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養蚕と機織りの里・福島「小手郷」物語──先端産業の発祥と隆盛の背後に皇室伝説あり [天皇・皇室]

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養蚕と機織りの里・福島「小手郷」物語
──先端産業の発祥と隆盛の背後に皇室伝説あり
(「神社新報」平成11年7月12日号から)
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 皇室は遠い存在なのか、それとも身近な存在なのか──。

『保田與重郎全集』の月報に、ある新聞記者が生前の逸話を紹介している。

 保田は日本浪漫派の評論家・歌人で、敗戦後に「好戦的文士」として文壇を追われたが、その後、『現代畸人伝』で返り咲いた。

 そのころ自宅を訪ねた記者に、保田は突然、「天皇の仕事でいちばん大切なのは何かね」と質問の矛先を向けた。思案している間もなく、「田植えだよ」。国事行為でもなければ、文芸でもない。「稲作神話の実修」だという指摘に、記者は驚いたという。

 天皇が、皇祖から賜った稲をみずからお植えになり、刈り取りをなさるように、皇后はみずから蚕をお飼いになる。『日本書記』には、雄略天皇が后・妃に桑の葉を摘み取らせ、養蚕を勧めようとされたとあり、これが宮中養蚕の始まりだという。

 保田風にいえば、米を作り、蚕を飼うことが政治(まつりごと)であり、祭りであり、地域の人々の暮らしそのものである。けれども、皇室の神話や祭りと結びついた産業がいまや風然の灯のように見える。

 というわけで、今回は、養蚕と機織りで知られた東北の一地方を取り上げ、皇室の物語と産業の盛衰について考える。


▢ 機織りを伝えた小手姫伝説
▢ 享保14年の信達農民一揆

 福島県伊達郡の南部、阿武隈山系の山懐にいだかれた、いまの川俣、飯野、月舘のあたりは、古くは「小手郷(おてごう)」と呼ばれた。じつは何を隠そう、筆者が生まれ育った故郷である。

 地名の由来は、悲しくも美しい小手姫(おてひめ)伝説にある。

 崇峻天皇5(592)年、天皇は蘇我馬子を排除しようとされ、逆に東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺される。

 天皇の妃・小手姫は大伴糠手(あやて)の娘で、政変ののち、北海に流されたわが子・蜂子皇子(はちこのおうじ)を追って旅に出る。途中、この地に落ち延びた姫は、人々に蚕を飼い、機を織ることをお教えになった。

 小手姫は70歳のとき、川俣町大清水の池に身を投げ、他界されたと伝えられる。

 町には、小手姫をまつる機織神社や、終焉の地とされる4坪ほどの池があり、碑が建っている。人々は最近まで、機を織った織り留めをお宮に奉納するのを、習わしとした。

 人々の暮らしは皇室の物語に支えられていた。京の都から遠く離れた寒村ながら、皇室はきわめて身近な存在だった。

 川俣の地名は小手姫の郷里・大和国高市郡川俣にちなむ、との説もある。

 小倉百人一首に、河原左大臣の「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰故に乱れそめにし我ならなくに」という恋歌があるが、信夫毛地摺(しのぶもぢずり)は植物の色素で乱れ模様に染め上げられた絹織物で、平安期には都の殿上人(てんじょうびと)や僧侶たちに愛用されたといわれる。

 奈良時代、陸奥国から朝廷に納められる調(貢ぎ物)といえば、多賀城以南は「布」だったようだが、とくにこの小手郷の絹は、遠く京の都にまで鳴り響く有名な特産品であったらしい。

 栄華を誇った藤原3代が源頼朝の前に滅びたあと、小手郷は奈良興福寺に寄進され、その荘園となる。小手郷の生糸や絹布はいよいよ畿内に広まったという。

 時代はくだり、江戸の越後屋(三越デパートのルーツ)が江戸城に納める絹織物を集荷するために契約を結んだ買継問屋は、酒造家の兼業が多かった。貨幣経済にもっとも早く接触したのが酒屋だったのだ。

