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日本が朝鮮語を奪ったのか──韓国歴史認識の度し難き偏見 [日韓関係]

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日本が朝鮮語を奪ったのか
──韓国歴史認識の度し難き偏見
(「神社新報」平成11年6月14日)
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井上角五郎(『井上角五郎先生伝』から)
井上角五郎(『井上角五郎先生伝』から).png
 井上ひさし『東京セブンローズ』が話題を呼んでいる。テーマはGHQの日本語ローマ字化だ。

 昭和21年3月、来日したアメリカ教育使節団は日本語のローマ字化を要求する報告書をマッカーサーに提出するのだが、結局、ローマ字化は実現されなかった。井上の小説はその謎に迫っている。

 ローマ字化推進の張本人は民間情報教育局のホール少佐である。反対の意見を述べる主人公に対して、ホールはこう語る。

「あなたたちは朝鮮半島の人々に、朝鮮語を捨てて、日本語を使えと迫ったではないですか。他人にしたことをけろりと忘れて、同じことを他人から要求されると激怒する。おかしいじゃないですか」

 戦前、日本語が朝鮮の言語を奪ったという理解は一般的である。しかしほんとうにそうなのだろうか。

 韓国大統領金大中氏の自叙伝『新しき出発のために』には、

「日本は……韓国語と韓国の歴史を学ぶことを禁じました」

 とあるが、もうひとつの『私の自叙伝』には、

「朝鮮語の正規の授業がなくなった……学校内では、朝鮮語を使うことが禁止されました」

 となっていて、ニュアンスが異なる。

 しかも『自叙伝』の補足説明は、昭和13年に第3次朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は「随意科目」となった。朝鮮語の授業を廃止した小学校が多かったが、金大中少年の6年生の成績簿には朝鮮語の成績が10点となっている。週に1度程度の授業が行われていたことをうかがわせる、と記述している。

 金大中氏は朝鮮語の授業を受けていた。母国語を自由に話せない状況には同情を禁じ得ないが、

「言語を奪われた」

 とまでは言いがたいのではないか。もしかして、朝鮮人特有の事大主義から、みずから進んで朝鮮語を廃止させた歴史があるのではないか。

 これ以前、昭和8年暮れから翌9年正月にかけて、当時随一の神道思想家・今泉定助は、陸軍参謀本部の要請で、5回にわたって、「国体の本義」を連続講演した。そのなかで、今泉は思いきった政府批判を加えている。

 いわく、明治天皇が日韓を併合されたのは、両民族の平和幸福のためであることはいうまでもないが、その後の総督政治は御趣旨に反しているのではないか。一も二もなく、ことごとく日本化することをもって政治の要諦とするかのような観があるのは、超嘆息を禁ずることができない。

 強権的な日本政府に対して、民間人の中には朝鮮および朝鮮民族に対する熱い思いがあった。

 韓国ではハングル(訓民正音)の創設者である李朝4代世宗王への尊敬の念は深い。しかし、ハングルは朝鮮社会に長らく浸透しなかった。支配階級である両班のインテリは漢文をよしとし、ハングルを低俗的とみて、用いなかったのだ。

 ハングルがようやく社会に浸透するのは、400年後の19世紀末になってからで、その功労者は日本人福沢諭吉であった。

 福沢はハングルの活字を作らせ、門弟の井上角五郎(日本製鋼所などの創業者・経営者、政治家)にハングル交じりの新聞「漢城周報」を発行させた。

 けれども、こうした歴史はほとんど知られていないようだ。韓国の高校用国定歴史教科書は、開化党が改革の一環として「漢城旬報」を発行したと記述する。

「旬報」は韓国最初の新聞で、これも外衙門顧問の井上の業績であった。井上は「旬報」を漢文で発行した。福沢は門弟の快挙に喜びつつ、ハングルの使用を勧めた。その経緯があり、明治19年に「周報」として復刊したとき、ハングル交じりとなったのだ(『井上角五郎先生伝』)。

 ところが、著名な在日の歴史家・姜在彦氏は、「周報」の国文使用のカゲに井上の努力があったことを無視することはできないとしつつも、国漢混合文体は朝鮮人の姜瑋が考案したと強調する(『朝鮮の攘夷と開化』)。

 何が何でも日本人が朝鮮語を奪った歴史でなければ気が済まないのであろうか。

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