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「ニュー・ミレニアム」を考える──畑作文化に由来する循環的時間観念 [キリスト教]

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「ニュー・ミレニアム」を考える
──畑作文化に由来する循環的時間観念
(「神社新報」平成12年1月10日号から)
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 昨年(平成11年)来、ちまたは「ミレニアム」であふれている。

 某洋酒メーカーが売り出した「ミレニアム・ワイン」に始まって、有名でパートには「ミレニアム・コーナー」が設置され、「西暦2000年」にあやかった商品がところ狭しと並べられている。

 消費低迷で不況にあえぐデパート業界がワラにもすがる思いで打って出た商法なら同情しないでもないが、「ミレニアム」の起源がキリスト教にあることは明らかで、キリスト者でもない日本人が「ミレニアム」を呼号するのは年末恒例の「クリスマス商戦」に勝るとも劣らない「悪乗り」といえないか?

 同じ「2000年」なら、4年前の平成8年は「皇大神宮御鎮座2000年」だったけれども、デパートが伊勢の大神の御神徳を宣揚するようなイベントを華々しく展開したという話は聞かないから、対照的である。

「真空総理」にいたっては、年頭会見で「平成12年」という前に「ミレニアムおめでとう」と切り出した。

 そもそも何が「ミレニアム」なのか?


▢ 火付け役となったローマ教皇
▢ 7年ごとにめぐる「安息の年」

「ミレニアム」の火付け役はどうやらローマ教皇ヨハネ・パウロ2世らしい。

 教皇は1994(平成6)年11月、「使徒的書簡──紀元2000年の到来」を発表し、西暦2000年を「大聖年」として迎える準備を全世界10億4千万のカトリック信徒に呼びかけたのだが、「書簡」の原題が「第3の千年期の到来」となっていて、この「千年期」がラテン語では「ミレニオ」、英語で「ミレニアム」なのである。

「書簡」のなかで、とくに興味深いのは、「第2章 紀元2000年の聖年」である。「聖年」の意義が説明されていると同時に、カトリック的な時間観念がうかがえるからだ。

 ローマ教皇は当然のことながら、東洋的な「輪廻転生」をはっきりと否定し、「天地創造」から「キリストの受肉」「再臨」という直線的時間観念を明確に表明している。しかし一方で、「書簡」には農耕民的な循環的時間観念が並行して見いだせるのが面白い。

──モーセの時代には畑が休閑になり、奴隷が解放される「安息の年」が7年ごとにめぐってきた。この年は神の栄光のため、負債が帳消しにされることが律法に規定されていた。50年ごとの「ヨベルの年」には全居住者の全面的「解放」が行われた。すべての人が救いの力にあずかることができるのが「大聖年」である──

 このような論法で、教皇は千年に一度の「主が恵みをお与えになる年」を説明している。

 7年に一度の「安息年」は、旧約聖書の時代の律法に由来する。たとえば、モーセに率いられ、エジプトから脱出したイスラエルの民がカナンに定着していく過程で、主なる神は、

「あなたは6年の間は土地に作物を栽培し、7年目は休閑地とせよ」

 と命じるのである(「出エジプト記」23章10〜11節)。

 ユダヤ・キリスト教といえば、砂漠のなかのオアシスを求めて、羊の群れを追う遊牧民の宗教のように考えられている。砂漠という風土は一神教的な世界観を生み、直線的な時間観念をもたらしたといわれる。

 東大名誉教授で地理学者の鈴木秀夫先生が述べているように、

「草も木もなく、倒れた動物の死体もただ白い骨をさらすだけの砂漠では、輪廻の思想は生まれない。世界は、天地創造に始まり、終末に向かって、一直線に進行しているという直線的世界観が成立することになる」(『森林の思考・砂漠の思考』)のだ。

 ところが、旧約の律法、そして教皇の「書簡」から浮かび上がってくるのは意外にも、鈴木先生がいう「森林的」な円環的世界観なのである。

 カトリック中央協議会に、

「キリスト教的にも循環的な時間観念があるのですか?」

 と聞いてみたら、驚いたことに、歴史の「繰り返し」は認めながら、「循環」を否定した。よく聞くと、歴史の単純な「循環」という表現を嫌っているらしい。それだけ、世界には初めと終わりがある、という直線的時間観念を強固に信じているということだろうか?

 だとすれば、「7年に一度の安息年」は本質的には非キリスト教的な習俗ということにもなり、ますます興味がもたれる。

『ケンブリッジ旧約聖書注解』を開いてみると、面白いことに、土地に対する「安息年」の制度は歴史的に古いもので、それは土地は神に属するという考え方に基づいている。畑にできる農作物は7年目には神のものとなり、貧しい者や動物のために残しておかなければならない──と考えられたという説明がある。

 当時の農耕がどのようなものであったのか、詳しいことは分からないが、ここに記述されているのは明らかに、キリスト教以前の畑作農耕民による「輪作」の知恵ともいうべき循環的時間観念である。

 さらに玉川大学女子短大・新井智教授の『聖書を読むために』によると、カナン定住によって、イスラエル民族の生活は砂漠の遊牧生活から農耕生活、さらに都市生活へと一変した。そしてカナン土着の神バアルや母なる女神アシュタルテという頽廃的な偶像崇拝の多神教が「侵入」し、倫理的な人格的一神教が「堕落」した──という。

「堕落」と断定するのは早計だろうが、いま教皇が主導する「大聖年」という歴史的大イベントは、間違いなく異教的土地神信仰に由来する循環的時間観念が底流にあることが分かる。


▢ 6世紀に「キリスト紀元「発生」
▢ 最初は「復活祭」計算の副産物

 さて、「西暦2000年」である。

 年数を数える場合に基準となる最初の年を「紀元」という。キリスト誕生の年を元年とする西暦は「キリスト紀元」と呼ばれ、教皇は

「キリストの生年がほとんどどの国でも暦の紀元となり、広く使われていることは意義深く、イエス誕生が人類史に及ぼした比類のない影響のひとつたではないか」

 と強調するのだが、はたしてそうだろうか?

