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稲作民の文明と遊牧民の文明 ──2つの植民地支配をめぐって [文明論]

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稲作民の文明と遊牧民の文明
──2つの植民地支配をめぐって
(「神社新報」平成11年11月8日号)
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「日本国民であった誇り」

 台湾人元日本兵・鄭春河さんがおっしゃったのには、ガツンと頭を殴られたような思いがした。お目にかかったのは、靖国神社の創立130年記念大祭である。

 祭典のあと、靖国会館で直会の弁当に箸をつけようとしていた、親切にもお茶をもってきてくださる方があった。横に並んで、「どちらから?」と尋ねると「台湾から」とおっしゃった。それが鄭さんであった。

 大東亜戦争が始まったときは21歳。第1回陸軍特別志願兵に合格し、南方戦線で悪戦苦闘されたそうだが、終戦から50年が過ぎたいまも、「誇り」を持ち続けている。

「目覚めよ、わが同胞」「大東亜戦争は聖戦である」と叫び続ける私家版の小冊子を、延べ30万部も同憂同志の日本人に送り続けてきた。「日本人以上の日本人」と呼ぶ人もいる。

 しかし一般的には、「日本に国を奪われた」「強制的に名前を変えさせられた」「強制連行された」と批判し続ける「元日本人」の方がずっと目立つ。

 なぜそうなってしまったのか?


▢ 稲作民の国土ナショナリズム
▢ 遊牧民の民族ナショナリズム


 戦後、約30年の長きにわたって靖国神社宮司を務めた筑波藤麿氏の子息で、早稲田大学教授の筑波常治氏(科学文化史)は、30年前に書いた『米食・肉食の文明』のなかで、ヨーロッパ諸国による植民地経営のやり方と日本のそれとは異なると指摘している。

 興味深いのは、その違いが、日本人が稲作民であるのに対して、ヨーロッパ人は遊牧民であるところに由来する、と考えていることだ。

『日本農業技術史』『農業博物誌』の著者でもある筑波氏によれば、水田稲作の大きな特徴は水稲が連作可能だということにある。

 畑作とは異なるこの特徴は、稲作民の定住性を可能にし、土地への深い愛着を生じさせた。これが稲作民族の猛烈な郷土愛を生み、土地愛をもとにした日本人の国家意識もしくは民族意識、つまり「国土ナショナリズム」を生ぜしめたという。

 他方、ヨーロッパ人の場合は、民族の人種意識と結びついているのではないかと問い、「民族ナショナリズム」と呼び分けることを提唱する。

「民族ナショナリズム」の代表選手はユダヤ人だ。

 古代のユダ王国がバビロン軍の攻撃で滅ぼされ、民族ごと捕囚の身になる歴史は有名だが、このとき現れた預言者エレミアは捕虜となって連れて行かれるユダヤ人に「バビロンに住み着き、子供を産み増やせ」と訴えた。たとい国土を失っても民族の血は残せ、というのだ。

 それから2000年以上ものあいだ、「亡国の民」といわれながらも団結し、他国を民族繁栄の足場として生き延びた。

 民族滅亡を免れた背景には、特定の土地に縛られずにオアシスを求めて移動した遊牧民の伝統がある、と筑波氏は指摘する。

 ところが、これに対して、日本人には遊牧の伝統がまったくない。

 同時に、民族闘争の深刻さを身をもって体験した歴史がない。日本人には、異民族はむしろ新しい文化をもたらす恩人でさえあった。

 この違いは、植民地経営に大きな相違をもたらした。

 日本人にとって、植民地の異民族は「同胞」なのであった。日本人は異民族を「敵」として認識しない。善意をもって手を差しのべれば、異民族も喜んで融和してくれると考え、融合一体化しようと努力した。

 しかし異民族はそれほど楽天的ではない。日本人は異民族の民族ナショナリズムを見落とし、結果的に朝鮮からも台湾からも総スカンを食らった。

 ヨーロッパ人は原住民を蔑視しつつも、原住民特有の生活権を認めたのに対して、日本人は何でもかんでも日本化しようとして異民族の反発を受けた──と筑波氏は書いている。

 筑波氏が強調するのは、遊牧民の苛烈な風土、オアシスを奪い合う厳しい生活、峻厳な神観に対して、日本の温和な風土、争いのない生活、大らかな神観という違いである。

 筑波氏の著書には記述はないが、この違いが対象を客体化しないという日本人特有の民族的習性をもたらしたのではないだろうか。

 日本人にとって、人間と自然とは同じものであり、日本人は花鳥風月を客体化せずに感情移入する。異民族に対しても同様だが、この感覚は異民族にとっては通用しない。それが日本人には分からない。

