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キリシタンの里のソーメン作り──禁教・鎖国とは何だったのか [キリスト教]

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キリシタンの里のソーメン作り
──禁教・鎖国とは何だったのか
(神社新報、平成11年10月11日)
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カステラの取材で長崎に飛んだ翌日、諏訪神社の上杉千郷宮司、松本亘史禰宜の両氏と外海(そとめ)町黒崎(いまは長崎市)に足を伸ばした。隠れキリシタンの里として知られる外海は世帯数4000戸のうち、カトリックが540戸、昔(隠れ)キリシタンが400戸を数える。

そんな町でもっとも有名な郷土の偉人といえば、だれしもフランス人宣教師ド・ロ神父をあげるに違いない。

禁教が解かれていない幕末の長崎にやって来て、やがてこの地に教会を建て、漁業や農業の近代化に貢献したほか、海難事故で夫を失った、貧しい未亡人のために救助院(授産場)を創立して、織物や染色、パンやマカロニの製造などを教えたという。

以前は網すき工場で、保育所でもあったという小さな記念館には、ゆかりの品々が陳列してある。なかでもソーメン作りに使われた包丁が目を引く。

記念館の窓口には店ざらしの「ド・ロさまソーメン」がひと箱、残っていた。無理にお願いして買い求めたのだが、それにしてもなぜソーメンなのか。


▢1 家康はなぜ禁教に転じたのか。カトリック勢力の政治的野望

長崎・純心女子短期大学の片岡弥吉副学長によると、ド・ロ神父は1840年、フランス・ノルマンディー地方の貴族の家に生まれた。

20歳でオルレアン神学校に入学し、宣教師としての勉学を始めるのだが、そのころ日本は欧米列国と修好通商条約を結び、開国したばかりであった。

文久2(1862)年、フューレ、プチジャンというパリ外国宣教会の2人の神父が横浜に上陸した。横浜天主堂が竣功し、「二十六聖人」が「列聖」したのもこの年である。

列国に開港された長崎で、フューレ神父は天主堂の建設を始める。元治元(1864)年に完成した天主堂は「日本二十六聖人」教会と呼ばれた。これが現存する日本最古の天主堂・大浦天主堂である。

元治2年3月、浦上の農民男女10数人が「フランス寺」の見物にやって来て、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と聞いた。250年間、禁制下で潜伏していたキリシタンがここに「復活」したのだが、それは新たな迫害の始まりでもあった。

しかし浦上の農民が検挙投獄されると、長崎在留の外国領事がキリシタンの投獄・拷問を「非道」と非難する。事態は外交問題にまで発展した。浦上全村がキリシタンであるという現実は重かった。大政奉還後、新政府の要人が集まって御前会議が開かれ、結局、キリシタン全員が流罪となる。

ド・ロ神父がパリ外国宣教会の宣教師として長崎に上陸したのは、慶応4(1868)年6月7日。奇しくも「浦上キリシタン1村総流罪」の太政官達が出された日であった(片岡『ある明治の福祉像──ド・ロ神父の生涯』など)。

そもそも日本はなぜ禁教・鎖国の道を選んだのか。家康は当初、キリシタンに好意的であったはずだが、なぜ禁教に転じたのか。

フロイス「日本史」の完訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一教授によれば、関ケ原の合戦に先立つこと6か月の慶長5(1600)年3月、オランダ船リーフデ号がイギリス人水先案内人ウイリアム・アダムスを乗せて豊後に漂着したことが、カトリックにとっては大きな衝撃となった。プロテスタント勢力の来日で旧教と新教の宗教戦争に火が付いたのである。

天下分け目の合戦にキリシタン武将の小西行長があえて処刑されたうえに、天下人となった家康は、カトリックと敵対関係にあるプロテスタントのオランダ人やイギリス人の来日を歓迎する姿勢を示した。

他方で、家康は国際貿易の発展を望み、とくにノビスパニア(メキシコ)との交易が盛んになるのを希望した。そのためには、言語上の問題などから、スペイン系修道会員の協力が必要であったから、結果としてスペイン領マニラではフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の宣教師の間に日本布教熱が異常な高まりを見せた。