 川俣の町小綱木、町飯坂だけで、22軒の酒屋があったという。

 けれども商品経済の発達は、農民の暮らしを必ずしも楽にしてくれるものではなく、しばしば一揆が起こった。

 信夫・伊達両郡内じつに54か村の農民が代官岡田庄太夫の増税政策に反対し、蜂起したのは、8代将軍吉宗の時代、享保14(1729)年である。

 前年は長雨で洪水や土砂崩れが発生し、まれに見る凶作であったが、代官は吉宗の「享保の改革」に基づいて、幕府の財政再建を優先し、増収策を敢行した。

 年貢率は「四公六民」から「五公五民」に引き上げられ、年末には凶作に備えるため、高1000石に対して30石の割合で置籾を命じ、14年2月には置籾の半分の上納を迫った。

 切羽詰まった農民は翌3月、名主・組頭を立て、大森・川俣両代官所に減税を願い出たが、拒絶される。そこで大森組2000人は福島藩に、川俣組の300人は二本松藩に強訴するにいたる。川俣組が密議を凝らしたのは、川俣の古社・春日神社という。

 だが、農民は捕らえられ、女子供にいたるまで言語に絶する厳しい吟味と拷問が加えられた。

 半年後、首謀者の立子山村組頭小左衛門と百姓忠次郎は死罪獄門となり、9名が遠島、そのほか追放・戸〆など、計94名が処罰された。

 他方、代官の岡田はとくに咎められることもなく、転勤していったという。


▢ 幕末に海を渡った軽業師たち
▢ 力織機を発明した大橋哲弥

 幕末から明治期を生きた異色の人物に、高野広八がいる。

 文政5(1822)年、大久保村(いまは福島市飯野町)に生まれ、香具師(やし)、博打打ちを生業とした遊び人だ。

 傑作なのは、曲芸団の後見人(世話役)となり、慶応2(1866)年から明治2(1869)年まで欧米諸国を巡業し、やんやの喝采を浴びたことである。

 日本の曲芸団の海外興業の最初であるのはもちろん、広八一行こそはパスポート(御印章)第一号の民間人だという。

 日本人が旅券を手に洋行した先駆けは、軽業師たちであった。

 そのことが分かったのは、20年ほど前、広八の実家から巡業日誌が発見されたからだ。

 広八はアメリカではじめて見る電灯や水道、エレベーターに驚き、毎晩のように娼婦と交わり、第17代アメリカ大統領ジョンソンと握手を交わし、パリ万国博を見物、オランダでは集まった野次馬と乱闘し、ロンドンの連れ込み宿で娼婦に金を盗まれた挙げ句に警察の厄介になり、スペインでは革命に出くわす。

 抱腹絶倒、愉快痛快の旅行脚の詳細は、安岡章太郎の小説『大世紀末サーカス』や宮永孝『海を渡った幕末の曲芸団』におまかせするとして、忘れてならないのは、なぜ広八ら曲芸団の外国興業が可能だったか、である。

 答えはいうまでもなく、達南地方の養蚕と機織りの隆盛である。江戸末期、福島の生糸は英仏に輸出され、将軍御用達の絹の産地は世界と結ばれていた。

 広八の父甚兵衛は農業のほかに、「住吉屋」と号して生糸や絹織物を商っていた。屋号は氏神の住吉神社からとったものらしい。小高い山の中腹にひっそりと鎮まる神社の本殿は見事な彫り物で覆われ、往時の繁栄を偲ばせるのに十分である。

 広八は商取引を通じて、江戸や横浜との間を往来し、軽業芸人などと関わりを持つようになっていたようだ。

 明治末になって、川俣は一躍、福井、石川と並ぶ日本屈指の機業地へと発展する。そうさせたのは、大橋哲弥の力織機の発明である。

 秀才の誉れが高く、小学校の教員をしていたのを、川俣の機業家・大橋兵蔵に見込まれた養子となった哲弥は、水車に代わる電力利用の画期的織機を開発したのだ。

 力織機の出現で手織りから機械織りに切り替わり、大正前期には川俣周辺で生産される羽二重(純白の肌触りのいい絹布)は全国生産量の1割にもおよんだ。

 製糸・絹織物業は、当時、日本経済を支える花形的産業で、川俣地方は福島県唯一の工業地帯といわれ、好況に沸いた。

 大正15(1926)年には国鉄川俣戦が開通し、鉄道によって中央と直結する。筆者が通った小学校の校歌は、「朝の汽笛が爽やかに」で始まっている。

 話は変わるが、福島といえば、競馬を思い浮かべる読者も少なくないだろう。

 福島競馬は明治20年、信夫山招魂社(福島県護国神社)の祭礼に際して、洋式競馬を催したのが最初だが、大正7年には福島競馬倶楽部が設立され、東北唯一の公認競馬が実現された。

