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朝鮮と山口を結ぶ不思議なる歴史の因縁──弥生人、倭寇、壬申倭乱、併合、そして正常化 [日韓関係]

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朝鮮と山口を結ぶ不思議なる歴史の因縁
──弥生人、倭寇、壬申倭乱、併合、そして正常化
(「神社新報」平成11年6月14日号)
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 昭和から平成への御代替わりに時を合わせて、皇祖神をまつる神宮の神田で誕生した稲の新種・イセヒカリの栽培が「西のお伊勢さま」山口大神宮がまつられる山口県でとくに広がっていることは、ご承知のとおりである。

 山口市街に鎮座する同社内宮が、不慮の火災で焼失したのは4年前のことだが、いまも焼け落ちたままの惨たる姿には落涙を禁じ得ない。心を痛める県神社庁は、少しでも復興のお役に立てればと、県内外に頒布されるイセヒカリの初穂料のほとんどを同社に奉納してきた。

 昨年(平成10年)12月には外宮社前の苔むした籾置岩で、「御神米」の健全なる普及を祈願する「御種子神事」が斎行された。かつて人々はこの岩に稲や麦の種籾をおいて豊作などを祈ったといわれるが、いつしか神事は絶えていた。室町時代、大内義興の治世以来続いたと伝えられる、由緒ある祭典は平成の時代、イセヒカリの発現によって復興した。

 だが、内宮再興は来年(平成12年)の式年大祭まで待たねばならない。

 今回は山口紀行を書く。


▢ 土井ヶ浜に眠る弥生人たち
▢ 大内氏の祖先は百済聖明王


 この(平成11年)2月、山口県内を旅した。下関から日本海沿いを北上すること50キロ、豊浦郡豊北町の土井ヶ浜を訪れた。海は荒れていた。

 昭和6年、小高い砂丘で古代人の骨が発見された。人類学上の大発見の幕開けである。戦後になって本格的な発掘調査が10数回にわたって行われ、300体を超える人骨などが出土した。時代は少なくとも弥生前期(紀元前2世紀)にまでさかのぼるという。

 土井ヶ浜弥生人は、縄文人とは異なる形質を備えている。160センチを越える長身で、きゃしゃな骨格、面長細面、のっぺりしてはいるが端整な顔立ち。「新モンゴロイド」といわれる。

 北部九州で発見された500体を超える弥生人骨と共通し、人類学者は「北部九州・山口型弥生人」と呼ぶ。

 いま「弥生パーク」として整備され、遺跡に覆屋をかけた広いドームには、発見当時を再現する約80体の人骨のレプリカが眠っている。

 その日、入館者は記者1人、複製とは分かっていても薄気味悪いやら、心細いやら、ほうほうの体で逃げ出した。

 興味深いのは、亡骸という亡骸が顔を西に向けていることである。土井ヶ浜の特徴だという。西方、海の彼方には朝鮮半島、中国大陸がある。彼らはアジア大陸からの渡来者なのだろうか?

 もっともよく知られている亡骸は「鵜を抱く女」である。シャーマンではないかという。鵜は穀霊や祖霊を運ぶ霊鳥である。女性は腕輪をいくつもはめている。ゴウホラ貝という巻貝製で、ずっしりと重い。

 弥生人は巻貝の持つ渦巻に神秘の力を感じていたらしい。ゴウホラ貝は沖縄・南西諸島で産出される。南の海との活発な交流が想像される。

 中世、西国を広く支配したのは、大内氏である。

 大内氏は百済聖明王の第三子琳聖を祖とする。『大内氏実録』などによると、周防国に渡来し、聖徳太子に謁見、大内県を拝領し、多々良の姓を賜った。鉄製錬技術を持った氏族で、朝鮮半島からやってきた渡来人と考えられている。

 14世紀、倭寇が朝鮮・中国の沿岸を荒らした。高麗が九州探題・今川貞世に使いを送り、倭寇禁制を要求したとき、これに応じて兵を高麗に派遣し、海上防備に当たったのは、25代大内義弘である。義弘は朝鮮との交渉に当たり、貿易を行った。百済の旧地分譲さえ要求している。