宣教師の大量入国を不満として、家康はフィリピン総督宛の朱印状に布教の厳禁を明示した。イエズス会の日本司教セルケイラも「このままでは迫害が始まる」と警告したが、宣教師には馬耳東風であった。

松田氏はこう指摘する。

「徳川幕府をしてキリシタン宗の宣教師と信奉者を日本から根絶せしめるよう決意させた最大の理由が、キリシタン宗の布教は異国による政治的陰謀と関連しているとの判断に基づくことは明らかで……」

最初はポルトガル、今度はスペイン──カトリック勢力の領土的野心を秘めた陰謀の疑惑は秀吉の晩年以降、次第に動かしがたい事実と認められていたのだ。

家康による禁教政策の直接の原因は、慶長17年に発覚した贈収賄事件である。

老中本多正純の家臣岡本大八は、慶長14年に有馬晴信がポルトガル船を焼き討ちした恩賞として有馬の旧領地を賜るよう斡旋すると持ちかけて、晴信から多額の賄賂を取った。これが明るみに出て、さらに今度は晴信による長崎奉行殺害計画が露見する。大八は火刑となり、晴信も配流になるのだが、ふたりともキリシタンであったことが幕府の感情を著しく害した。

幕府は京都所司代板倉勝重を呼んで、「南蛮キリシタンの法、天下停止すべし」と命じ、4か月後には「バテレン門徒御禁制なり」の布告が出されて、まずは直轄領から禁教令が実施される(松田「キリシタンの殉教」=西川孟『日本キリシタン史 殉教』所収など)。


▢2 圧政がもたらした島原の乱。指導者に小西行長の旧家臣

家光が3代将軍になると、迫害は以前にも増して過酷になった。雲仙岳の熱湯を浴びせる「雲仙地獄」、深い穴に逆さにつるす「穴吊り」、聖像を踏ませる「絵踏み」で、キリシタンは背教を迫られた。

そこへ降ってわいたのが島原の乱である。

外海町を取材した日の午後、松本氏の運転で、島原を訪ねた。待ち構えていたのは志岐茂夫さん。今春(平成11年)、島原半島文化賞を受賞された郷土史家である。

悲劇の舞台、南有馬町(いまは南島原市)の原城跡へと向かう車中で、志岐さんから聞いたお話は新鮮だった。「島原の乱はキリシタン一揆ではなく、農民一揆だと私は考えています」。「NHKの『堂々日本史』が取材にきたときも話したのですが……」というので、以下は『堂々日本史』を参考につづる。

寛永14(1637)年10月、キリシタンを取り締まる島原藩の代官が殺害されたのを機に、島原各地の農民がいっせいに蜂起、神社仏閣に火を放ち、藩主松倉氏の居城島原城下に乱入して城を包囲した。

幕府が鎮圧に乗り出し、4万5000の大軍を仕向けると、一揆勢は籠城した。原城は有明海に突き出した周囲3キロの台地をそのまま城にした天然の要塞で、かつては有馬氏の支城だったが、藩主が松倉氏に代わり、一国一城の制で居城が島原城に移って廃墟となっていた。一揆軍はいちばん高いところに教会を建て、指令を出した。

難攻不落の原城に対して、幕府軍は2度の総攻撃を加えるが、数千人の死傷者を出し、指揮官である板倉勝重までが戦死する。代わって司令官となった松平信綱は戦法を兵糧攻めに切り換え、降伏を呼びかけた。

注目すべきなのは交渉に使われた矢文である。一揆勢の矢文の多くはキリシタン解禁を求めるものであったが、それとは異なる内容の矢文が昭和30年代に瀬戸内海の小豆島内海町(うちのみちょう。いまは小豆島町)の壺井家で発見されている。

