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国民的和解と融和について考える──両陛下のオランダ公式御訪問を前に [昭和天皇]

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国民的和解と融和について考える──両陛下のオランダ公式御訪問を前に
(「神社新報」平成12年5月15日)
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 慶長5(1600)年、オランダ船リーフデ号がいまの大分県臼杵市に漂着した。それからちょうど400年を迎えた今年、各地で記念の行事が催されている。

 先月19日には臼杵市で大分県などが主催する「日蘭交流400年記念式典」が開かれ、オランダのアレキサンダー皇太子とともに御臨席になった皇太子殿下は、「本日、400年前のヤコブ・クワケルナック船長らの漂着と同じ日に、記念式典が開かれることは誠に意義深いことであります」とお言葉を述べられた。

 今月下旬には天皇皇后両陛下が同国を公式訪問されるが、友好親善どころか、「歴史と向き合う旅になりそうだ」と伝える新聞もある。

 2月にコック首相が来日したとき、小渕首相は「両国関係が損なわれた一時期があったが、戦後50年の村山談話の立場を再確認する」と語り、第2次世界大戦のオランダ領東インド(インドネシア)の「戦争被害者」問題について反省とお詫びの気持ちを伝えた。

 いったい両国間に何があったのか?


◇「歴史のトゲ」はインドネシア
◇ 苦難の日本軍強制収容所生活

 日本とオランダの「歴史のトゲ」は蘭印と呼ばれたインドネシアにある。

 慶応大学の倉沢愛子教授(インドネシア現代史)によると、オランダ東インド会社がバタビア(いまのジャカルタ)の町を建設したのは1619年、オランダの東洋での根拠地がこの町であった。

 東インド会社は交易を進めながら領域を拡大していったが、放漫経営のために1799年に倒産、その後の植民地支配はオランダ国家の手に移される。領地は拡大し、スマトラ、ボルネオ、セレベスなどの島々にまで及んだ。

 1941(昭和16)年12月8日、日・米英間に先端が開かれ、翌年2月にシンガポールが陥落、3月1日、日本軍がジャワ島に上陸した。

 電撃的攻撃で9日目にはオランダは降服する。慌ててオーストラリアに逃げた者もあったが、オランダ人20数万人の多くが取り残された。

 日本軍による占領統治が始まり、ジャワ島は陸軍第16軍の統治下に入った。

 やがて民間人への締め付けが厳しさを増し、すでに収容所に入れられていた元高級官吏や重要企業幹部など4492人の「敵性濃厚者」のほか、青年・壮年男子1万5252人の「居住制限者」は刑務所、学校、民家などに収用され、婦女子や少年、老人男性の「指定居住者」4万6784人は一定地区に生活することを義務づけられた。

 収容所の衛生状態、食糧状態は劣悪で、戦後のオランダの発表では、オランダ領東インド全体で13万5千人が捕虜もしくは抑留者となり、そのうち約2割に当たる2万7千人が死亡したとされる(ジャン・ラフ=オハーン『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語』の倉沢教授による「解説」から)

 7年前の夏、國學院、皇學館両大学の学生ら数人とバングラデシュのマングローブ植林に出かけた帰り、インドネシアに立ち寄った。

 スカルノ・ハッタ空港に到着後、日本の援助団体オイスカの人たちに案内されたのが、ボゴールの植物園である。オランダ総督府が置かれていたところで、総督邸が日本時代には軍司令部となり、いまは迎賓館として使われていると聞いた。

 翌日、ジャカルタで独立記念塔(モナス)を見学した。台座に設けられた大パノラマは48場面の独立史がテーマで、「インドネシア人が労務者として強制労働させられ、何千人もの死者を出した」とする日本時代のひとこまもあった。

 ジャワ島の伝説に、稲穂が黄色く稔るころ、北方から使者がやって来て、それまで自分たちを苦しめていた奴らを追い出す、という物語があり、日本軍が上陸してきたとき、「あれは日本軍のことだったのか」と囁き合ったと聞いたが、それから3年半の日本占領の記憶はインドネシア人にとってもけっして明るいものではない。