 冒頭で山口大神宮について触れたが、同社を勧請したのは足利幕府の管領代をつとめた30代大内義興である。後柏原天皇の勅許を得て、永世16(1519)年に創建されたという。

 大内氏の勢力が最盛期を迎えたのは31代義隆のときである。文化事業に力を入れ、450年前に「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルが来日したとき、布教を許可し、寺院1棟を与えたのは義隆だ。

 JR山口駅の正面に見える小高い亀山の南側に、カトリックのザビエル記念聖堂が建っている。日本最初の教会はいまの自衛隊駐屯地のそばにあった。亀山に聖堂が建てられたのは、第2次大戦後である。


▢ 朝鮮出兵の総帥は毛利輝元
▢ 初代統監となった伊藤博文


 秀吉の朝鮮出兵のとき、日本軍の総帥を務めたのは、大内氏に代わって新しい支配者となった毛利元就の孫・輝元である。

 輝元はみずから4万の兵を従えて、朝鮮に渡った。秀吉の渡鮮に備えて、釜山から漢城まで11か所の宿泊所を普請し、道筋を確保するのが輝元の任務であった。

 7年間にわたる文禄・慶長の役で、朝鮮の国土は秀吉軍だけでなく、明軍そして自国軍、暴徒によって荒らされた。飢饉が発生し、民衆は塗炭の苦しみを味わい、国力は衰えた。韓国の人々は「壬申・丁酉倭乱」と呼び、400年後のいまなお大きな恨みを残す。

 秀吉がこの世を去り、豊臣が滅んだあと、天下を治める徳川家康は朝鮮との講和を進めた。多数の捕虜が帰還し、和議が成立する。

 関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、そのあと家康に領地中国8カ国112万石を取り上げられ、防府長州2国29万石に減封された。輝元が新しく居城としたのが萩である。

 日本海に突き出した指月(しづき)山の麓、阿武川の河口に4年の歳月をかけ、城が築かれた。難工事であった。

 輝元ら歴代藩公をまつる志都岐山神社は、旧本丸に鎮まる。境内に山口出身の詩人・児玉花外の文学碑がある。

三百年の萩の花
一たび揺れて血の勝利

 萩は幕末維新回天の中心地である。市内には藩校・明倫館や幕末の志士・吉田松陰がつながれた野山獄など、当時の史跡が数知れない。

 市街東部に松蔭をまつる松陰神社が鎮座する。記者が詣でたとき、白梅がほころぶ境内には雪がちらついていた。

 同社は、松蔭が安政の大獄で、数え年30歳で刑死してから30年後、明治23年に土蔵造の祠が建てられたのが最初という。実家の小屋を改造した松下村塾、幽閉された三畳間が境内に保存され、訪れる者に何かを語りかけてくる。

 萩に生まれ、松下村塾で学んだ1人が初代首相となり、帝国憲法草案を起草した伊藤博文である。伊藤の旧家が神社のそばに残され、庭に大きな銅像が建っている。下級武士らしい慎ましやかな家である。

 明治39年、伊藤は初代統監となって、韓国に赴任する。その道すがら、下関の春帆楼に投宿したとき、「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦の父・耕次郎は高位高官が居並ぶ席で、長時間、熱弁をふるった。

「日韓の真の融和はあくまで思想、信仰の一致に立たなければ朝鮮民族を信服させることはできない。朝鮮民族の祖神をまつる神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない」

 のちの朝鮮神宮の歴史はここに始まる。

 当時、耕次郎は福岡・筥崎宮の主典、20代の若者であったが、伊藤は座布団を外して傾聴し、耕次郎に賛同して実行を約束したという。

 しかし、3年後の42年、伊藤はハルピン駅頭で安重根の凶弾に斃れる。その後、実現された朝鮮神宮は耕次郎の思いとはかけ離れたものだった。

 今泉定助、賀茂百樹、肥田景之そして耕次郎ら神道人は、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神を祀るのは「日韓民族の乖離・反目の禍根を残す」と猛反対ののろしを上げる。

 明治43年、韓国が併合される。併合を推進し、初代総督となったのは寺内正毅である。武断政策を採用し、憲兵を各地に配して、いわゆる「憲兵政治」を断行した。寺内はいまの山口市に生まれた。