 以前、書いたように、秀吉の朝鮮出兵で、みずから出陣した毛利輝元は朝鮮の地理が分からず、言葉が通じないことに周章狼狽している。民衆を労ろうとする気持ちが通じず、飢えた物乞いを泣く泣く叩き切る結果になり、輝元は「目も当てられない」と悲嘆に暮れた。

 異国の文化が異なるのは当然で、輝元らの無謀はあきれるばかりだが、日本人は懲りもせずに、同じ失敗を300年後に繰り返す。

 たとえば、「創氏改名」はよくいわれるような「朝鮮人の名前を日本式に変える」ことではなく、挑戦の家族制度を「家」制度に再編するため、「姓」とは別に、家の呼称である「氏」を創設することであり、そこには日本と朝鮮は1つであるという「内鮮一体」の思想的背景がある。

 だが、日本人が朝鮮との一体化を朝鮮統治の崇高な理想と考えたのに対して、朝鮮人は少なくとも今日、そうした発想自体を拒否している。


▢ 会田雄次が『アーロン収容所』で
▢ 体験したイギリス軍の残虐行為


 同化・融合を目指す日本の植民地経営が精神論的であるのに対して、ヨーロッパの植民地支配は恐ろしいほど合理的だ。その違いを体験的に論じたのは、京大教授の会田雄次(故人)である。

 会田は戦争中、ビルマ戦線で戦い、終戦直後にイギリス軍捕虜となった。ビルマの収容所で送った1年9か月の捕虜生活をもとに西洋文明を批判したのが、昭和37年発表の『アーロン収容所』である。

 会田は収容所で知られざるイギリス軍、イギリス人の怪物的正体を見届けた。それこそが数百年、アジアを支配し、アジア人の不幸の根源であった、と会田はいう。

 捕虜となった会田は所持品の検査を受けたあと、英語の試験を受けた。多少、会話ができた会田は「ちょっぴり英語が話せる」という紙片を渡される。試験官は日本語で語った。

「英語が話せると重宝です」

「重宝」というのは、あくまでイギリス軍にとっての意味であることを、会田はあとでいやというほど思い知らされる。捕虜たちは「利用」の対象でしかなく、能率的に働かされ、絞り上げられた。

 強制労働の鬼門中の鬼門はイギリス軍の女兵舎の掃除であった。何しろ程度の悪い女たちがそろっている。会田たちは掃除用具一式を持って、兵舎に入る。トイレであろうとノックは不要だ。

 ある日、会田が部屋に入ろうとしたら、全裸の女が髪をとかしていた。会田は驚いたが、女はまったく無反応であった。もし白人が入ってきたら大騒ぎになるところだが、会田の存在は無視された。イギリス人にとって有色人種は「人間」ではないのである。

 会田は深い屈辱を味わった。

 あるとき兵舎に忍び込んだビルマ人の泥棒が監視役のグルカ兵に射殺された。会田が知らせると、イギリス人の若い軍曹は死体の頭部を蹴り上げた。首の骨が折れる。軍曹は「フィニッシュ(死んでいる)」とつぶやいただけであった。

 会田たちは興奮していたが、軍曹は事務的だった。イギリス人にとっては、人間の死ではなく、ネズミが死んだ程度のことなのであった。

 会田はイギリス人の「残虐性」は日本人のそれとは基準が違うという。そしてその違いは家畜飼育の経験の有無に由来すると語る。

 会田によれば、日本人は食糧として家畜を飼うことを知らず、家畜を屠殺する経験がないが、ヨーロッパ人は大量の家畜を飼い、屠殺して死体を処理することに慣れている。何百頭もの家畜を飼うには、それなりの管理技術が必要になる。この技術が捕虜の集団を扱う場合に求められる。

