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葦津珍彦の韓国紀行──隣国との信頼・友愛を築くため必要なこと [韓国・朝鮮]

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葦津珍彦の韓国紀行
──隣国との信頼・友愛を築くため必要なこと
(「神社新報」平成10年11月16日号)
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 昭和四十一年春、葦津珍彦は韓国を訪問した。国交正常化の翌年のことで、ほぼ20年ぶりの韓国であった。
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 1週間のソウル滞在で、葦津は学生たちと10時間以上も討議した。その印象を「韓国紀行」(神社新報社刊『葦津珍彦選集2』所収)に書いている。

 学生たちが自国の歴史に切々たる愛情を持っているのは好ましかったが、知識は明らかに偏っていた。

 近代の日韓対立史は詳しいのだが、李朝内部の対立関係の知識は乏しかった。抗日烈士の活躍には詳しかったが、反日戦線内の思想対決はよく知らない。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知らなかった。

 それは現代のハングル教育の結果でもあった。ハングルの教科書で歴史を学ぶ学生たちは、漢字の多い独立以前の文書が読めないのであった。多くの知識が不足するのは当然であった。

 たとえば、ハングルの創始者である世宗王の知識は豊富だが、ハングルが19世紀末に市民権を得るに際して、福沢諭吉がハングルの活字を作らせ、門下生の井上角五郎にハングル混じりの新聞「漢城周報」を発行させた歴史を知る者は1人もいなかった。

 葦津が韓国近代史上、もっとも尊敬する近代化の先覚者たる金玉均については、学生たちは日本に欺かれて反乱をおこして失敗、日本に亡命したが見捨てられ、上海で惨殺された、と日本人の背信と冷淡を語ったが、終始、金玉均に同情と援助を惜しまなかった福沢や頭山満、来島恒喜ら民間人の存在は知らなかった。

 日韓併合に対する恨みは深いが、それは伊藤博文に集中していた。抗日烈士安重根を英雄視するあまり、伊藤以上の弾圧者であるはずの山県有朋、桂太郎などは過小評価されていた。

 葦津は語った。

 諸君は1907年の皇帝譲位と10年の日韓合邦を評論するが、十数年前の1896年に李朝はすでに滅びていたのではないか。高宗王はみずからロシア大使館に入り、ロシア海兵隊に守られて、自分が任命した金弘集首相以下の臣僚を惨殺させた。このとき国の独立は失われている。

 諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのでは、そもそも独立を保てない。むしろ諸君は、韓国内部の亡国理由を直視すべきではないか。

 学生たちと別れ、機上の人となった葦津は韓半島の山々を眺めながら、父・耕次郎を思った。耕次郎は若き日に、韓国の人民が無力にも暴政に苦しめられているのを思い、

「天皇陛下の御心を安んじ奉りたい」

 と即席の韓国語を学び、ドン・キホーテのごとく海を渡った。

 耕次郎の父・磯夫は福岡・筥崎宮の祀掌で、神祇官復興、教育勅語起草に関わるなど、神社界の重鎮であった。その兄・大三輪長兵衛は事業家にして政治家で、韓国に招かれて貨幣制度改革に取り組み、日韓攻守同盟条約の締結を斡旋、韓国皇帝から勲三等に叙せられている。

 耕次郎自身は朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神を祀ることに強く抵抗し、韓国併合に猛反対したことで知られる。

 葦津は明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしみながら、これからの青年たちが対日不信に固まった隣国の青年と交わり、その意識を揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。それは偉大にして困難な、男子畢生の大業というべきものである。山をも動かさねばならぬというほどの情熱と大志が要求される、と「韓国紀行」に書いた。

 葦津の訪韓から30年あまりが過ぎ去った。先月(平成10年10月)は小渕首相と金大中大統領の共同宣言で「過去の清算」と「日韓新時代」が謳われた。

 しかし、この間、両国間の深い信頼と真の友愛を築くために、山をも動かすほどの情熱と志を持った日本の青年たちは現れただろうか。そうした若い人材を育てる努力はなされてきたのか?

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