 寺内を支えて、日韓併合を実現させたのは、明石元二郎だが、耕次郎は親しくしていた明石に、日韓併合反対を論じている。

「日韓併合で韓国の民が喜ぶなら差し支えないが、日本の政治家は日本国民を喜ばせる方法さえ知らぬ。まして韓国民衆は悲憤慷慨している」

 その後、台湾総督となった明石は、威圧政治の繰り返しを心配する耕次郎に、

「今度は君の意見を尊重し、期待に背かないから」

 と語ったと伝えられる。


▢ 正常化を実現した松蔭の至誠
▢ 条約締結時の首相は佐藤栄作


 松陰神社の境内の一角に、松蔭遺墨展示館がある。憂国の情がほとばしるような肉筆は心を揺り動かさずにはおかない。

 展示館の片隅に、大正・昭和期に大阪財界で活躍し、のちに日本貿易振興会(ジェトロ)設立の基礎を造った実業家・杉道助の銅像が置かれている。一見、場違いのようにも見えるが、そうではない。杉は松蔭の実兄・民治の孫に当たる。

 杉は晩年、第6次日韓会談の主席代表となり、温厚な人柄と松蔭譲りの至誠で、国交正常化に尽くした。

 日ソ平和交渉全権団に参加を求められたときには固辞した杉が、日韓会談の主席代表となったのは、昭和36年5月である。当時、李承晩政権が倒れ、その後、軍事クーデターで朴正煕が政権を掌握した。朴は打ち切られたままであった日韓会談の早期再開を、池田勇人首相に要請した。

 その池田が電話で主席代表就任を求めると、杉は二つ返事で快諾を即答した。このとき杉は池田に

「術策をとることはできない。両国民が納得するよう至誠をもって交渉に当たる」

 と語る。

「至誠にして動かざるものは未だにこれあらざるなり」

 は杉の人生を貫く教訓であり、それは大叔父・吉田松陰の精神であった。

 以前、杉はある新聞に、こんな文章を寄せている。

「朝鮮に対し、誤った政策をとった軍閥、政治家の過失を思わずにはいられない。しかし大部分の日本人は平和愛好家であり、朝鮮民族に偏見を持つものではない。両国が相通じ、東洋文化、経済の交流に力を尽くすべきである」

 また、こうも述べている。

「故郷の山口は昔から朝鮮とつき合いが深い。故老の話では、よく朝鮮の漁師が難破して流れ着き、領主から手厚くもてなしを受けて送り返されたそうだ。九州、山陰沿いの文化や産業は、朝鮮に負うところが多い。朝鮮と未国交のままではいいはずがない」

 36年10月、杉道助・裵義煥両代表のもとで第6次会談がはじまった。杉は冒頭、こう挨拶した。

「会談の諸懸案はどれも複雑微妙だが、双方に誠意と熱意があれば、解決できる。今回の会談を最終の会談としたい。日韓両国の新しい歴史を作りたい」

 だが交渉妥結を目前にして、杉は病に倒れ、他界する。

 日韓諸条約が調印されたのは昭和40年6月22日。この日、椎名外相は杉の霊前に電報で報告した。

「先生の筆舌に尽くせぬご尽力が結実し、歴史的な日を迎えるに到りました」

 ときの首相は佐藤栄作。佐藤もまた山口の生まれであった。佐藤は『杉道助追悼録』にこう書いている。

「杉さんとは故郷を同じくしたためか、とくに親しくお付き合いし、杉さんは私を子どものように可愛がり、私も杉さんを慈父のように慕った。日韓交渉はいくたびか決裂の危機にあったが、杉さんの醸し出す和やかな雰囲気と寛容の精神がこれを救った。杉さんが残された足跡はあまりにも大きく、両国の歴史に燦として輝くことだろう」

 杉は

「誓って神国の幹とならん」

 という松蔭の遺訓の実践者であった。

 しかしその後の両国関係がかならずしも平坦でなかったことは周知の通りである。

 金泳三政権末期以来のぎくしゃくした日韓関係を打開すべく、昨秋(平成10年秋)、小渕首相と金大中大統領は日韓共同宣言を発表した。このとき、そしていま外相を務める高村正彦氏はやはり山口の出身である。なんと不思議な歴史的因縁であろうか?

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