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祈りの大地 第4回 最北の古代水田稲作 [日本の稲作]

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祈りの大地 第4回 最北の古代水田稲作
(「農業経営者」44号、平成11年9月発行)
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▽津軽最大の祭り「お山参詣」
岩木山神社.gif
旧暦8月朔日(ついたち)の前後、青森県津軽地方でおこなわれる「お山参詣」は、この地方最大の祭りである。津軽のシンボルで、津軽人が親しみを込めて「お山」と呼ぶ岩木山をめざし、近郷近在の農家が稲刈りを前に、五穀豊穣を祈りつつ殺到するのだ。

石坂洋次郎の小説『お山』によれば、かつては白装束に身をかため、紅白金銀の幣束を捧げ持ち、10メートルを超える御幣を何十本と押し立て、お囃子に合わせて、「サイギサイギ……」と唱え、稲穂の波をかき分けながら、子供も年寄りも長蛇の列で押し寄せた。

麓の岩木山神社の本社にお詣りしたあと、深夜、松明(たいまつ)をかざして、いよいよ山頂の奥宮をめざすのだが、頂上に登ってからがすごい。岩の上の小祠から赤銅づくりの御神体を抱えだし、酒を浴びせてなでさすり、「神様ァ、いま来たでー」と叫んでは、堂内の壁に御神体を荒々しく何度もぶち当てる。そうすることで、山の神が喜ぶと津軽人は考えたらしい。

やがて8月朔日、神社の例祭当日の朝、太平洋の彼方から朝日がのぼってくる。参詣者は御来光を感激をもって礼拝する。

この祭りは岩木山が津軽の「土着の神」であり、津軽人の底知れぬエネルギーの源泉であることをよく示している。


▽2000年前の水田跡「垂柳遺跡」

その岩木山を遠くに望む津軽平野のほぼ中央、田舎館村に「最北の古代水田遺跡」がある。垂柳(たれやなぎ)遺跡。弥生中期、2000年前の水田跡である。
垂柳遺跡.gif
発見は昭和31年。耕地整理の際、大量の土器に混じって、200粒以上の炭化米が出土した。このため、古代稲作の可能性を指摘する考古学者もいたのだが、ほとんど受け入れられなかった。当時の定説では、群馬県高崎市の日高遺跡が弥生の水田跡の北限とされ、東北北部に稲作が伝播するのは8世紀以降、と考えられていた。青森のような北国で、古代、水田稲作があったとは想像しにくい。

ところが、56年からの本格的発掘で、水田跡が火山灰の下から姿をあらわし、畦(あぜ)や水口、水路までが出土したから驚いた。1枚10平方メートル前後の小ぶりの水田が656枚、総面積3967平方メートル。さらに東、西、南方向に広がっていた。

炭化米のほかに、「プラント・オパール」とよばれる稲の植物成分や水田雑草などが最新の技術で検出され、古代水田農耕の存在は否定しがたいものとなった。北緯40度を超える寒冷地で、稲作が確かに営まれていた。古代の稲作は驚くほど短期間に東北北部にまで伝播したのだ。


▽扇のように広がった5本の足指

3年前、村をたずね、田んぼのまん中の小さな資料館を訪れた。4畳半ほどの水田跡がガラスケースのなかに保存されている。そこに弥生人の足跡がくっきりと刻まれていた。

大きさは12~24センチ。印象的なのは、5本の指が扇のように広がっていることだ。前屈みの姿勢で、機敏に歩き回っていたらしい。大地に食い込んだ指先やかかとは、2000年前のものとは思えないほど、生々しい。体温のぬくもりや鼓動までが伝わってくるようだ。米作りという営みを通じて、民族の命が古代から現代までつながっている、という実感と親しみがわいてくる。

けれども、感傷にひたってばかりはいられない。発見された数千もの足跡は、じつは弥生人集落の断末魔の痕跡だからだ。大型台風の襲来で、山崩れと未曾有の大洪水がひきおこされ、大量の土砂が水田をおおい、村は壊滅した、と考えられている。大自然の猛威のまえに右往左往する阿鼻叫喚が目の前の足跡なのだ。
垂柳遺跡の足跡.gif
弥生人の足跡を見つめながら、ボクは平成5年の悲しい大凶作を思わずにはいられなかった。青森ではあの年、「皆無作」さえ伝えられた。夏が短く、秋冷の早い雪国で、けっして簡単ではない、いやむしろ無謀ともいえる米作りに、津軽人はなぜ挑んだのか。考えあぐねるボクの脳裏に、「お山参詣」の明るくエネルギッシュなお囃子がよみがえってきた。


追伸 この記事は「農業経営者」44号、平成11年9月発行(農業技術通信社)に掲載された拙文「祈りの大地 第4回 最北の古代水田稲作」に若干の修正を加えたものです。

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