 戦後50年で出版された『日本軍強制収容所(ヤッペンカンプ) 心の旅 レオ・ゲレインセ自伝』の難波収氏による「訳者まえがき」によれば、蘭印の降服で9万3千の蘭印軍と約5千の米英豪軍が日本軍の捕虜となった。

 うち3万8千の蘭印軍の将兵と3千の海軍軍人の計4万1千人が捕虜として収容されたが、捕虜たちは飢餓、傷病、暴行などに苦しんだほか、道路、飛行場、鉄道などの建設作業に従事させられた。

 タイ─ビルマ間を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の敷設に駆り出された連合軍捕虜の数は6万1千人で、そのうち1万6千あまりが死亡し、1万8千人のオランダ兵には3100人の犠牲者が出た。

 パカンバル鉄道建設では、オランダ兵とイギリス兵合わせて6593人が送り込まれたが、輸送船の沈没で1626人が死亡し、現地で696人が斃れた。ほかに1万7千人の労務者が命を失った。

 自伝を書いたゲレインセは「ガニ股野郎ども(日本人)」が進攻してきたとき14歳で、母親と妹とともに強制収容所に移され、飢えと暴行、強制労働で肉体的、精神的な死の苦しみを味わい、戦後、オランダ本国に引き揚げたあとも少年時代の忌まわしい記憶に苛まれ、失業や家庭崩壊を経験したという。


◇ オランダ人「慰安婦」の恐怖
◇ 「女の楽園」カンビリ抑留所

 前出の『ジャンの物語』はオランダ人「慰安婦」の手記だが、これによれば、1923年にジャワ島に生まれたジャンは日本軍のジャワ島侵攻後、母親や妹らといっしょにアンバラワ収容所に抑留され、そのあと44(昭和19)年2月から約2か月間、17歳以上のオランダ人女性35人とともに、スマラン日本軍慰安所の「慰安婦」であることを強いられた。

「これほどすさまじい苦しみがあろうとは思ってもいませんでした」とジャンは語る。

 倉沢教授によると、インドネシアでは当初、現に売春を営んでいる者のなかから、本人の自由意思に基づいて「慰安婦」が採用された。やがてオランダ人女性が目を付けられ、最初は希望者から採用されたが、ジャンたちは「強制的」に収容所から連れ出された。

 その後、1944年4月から抑留所の管理が州庁から軍に移管されたのに伴って、俘虜を「慰安婦」として強制した「国際法違反」が第16軍上層部に知られ、慰安所は閉鎖された。

 戦後の戦犯裁判では、スマランのオランダ人慰安婦問題に関して13人が起訴され、1名が死刑、10名が懲役刑となった。懲役刑を受けた10名には性病検査を担当した2名の軍医も含まれていた(『ジャンの物語』の「解説」)。

 日本軍の「罪状」の連続には気が滅入るが、ホッとさせられる物語も伝えられている。

「文藝春秋」昭和34年10月号に、「白い肌と黄色い隊長」と題する菊地政男の記事が掲載されている。弱冠27歳の山地正二等兵曹(海軍)が所長を務めるカンビリ抑留所の秘話である。

 抑留所には1800人の婦女子が収容されていたが、総督令嬢や知事夫人、市長夫人など反抗的、ヒステリックな女性たちは扱いづらかった。

 そのなかで山地はヨーストラ夫人というリーダー格の協力を得、抑留者の自治を認めて安心して生活できる抑留所づくりに努力する。新しい宿舎のほかに診療所や老人ホーム、教会や学校が建てられた。200台のミシンが導入され、農園も作られ、自給自足の体制ができあがる。

 衣服や靴、食器、鏡、石鹸なども支給され、抑留所は「女の楽園」の異名をとる、明るく秩序のある模範的存在として知られ、陸軍から見学者も訪れるほどだったが、民政部長の決裁で慰安婦の提供を求められたときには山地は頭を抱え込んだ。