 三笠宮崇仁親王殿下が翻訳されたジャック・フィネガン著『聖書年代学』によると、古代ローマで用いられた紀元はローマ史創建に基づき、西暦前753年を元年としていた。

 ユダヤ人は2つの紀元を用いた。ひとつは、西暦70年にローマ軍によって「第2神殿」が破壊されたことを新紀元とし、「神殿の破壊X年」「破壊の後X年」と表された。もうひとつは「創造紀元」「世界起源」で、ユダヤ人は西暦前3761年をアダムが想像された年と考えた。

 3世紀になると、古代ローマではディオクレティアヌスがローマ皇帝に推挙された284年を紀元の始点とする「ディオクレティアヌス紀元」が用いられるようになる。彼はキリスト教の大迫害者で、キリスト教会ではしばしば「殉教者の紀元」として使用された。

 6世紀になって、著名な学者でもあったローマの修道士ディオニシウス・エクシグウスは西暦525年に「イースター表」を書くのに際して、キリスト教の敵であるディオクレティアヌス皇帝の紀元を使用せず、「主の体現より」という新たな紀元を採用した。

 これが「キリスト紀元」だが、埼玉大学の岡崎勝世教授(ドイツ近代学)によれば、ディオニシウスの方法は

「歴史的事実の探求ではなかった」。

 彼は、キリスト者にとってもっとも重要な祝祭日のひとつ、復活祭(イースター)の日を求めようとした。

 それ以前、キリスト教を公認し、みずから改宗したコンスタンティヌス帝は325年にニケアの宗教会議を開いたのだが、このとき復活祭は

「3月21日以後の最初の満月のあとに来る第1日曜日」

 と定められていたのである。

 ディオニシウスの時代には、イエスの復活は3月25日の日曜日、イエスが満30歳のときと考えられていた。この日は同時に、イエスの受胎告知の日であり、天地創造の日とも考えられた。また、年によって移動する復活祭は532年で一巡する、と考えられていた。そこで、ディオニシウスは、3月25日の日曜日が復活祭となる年を探していき、イエス誕生の年を算定したのである(岡崎『聖書vs世界史』)。


▢ 真のイエス生誕は前4年が有力
▢ 世界化は異教文化破壊の裏返し

 上智大学神学部の土屋吉正教授が書いているように、ディオニシウスはもともとキリストが降臨した歴史的年代を探求したわけではない。また、キリストの死と復活の期日に関する伝承を議論の出発点に置き、2000年前を生誕年とする彼の見解は、今日では支持されることはない。イエス誕生は紀元前7年または前4年とする説が有力で、とくに前4年説が一般的に認められているという(『暦とキリスト教』)。

 たとえば、「マタイによる福音書」は、イエスはヘロデ王の時代に生まれたと記述しているが、ヘロデは前4年に死んでいる。したがってイエス生誕はそれ以前ということになる。(デイヴィッド・ダンカン『暦を作った人々』)

 いみじくもヨハネ・パウロ2世は「書簡」で、西暦2000年を「大聖年」とするのについて、「厳密な年代の問題はさておき」と但し書きをつけ、今年(平成12年)がイエス生誕2000年ではないことを暗に認めている。

 しかし「キリスト紀元」が変更されることはなかった。またイエス誕生が紀元前4年だとすれば、「生誕2000年」は1996(平成8)年で、奇しくも「皇大神宮御鎮座2000年」と一致するのだが、「西暦2000年」を「大聖年」と位置づけるカトリックはこの年、「とりわけ何の行事もなかった」(カトリック中央協議会広報)。

 キリスト紀元がすぐに広まることもなかった。

 キリスト紀元は、7世紀半ばにイングランドの教会で最初に受け入れられ、そのあと西ヨーロッパのカトリック化とともに広がっていった。

 10世紀後半には、それまで教皇在位年を使っていた教皇文書に用いられるようになり、10世紀末までには西ヨーロッパに定着した(岡崎前掲書)。

 日本にキリスト紀元が伝わったのは、いうまでもなくザビエルが来日した450年前である。キリシタンは太陽暦による祝日を厳守した。禁教後、ローマとの連絡が途絶えてのちも、「バスチャンの暦」など独自の暦が伝えられ、隠れキリシタンたちは「御出世以来X年」と年を数えたという(土屋前掲書、岡田芳朗『日本の暦』など)。

 ヨハネ・パウロ2世は、

「イエス誕生が人類史に及ぼした比類のない影響」

 とキリスト紀元の世界化を自賛するが、むしろそれはキリスト教が世界布教の過程で異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきた歴史の裏返しではなかったか?

 明治政府は明治5年に改暦を断交し、太陽暦を導入したが、キリスト紀元は認めなかった。政府公認の官暦は明治16年からは神宮司庁が発行するようになるのだが、「神宮暦」には神武天皇即位紀元の皇紀と一世一元の元号とが併記されている。

 ところで、キリスト紀元は復活再計算の副産物として生まれ、その復活祭は農耕民の祭りに由来するというのがまだ面白いのだが、詳しくは次回に譲る。

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