一揆の指導者には内密に送られた矢文には、「太平の世を騒がして申し訳ない。一揆は領主松倉長門守の酷い政治に抗議してのこと」と記されてあった。

島原は稲作に向かない火山灰の畑地である。そこへ20年前に移ってきたのが松倉氏で、新興外様大名の意気込みと見栄で小大名にしては立派すぎる島原城を築いた。そのため農民を絞り上げ、4万石の領地なのに、2倍以上の税を取り立てたという。さらに寛永11年以来続く凶作と飢饉が重なった。百姓一揆は当然の結果だった。

籠城すること80日。取り囲む幕府軍は12万。一揆勢の食糧も武器も底をついた。最後の総攻撃が加えられたのは寛永15年2月末。原城は陥落し、一揆勢3万7000人は老若男女の別なく皆殺しにされた。

天草四郎の父親など一揆の指導者には、関ヶ原の合戦で敗れた、天草領主でキリシタンの小西行長の旧家臣もいた。指導者は幕府に盾突き、つかの間の天下取りを夢見ていたともいう。

そして、幕府の皆殺し強行はキリシタンへの見せしめでもあったろう(『堂々日本史4』など)。


▢3 対日貿易をめぐる宗教戦争。宗門改・檀家制度の発足

島原の乱の前からスペイン船の来航が禁じられ、日本人の海外渡航・帰国が禁止されて、鎖国令は段階的に厳しさを増していたが、島原の乱後の寛永16年にはポルトガル人の居住・来航が禁止され、徳川幕府の鎖国体制は完成する。

カトリック勢力が閉め出されたあと、残ったのはプロテスタント国のオランダである。西洋諸国のなかで、なぜオランダだけが通商相手となり得たのか。

じつはポルトガル、スペインの侵略的意図を吹き込み、両国との貿易停止を幕府に盛んに働きかけていたのがオランダであった。バタビア(インドネシア)に本拠地を置くオランダは、宗教と経済を分離し、対日貿易の独占を図ったらしい。

オランダにとって島原の乱はポルトガル追い落としのチャンスで、幕府の要請で海上から一揆勢を砲撃さえしている。やがて幕府がポルトガル船の来航を禁止したとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催された。もちろん貿易額は鎖国の完成で激増したという。

このころヨーロッパでは、ドイツを舞台に旧教と新教との壮絶な宗教戦争が戦われていたが、極東では対日貿易をめぐる宗教戦争が戦われていたことになる。

その点、徳川幕府とオランダは利害が一致した。以前は大名・豪商の自由であった対外交易を、幕府は鎖国によって独占することになったのである(『NHK歴史発見13』など)。

一方、国内では、幕府は寛永17(1640)年、切支丹奉行(宗門改役)を置き、宗門改めと寺請檀家制度を発足させた。当初はキリシタンが宗門を改めるのを寺が証明するという制度であったが、やがては隠れキリシタンの探索のため全住民を対象とする制度が全国化していく。

人々は出生とともに宗門改帳に登録され、所属する寺院の証印を受け、村役人を通して領主に報告する義務を負うようになった。キリシタンでないことを証明するためにである。

ところで、島原の村々は鎮圧後、ほとんどが壊滅した。復興のため幕府は諸藩に禄高1万石につき1世帯の割合で農民の移民を命じた。とくに天領(幕府領)であった小豆島からは「公儀百姓」の強制移住が行われた。島原名産のそうめんはこのとき小豆島の移民が持ち込んだという。

一方、明治12年に外海町に赴任したド・ロ神父は私財を投じ、海難で亡くなった漁夫の未亡人や職を持たない未婚女性が経済的自立を図るための救助院「至風木舎(しふうきしゃ)を建て、算術などを教え、製粉や機織り、裁縫、パンやソーメン、マカロニの製造を伝えた。

「ド・ロさまそーめん」はいまや地域の特産品だが、どうも島原そうめんとは無関係らしい。ソーメンとはいいながらちょっと太めで、本来的にはパスタだったのかもしれない。

至風木舎の試みは政府に認められ、明治43年、内務省は助成金200円を贈った。翌年、ド・ロ神父は病に伏し、大正3年、帰らぬ人となる(『南有馬町誌』『外海町誌』など)。


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