 悩んだ末に、大河原長官に決死の直訴を試み、やがて慰安婦採用は不許可になる。

 終戦後、ヨーストラ夫人は「人間山地はわれわれか弱い婦女子をよく理解し、民族を超越した人間的な温かい愛情を注いでくれた」と感謝の言葉を捧げ、451名の抑留者は山地への感謝状に署名した。

 視察にやって来た連合国軍の調査団は「抑留所内に学校があるというのは連合国側にも見られない。感謝と敬意を表する」と山地に握手を求めた。

 のちに本国に帰国したヨーストラ夫人は「オランダ金鵄勲章」を授与され、また山地との交流も続いた、と菊地は書いている。


◇ 「親善を壊すようなことはして
◇ くれるな」と語られた昭和天皇

 インドネシアでの戦犯裁判では236名が死刑に処せられ、サンフランシスコ講和条約に基づいて日本政府は抑留民間人への補償金1千万ドルを支払った。

 にもかかわらず、オランダの日本に対する「戦争責任」の追及は止まない。

 昭和46年秋に昭和天皇が香淳皇后とともにヨーロッパを御訪問になったときには、オランダでは過激派の反対運動が激しく、水の入ったビンがお車に投げつけられるといった不祥事などが起き、オランダ政府は陳謝の意を表明した。

 平成の時代になってからは新たな個人賠償訴訟が持ち上がった。ジャワ島スマランのオランダ人慰安婦事件が一般に知られるようになったのは、平成4年夏の朝日新聞の報道がきっかけという。

 補償事業を進めている「アジア女性基金」が一昨年の夏、オランダでの事業を開始したほか、当時の橋本首相はお詫びの親書をコック首相宛に送った。

 しかしこの一方で、オランダ人の中に、日本批判ではなく、オランダ自身の植民地支配を反省しようという気運が生まれている。

 オランダ領東インドに生まれ、抑留経験を持つ、オランダの著名な評論家ルディ・カウスブルックは、『西欧の植民地喪失と日本』(原著の『オランダ領東インド抑留所シンドローム』はオランダでベストセラーになった)で、「背が低くて黄色い曲がり足のサル」という日本人像がオランダでは戦時中ならいざ知らず、いまも信じられている。植民地を奪われた挙げ句に捕虜となった遺恨のままに造り上げたステロタイプのイメージから一歩も出ようとしない、とオランダ人に自省を求めるのである。

 オランダ人は横柄に日本人に謝罪を求め、日本人が謝罪すると、「謝るそぶりだけ」と拒絶する。日本人の誠意を受け入れないのは日本人に対する恨み、闇雲な遺恨だ、とカウスブルックは指摘している。

 しかし偏見なら日本側にもある。オランダ人「慰安婦」が「白馬」と呼ばれたのは、白人に対する民族的優越感もしくはコンプレックスのなせる技であろう。

 それにしても、あってはならない戦争が残したあまりにも深い傷を癒し、人種的偏見や恩讐を超えて、両国の新の和解、融和を図るにはどうすればいいのか?

 昭和46年10月15日付の朝日新聞は、昭和天皇御訪欧に随行した宇佐美宮内庁長官の帰国会見の言葉をこう伝えている。

「オランダなどでの反対運動については、陛下には前もって情勢を申し上げていたので、十分承知されておられた。……陛下は、国民の親善を壊すようなことはしてくれるな、とだけいわれたし、反対運動をして実際に捕まった者に対しては穏便に取りはからって欲しいと伝えた」

 昭和天皇にとって50年ぶりの御訪欧は、変わりやすいヨーロッパの秋空がウソのように晴れたと伝えられる。まさに「天皇晴れ」。そして「皇后スマイル」はわだかまりの消えないヨーロッパ人の心を洗ったという。

 今回はどうであろうか?

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