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高句麗の王を祀り、小麦を献饌する──古代朝鮮の遺民が建てた埼玉・高麗神社 [神社神道]

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高句麗の王を祀り、小麦を献饌する
──古代朝鮮の遺民が建てた埼玉・高麗神社
(「神社新報」平成11年3月8日号から)
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 昨年(平成10年)の暮れも暮れ、12月30日に埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねた。

 高麗川のほとり、自然豊かな高麗丘陵に同社は鎮まっている。8年前(平成3年)、市制以降で日高市になったが、明治29年までは高麗郡であり、近世は高麗郷といった。

『日本書紀』につぐ第2の勅撰史書である『続日本紀』には、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡を置いたとの記述がある。元正天皇の時代、霊亀2(716)年5月16日、いまから約1300年前である。

 祖国滅亡という悲劇のあと、朝鮮半島から亡命してきた高句麗の遺民によって、神社は建てられた。祭神は高麗王若光。現宮司の高麗澄雄氏は若光の末裔で、59代目という。古代から現在まで幾多の歴史を秘めながら、直系子孫によって祭りが連綿として続けられ、多くの人々の尽きない信仰を集めているのは驚きだ。

 ちょっと興味をひかれるのは、神饌に麦が供えられることである。なぜ麦なのか?


▢ 高句麗、新羅・唐連合軍に滅ぶ
▢ 朝鮮半島も日本も激動の時代

 いまの北朝鮮から旧満州・中国東北部を広く支配していた強国・高句麗が滅亡したのは、668年である。

『日本書紀』には、天智天皇7年の冬10月に唐の将軍英公が高麗を滅ぼした。高麗の仲牟王は建国のとき、1000年にわたって治め続けることを誓ったが、母夫人(いろはのおりくく)は

「よく治めたとしても700年ぐらいだろう」

 と語った。実際、高麗は700年で滅んだ──とある。

 このころ朝鮮半島は混乱のさなかにあった。韓国の高校用歴史教科書には次のように書いてある。

 6世紀末、中国が隋によって統一されると、高句麗はその圧迫を受ける。煬帝の軍隊113万が侵攻したが、高句麗はこれを撃破して危険を回避、他方、隋は国力を消耗して滅亡する。

 唐がおこると、高句麗は侵略に備えて千里の長城を築いたが、唐の太宗は兵を率いて侵入した。

 それ以前、百済、新羅、高句麗の3国間の関係に変化をもたらしたのは、6世紀の新羅の飛躍的な領土拡張であった。百済と新羅の同盟関係は壊れ、百済と高句麗が連合して新羅を圧迫するようになる。危機に瀕した新羅は、隋、唐との連合を図る。660年、百済の王城は新羅・唐連合軍の攻撃によって陥落する。

 百済、高句麗の崩壊後、唐は朝鮮半島全体に支配権を確保しようとしたが、新羅は百済、高句麗の流移民を糾合して全面対決し、唐の勢力を完全に駆逐して三国統一を達成した(『韓国の歴史』)。