 ヨーロッパ人の牧畜の技術は植民地支配によって洗練された。何百、何千という捕虜の大群を十数人の兵士で護送する姿は、まさに羊や牛の群れを率いる牧者そのままであった。

 動物を殺すには、理念が要求される。キリスト教は「動物は人間に利用されるために創造された」と教えたが、ヨーロッパ人の人間と動物の境界の設定はじつに身勝手である。

 会田たち捕虜が食べているビルマの下等米は砕け米で臭く、やたらに砂が混じっていた。日本人が抗議するとイギリス軍の担当者はまじめにこう答えた。

「支給されている米は、家畜飼料として何ら害なきものである」

 つまり、会田たちは「家畜」なのであった。


▢ 「分割統治」したイギリス
▢ 日本が推進した「内鮮一体」


 イギリス軍は殴ったり蹴ったりという「残虐行為」はしない。あくまで冷静に「残虐な行為」を行った。たとえば、会田はある投降者の話を例にとる。

 たぶん、映画「戦場にかける橋」に描かれた日本軍のことだろうが、泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待したという疑いを持たれた鉄道隊が戦後、裁判を待つあいだ、逃走や反乱を防ぐという理由で、一時、イラワジ河の中州に収用された。

 そのとき食糧が乏しく、飢えに苦しむ日本兵は川で毛ガニを捕って食べた。カニはアメーバ赤痢の病原体の巣で、イギリス軍は「生で食べるな」と命じたが、日本兵は食べずにはいられない。結局、赤痢にかかり、血反吐を吐いて、死んでいった。

 そのさまをイギリス兵は毎日、双眼鏡で観察し、全兵士が死んだのを見届けると、「日本兵は衛生観念に欠け、再三の警告にもかかわらずカニを食べ、疫病で全滅した。遺憾である」と上司に報告したという。

 これがイギリス式の報復である。日本人にはとても真似できない。計算し尽くされた冷酷無比の捕虜管理技術だが、この技術が植民地支配にはむしろ有効であることも事実らしい。

 以前、バングラデシュの孤児院を支援する援助活動のため、現地に通っていたとき、孤児院の代表者を招待して会食し、得がたい体験をした。

 会場はイギリス式の会員制高級クラブであったが、バングラ文化に敬意を表して、現地の民族衣装を着て出かけた私は、「イギリス式のクラブだから」という理由で、入場を拒否された。

 いっしょに出かけた学生たちの薄汚れたTシャツ、ジーンズはOKで、バングラのパンジャビ、パジャマはよくない、というのが納得できない。さんざん異議を申し立てたが、無駄であった。

 結局、バングラ人の友人から「タイで買ったサファリスーツ」を借りて着替え、ようやく受け入れられたのはご愛敬であった。

 バングラを含むインド世界は50数年までイギリスの植民地であったが、独立したいまもなお上流階層はかつての宗主国イギリスを崇拝し、イギリス留学を誇り、英語で日常生活を送っている。服装はもちろんイギリス紳士風にスーツである。

 イギリス植民地支配の原則は、「分割し、統治せよ」である。賢いイギリス人はもっぱらインド社会の上層部だけを都合よく教育し、イギリス化して間接的に効率よくインドを支配した。それは牧羊犬に羊の群れを追わせるやり方に似る。

 多くの血を流した末に、念願の独立を獲得したはずのバングラだが、こんどはイギリス化したバングラ人によるイギリス支配が続いているように見える。

 これを日本の朝鮮統治と比較すれば、違いは明らかだ。

 たとえば教育では、昭和13年春、第3次朝鮮教育令が公布されると、小学校や中学校など、学校制度が日本国内と同じになり、同一の教科書を使用するようになった。一方で朝鮮語が随意科目となり、文字通り「内鮮一体」の政策が推進される。

 これは、手塩にかけて田んぼを作る稲作民のやり方だ。

「内鮮一体」の政策自体が誤っていたというのではない。政策が成功するか否かは、時と場合、相手次第である。冒頭に書いた鄭春河さんのような例もあるからだ。

 けれども朝鮮では稲作民型の植民地支配は成功したのかどうか?

 ある意味では、成功したのかもしれない。

 黒田勝弘産経新聞ソウル支局長の『韓国人の歴史観』によると、韓国の歴史教科書は戦争末期の1940代が「空白」に近い記述になっているという。「抵抗」どころか、「協力」がもっとも進み、韓国人はほとんど日本人になりかけたのである。

 つまり、「内鮮一体」政策は、一時は成功したのである。

 けれども、現代の韓国人は自分たちが日本人化した「過去」を認めることができない。「抗日」を国是とする韓国人は、「支配─抵抗」の歴史こそが「事実」でなければならない。つまり、新しい「過去」を捏造するほかはない。

 日本の失敗は、時代が変わるごとにころころ変わる韓国・朝鮮人特有の国民性まで見抜けなかったことであろう。韓国・朝鮮には、イギリス風の冷酷無比な植民地支配の方が向いていたのかもしれない。


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