 このとき大島要三、肥田金一郎とともに尽力した功労者が、代々、飯野村で農業と醸造業を営み、産馬業者でもあった服部宗右衛門である。

 服部は福島競馬倶楽部設立時の監事で、のちには常務理事となる。昭和11年に日本競馬会(現日本中央競馬会)が設立されると、服部は理事となった。

「馬小屋で生まれた」といわれるほど馬事に精通し、自慢の馬「新駒」を大正天皇に献上し、その名前は地酒の銘柄となったとも聞く。


▢ 世界恐慌で生糸や繭が暴落
▢ 石油危機以後、急速に衰退

 第1次大戦終結後、世界恐慌が襲う。昭和5(1930)年、生糸が大暴落、繭の価格も4割から5割下落し、製糸業、養蚕業に大きな打撃を与えた。

 7年には200万人を超える失業者が全国にあふれ、失業率は7・2%に達した。しかも賃金は引き下げられ、製糸業の女工は数年前の半分にまで給料が減少した。

 そのうえ9年には、未曾有の大凶作が襲いかかった。福島県全体では稲の収量は例年の3分の2に激減し、3軒に1軒の農家は収穫が半分以下となった。

 これでは自家用米すら確保できない。命をつなぐ最後の手段は借金で、伊達郡内の1世帯平均負債額は878円余(昭和6年)にのぼった。これは製糸女工の日給63銭のじつに3年半分に相当する巨額である。

 男たちは他県に、さらに外地にまで出稼ぎに出かけていった。村を離れたのは男ばかりではない。昭和6年の離郷女子は県全体で2万5712人。その1割が「闇の女」らしい。

 県の調査の項目に「闇の女」があるというのが、悲惨な現実を物語っている。

 そんなとき、6年9月、満州事変が勃発する。

 農民の苦悩を反映して、事変以後、小作争議が激増し、日中戦争前夜の昭和11年には地主と小作人との争いはピークに達した。

 最初、小作争議は小作条件の改善を地主に嘆願する程度であったが、大正期になると小作組合を結成し、演説会を催したり、田植えが終わったばかりの地主の田んぼを馬で踏み荒らすなど、手荒な実力行使に出るようにもなる。

 そうした農民運動発祥の地がこの信達地方とされている。

 農民運動を指導したのは飯野出身の八百板正(のちの社会党代議士)で、7年に全国農民組合福島県連合(右派県連)が正式発足すると八百板は書記長となる。最盛時の組合員は1000名に達したという。

 第2次大戦後の20年11月、GHQの指令に基づいて幣原内閣は農地解放を行う。不在地主から農地を解放し、自作農を創設するという措置であった。

「地主にあらざれば、人にあらず」という時代は去って、復興の足音が聞こえてきたのもつかの間、達南地域の繊維産業のその後はかえって苦難に満ちている。

 昭和29年、製品の9割以上を輸入していたアメリカの「可燃性織物輸入禁止法」で、川俣羽二重は壊滅的打撃を蒙る。

 燃えにくい羽二重の開発で危機を脱したものの、40年代には発展途上国との競合が表面化し、さらにオイル・ショック以後は日米繊維摩擦が激化する。

 48年には輸出が5割を占めていた川俣羽二重は、4年後に2割以下に下降し、輸出は一挙に衰退した。

 47年5月には半世紀のあいだ輸出製品を運び続けた川俣線が自動車交通に地位を奪われ、廃止された。

 国鉄線の廃止は時代の終わりを象徴している。かつてはガッチャンガッチャンという機織り機械の大きな音が朝から鳴り響いていた町は、ウソのように静かだ。機屋特有の白壁が続く町並みも今は昔である。

 ただ、小手姫の墓があるとされ、山頂に養蚕の神がまつられる標高599メートルの女神山の緑とそこから流れる女神川の瀬音だけは変わらない。

 小手郷の養蚕と機織りの盛衰は皇室の物語とともにある。(『福島県史』『川俣町史』などを参照した)

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