのです」

 と答えざるを得なかった(『私の履歴書』)。

 しかし問題の核心は「地価」ではない。

『履歴書』執筆から3年後の56年5月、ある記念パーティーの席上で東畑はこう語ったという(石見尚『農協』)。

「経済の高度成長の過程で、農村の環境が大きく変わった。私は農業基本政策の相談にあずかってきたが、私の考えに誤りがあった。それは私の学問に生活の視点が欠けていたことである。これは学者としての私の不明の致すところで、今後、私は筆を折らなければならない」

 この前年、東畑は農業経済学を確立した功績で、文化勲章を受章した。伝達式のあとの記者会見で、

「賞をもらったのは小学校4年生以来のこと。いうところを知らず、ただ恐縮しています」

 と喜びを語った東畑であるが、胸中は晴れやかではなかっただろう。

 石見氏が指摘するように、東畑最晩年のスピーチは「じつに率直な学問上の自己批判であった」が、東畑は「生活」の観点として、「住生活をはじめとする生活環境への視野を持つことの大切さ」を例に挙げたものの、「それ以上具体的に言及することはなかった」。

 そして真意を語らぬまま、東畑は58年5月、84歳でこの世を去った。


▢ 深い人間洞察に欠けていた
▢ 一神教的な進歩史観の呪縛

 東畑はほんとうは何を言いたかったのだろうか。農基法の挫折の真因をどう考えていたのだろう?

 石見氏は農民の勤労観すなわち勤労哲学に着目し、こう説明する。

 日本の農基法が、1955(昭和30)年に立法化されたばかりの西ドイツ農業法を模範にしていることは知られている。農基法が「自立経営農家」と呼ぶ適正専業農家の勤労哲学は、西ドイツ農民のプロテスタント的職業観を暗黙のうちに持ち込んでいる。

 そこに問題があるという。

 宗教改革をおこしたマルチン・ルターは、人間の原罪は人が生涯、悔い改め続けることによって免償されると説いた。カルヴァンは禁欲による社会改革を説いた。こうした倫理観が社会の根底にあって、西ドイツでは土地の公的管理をも容易にした。

 しかし、日本の農民はキリスト教徒ではない。それでも日本の農民にプロテスタント的勤労哲学と勤労観があれば、西ドイツの農業法の精神が適用するかも知れないが、そうではない。

 日本農民の伝統的な労働観は、神道や仏教、儒教などが混じり合った「報恩観と自然観から合成されたもの」であり、キリスト教的免償論や天職論、あるいは「神の国」への奉仕という労働観は適用しない。

 日本の農民は農業を通して自然との一体感を求めている。したがって農業の営みを失うことは自然とのつながりが切断されることであり、アイデンティティの喪失にほかならならない。農地を手放すことはアイデンティティを与えてくれた祖先の恩恵に反することで、だからこそ農地の流動化に強く抵抗する。

 兼業農家から専業農家へ土地を移転させ、経営規模を拡大し、農業構造を改革する農基法の流動化政策の失敗はここに起因する、と石見氏は理解する。

 東畑は優れた経済学者ではあった。しかしその学問は、欧米キリスト教世界からの、いわば借り物であった。

 自然が相手の農業は、ビジネスではない。国土、風土の特性に合わせて、それぞれの民族が長い歴史をかけて築き上げてきた、生の営みそのものである。よくも悪しくも、日本の農業には日本人の自然観と祖先崇拝が染みついている。

 東畑はそれが見えなかった。合理では割り切れない日本の農民の生き方という「木」に、西欧的な合理主義的な経済学という「竹」を、接ぎ木しようと試み、案の定、失敗したということか?

 京大の渡部忠世先生は、近代合理主義で割り切る農政のあり方をこう批判している。

「稲作の収量や、その経済効率などという判断基準をもって優劣を論じることが、まさに理不尽な思い上がりであることが理解されるだろう」(『稲の大地』)

 農基法成立から30年目の平成2年、『農業白書』は、「国民経済の発展と食料・農業」と題する一章を設け、農基法農政30年を振り返り、指摘している。

「農業・農村をめぐる制度・施策のあり方について、中長期的展望に立って、積極的かつ総合的に見直しを行っていくことが重要である」

 ここ数年、農基法の本格的な見直しと新農基法制定が広範囲に議論されているが、失敗を繰り返さないためには、戦後の農政史をあらためて謙虚に見直していく必要がある。さもなければ、食と農の破壊がいま以上に進みかねない。

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