 6〜7世紀は、日本もまた大混乱期であった。年表風に振り返ると──。

 552年、仏教が百済から伝わる。

 562年、新羅が任那日本府を滅ぼす。

 587年、蘇我馬子が物部守屋を討つ。

 592年、馬子を排除しようとした崇峻天皇が逆に暗殺される。

 593年、最初の女帝・推古天皇が即位、甥の聖徳太子が摂政となる。

 604年、十七条憲法制定。最初の成文法。

 607年、小野妹子を隋に派遣。最初の遣隋使。法隆寺建立。

 622年、聖徳太子薨去。

 630年、犬上御田鍬らを唐に派遣。最初の遣唐使。

 643年、蘇我入鹿、山背大兄王を攻め滅ぼす。

 645年、大化改新。蘇我本宗家が滅ぶ。中大兄皇子(天智天皇)、皇太子となる。難波遷都。

 646年、改新の詔。

 663年、白村江の戦で日本軍が敗北。

 664年、対馬、壱岐、筑紫に防人とのろし台を置き、筑紫に水城を築く。

 668年、大津遷都。

 671年、天智天皇崩御。

 672年、壬申の乱。大海人皇子(天武天皇)の前に、大友皇子(弘文天皇)の近江朝が滅ぶ。

 673年、天武天皇即位。飛鳥浄御原遷都。

 百済、高句麗の滅亡から新羅統一にいたる時代は、東アジアの激動のときであった。その激動のなかで、日本では古代律令制国家が完成されていく。


▢ 麦の初穂を奉納する氏子
▢ 建国の祖が与えた命の糧

 高句麗滅亡後、王族や重臣たちが日本に亡命した。かつて貢進使の副使として来朝したことのある若光王の姿もあったらしい。

『続日本紀』に、大宝3(703)年4月4日、従五位下の高麗若光に「王(こきし)」という姓を賜ったと書かれているが、それは祖国を失った高句麗の遺民をよく導いた功績を評価されたためだという(『埼玉の神社』埼玉県神社庁発行)。

 高句麗の遺民たちは見知らぬ土地でどのように暮らし、どのような祭祀を行ったのだろう。

『三国志』魏書東夷伝は、邪馬台国の卑弥呼に関する記述があることで有名だが、高句麗に関するくだりもある。

 人々は居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神に供え物をし、また星祭りや社稷(しゃしょく。土地神と穀神)の祭礼を執行したという。鬼神とは祖先神らしい。

 また、10月には、天を祭る「東盟祭」が都で行われる、とある。

 神話学者で古代史家の三品彰英氏は、この東盟祭は岩屋の穀母神(地母神)と建国の祖・東明王(朱蒙)の降誕を祝う収穫時の穀神儀礼だと理解している(『古代祭祀と穀霊信仰』)。

 国王みずからが親祭する国家的大祭で、貴族大官は錦の着物、金銀の装飾品で着飾って、一大行列に参列した。岩屋の地母神をお迎えし、都の郊外の水辺にお遷しして、祭祀を行うのだが、このとき歳神の聖標として神座に据えられたのは、木でかたどった穀穂もしくは木に穀穂を結びつけたものであったらしい。

 若光らもこうした祭祀を行ったのであろうか。

 若光が亡くなると、人々は現在の高麗神社社殿の裏手にある小高い「後山(うしろやま)」の頂上に、若光王の御霊(みたま)をまつる霊廟を建て、「高麗明神」あるいは「白鬚明神」と呼んだ。いまは水天宮が鎮まる。

 高句麗の伝統的祭祀は、残念ながら現在ではうかがい知れない。

「鎌倉時代に本山派の修験になった。江戸時代には護摩を焚いていた。明治になると、明治式の祭式に変えられた」(高麗宮司)からだ。

 それでも注目されるのは、「氏子がムギバツ(麦の初穂)を上げる」(宮司)ことである。氏子は祭りに1軒あたり1升の精白した小麦を奉納するという。

 明治初年に著された『高麗神社年中行事』『高麗神社祭祀古典録』『高麗大宮神饌帳』によると、明治以前、6月1日および15日の朝に小麦粉餅が、24日には氏子の各組から小麦が供えられた。とくに神社のお膝元の「宮本の大宮組」は各自が小麦をもって参詣した。

 7月には1日、7日、15日の朝に小麦粉餅が供えられ、8月は1日の朝に小麦粉餅を供えた。粉を練り、沸騰したお湯にちぎって入れ、ゆで上げたものらしい(『埼玉の神社』)。

 高句麗の建国神話に、次のような麦の物語が描かれている。

 母国・扶余を立ち去る朱蒙に、母・柳花が五穀の種を与えるのだが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまう。大樹のかげで休んでいると、2羽の鳩が飛んできた。母が麦を届けてくれたのだと思い、弓の名手であった朱蒙は、1矢で2羽を射落とす。喉を切り裂くと、果たして麦の種が見つかった。水を吹きかけると、鳩は蘇生した。

 その後、朱蒙は高句麗を建国する。

 高句麗には良田はなく、田を作っても口腹を満たすほどの収穫はない、と魏書に書かれているが、高麗郡も同様で、古くから畑作と養蚕が盛んに営まれた。

 高句麗の遺民たちは畑作の民であり、故国の祖神から与えられた小麦で命をつなぎ、神に初穂を供えてきたのだ。


▢ 戦時中は特高警察が監視
▢ いまは日韓交流の架け橋

 高麗宮司が「親父のころ」の、思い出深い話を聞かせてくれた。

「親父は2つ、イヤだと思ったことがある、と言っていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」

 お詣りする人たちを警戒していたらしい。前宮司はよほど気に入らなかったと見えて、戦後は「戦争に負けたのはともかく、特高警察がなくなったのは気持ちがよかった、と親父が言っていた」。

 もうひとつは「朝鮮人は各警察署ごとに『共和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことだ。

「警察は親父に、『立派な日本人になるように言ってくれ』と頼んだ。そう言われるのが親父はイヤでイヤで仕方がなかった」

 戦時中の高麗神社は「一方では監視され、一方では(民族政策に)利用される対象だった」らしい。

 そのころ警察に連れてこられた在日の人たちが、いまも参拝にやってくる。

「むかしはイヤだったが、いまはここに来るとホッとする、と言うんだ」

 時代が変わり、いまや神社は在日の人たちの心のふる里であるらしい。

「それは(ご祭神の高麗王若光と)血がつながっているヤツがここにいるからだ。よく覚えておけよ、と息子にも言ってある」

「彼ら(在日の人たち)からすると、俺は朝鮮人だと思うんだな。だから韓国の国旗を贈られたことがある。社務所に飾ってくれ、って言うんだ」

 参拝する韓国系の人たちは朝鮮半島の史跡よりも、この神社に深い郷愁を感じているのかも知れない。

 韓国本国からの青年は、留学生のほか技術研修の若者など、年間1000人にも上るという。

「ここに来るのがうれしいらしい」

 外交官や経済人もやってくる。

 神社といえば、戦時体制下の「強制参拝」という暗い過去ばかりが語られがちだが、神社を架け橋にして、日韓の民間交流が進められ、成功している。そんな例がほかにあるだろうか?

「薩摩焼の沈寿官さん(秀吉の朝鮮出兵の際に捕らえられ、来日した朝鮮陶工の14代目)が韓国名誉総領事なら、俺は名誉大使かな」

「韓国人が日本人の悪口を言うのも腹が立つが、俺は日本人が韓国の悪口を言うのも腹が立つんだ」

 こんなことを平気で語れる日本人はいまい。まして神職では高麗宮司だけだろう。とかくぎくしゃくする日韓関係を思えば、この人の存在意義はまことに大きいといわねばならない。

「俺は日本人なんていねえと思うんだ。みんな渡来人だと思うんだ」

 と断定されると困ってしまうが、少なくともアジアという多元的な国際環境のなかで、日本民族が歴史的に形成されてきた事実は無視できまい。

 明日は大晦日。神楽殿ではここ数年、近隣の青年が始めた創作芸能の練習が続いていた。今回はシンセサイザーやパーカッションなどとのセッション。朝鮮音楽風のリズムがうきうきさせるほど心地いい。

「初詣には10万人がやってくる。ほとんどがクルマだから、3キロの渋滞ができる」(宮司)そうで、空き地という空き地が臨時駐車場に早変わりしていた。

 渡来人の聖地が、いまや日本の聖地として、日本の社会に溶け込んでいる。こんな例がほかにあるだろうか?

 高麗宮司に別れを告げたあと、境内から数百メートル離れたところにある若光の墓を訪ねた。ハングル文字で願い事を書いた祈願の絵馬が覆屋のとびらにたくさん懸けられている。

「あと18年すると、高麗郡がおかれてちょうど1300年になる。俺は88歳。それまで長生きして、神社主催で盛大に祝おうと思うんだ」

 高麗宮司の言葉が蘇ってきた。

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