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神奈川県護国神社と戦没者慰霊堂 ──宗教的祭儀と非宗教的行事の間 [政教分離]

以下は「神社新報」(平成12年6月12日)からの転載です


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神奈川県護国神社と戦没者慰霊堂
──宗教的祭儀と非宗教的行事の間
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 JR横浜駅で京浜急行の下り快速電車に乗り換え、次の上大岡駅で下車、徒歩10分。樹齢数十年の桜木百本余に囲まれ、赤紫や薄紅色のサツキの花で埋め尽くされた静かな丘の上に神奈川県戦没者慰霊堂がある。

 先月10日、ここで県主催の戦没者追悼式が斎行された。遺族約1000名、来賓約500名を前に、岡崎洋県知事は、

「国際平和の実現に向け、地域からの取り組みをさらに推し進め、目前に迫った21世紀が希望に満ちあふれた平和な世紀となるよう、全力を尽くしてまいることをお誓い申し上げます」

 と式辞を述べた。

 47都道府県には少なくとも1社、国に一命を捧げた戦没者を祀る護国神社が鎮まっているが、唯一の例外がこの神奈川県である。戦後55年を迎え、過去の記憶が薄れゆくなかで、なおさら知られていないのは、戦時中、県護国神社の建設が進められたものの、竣功を待たずに、空襲で焼失したことである。

 知られざる歴史を振り返るとともに、慰霊堂建設と追悼式の実際に迫る。


まぼろしの神奈川県護国神社
竣功を前に横浜大空襲で焼失

 神奈川県護国神社はこれまで学術的研究対象となることさえない、忘れられた存在だった。そこに、最初に光を当てたのは、神奈川県立釜利谷高校教諭の坂井久能氏である。

「神道研究」175および176号(平成11年4、7月発行)に、「神奈川県護国神社の創建と戦没者慰霊堂」と題する画期的な研究論文を発表している。

 坂井氏は論文のなかで、神奈川県にはなぜ招魂社または護国神社が創建されなかったのか、とまず問いかけ、3つの理由を挙げている。

 すなわち、

1、明治維新期に、小田原藩とその支藩である山中藩で国事殉難者を出しているが、小田原藩が一時、新政府に反抗したことが影響して、建設に到らなかった

2、招魂社は師団や連隊との関係が深く、その衛戌地に建てられることが多かったが、神奈川では連隊および連隊区司令部は甲府にあった

3、東京の靖国神社に地理的に近い

 ──の3点である。

 ところが、昭和14年、転機が訪れる。招魂社制度が改正され、1府県1社の護国神社創立が許可されたのである。さっそく小田原や、日本最大の軍港を擁し、陸軍重砲兵連隊の衛戌地である、県最大の軍都・横須賀その他が誘致に乗り出した。

 だが、県は横浜を建設地に内定していた。神奈川県会が護国神社造営を承認したのは、昭和14年11月で、ときの県知事は、のちに神祇院総裁となる飯沼一省である。

 境内地の候補は市内12カ所にのぼったが、結局、15年10月、神奈川区三ツ沢町に決定される。

 昭和16年9月に地主や小作人との調印が終わり、2万5千坪の買収が終了する。買収額は11万5351円余。小作人への補償料は1万6198円余。11月には整地作業が始まった。

 造営費は当初50万円と見込まれていたが、当時の新聞報道では、最終的には150万円に達する、と伝えられた。けれども、県は一般から造営費の寄付を特別求めることをしなかった。

 その一方で、整地勤労奉仕や献木運動が県民・市民をあげて展開され、5か月におよぶ整地勤労奉仕にはのべ4万1477人が動員されたという。

 昭和17年7月に神祇院が創立を許可し、同年12月に起工式が鶴岡八幡宮の座田司氏宮司以下15人の神職が奉仕して斎行された。

 工事を請け負ったのは、大阪の山田組である。落札価格は38万5千円という。

 山田組は、嘉永4年創業の社寺専門の建設会社で、ほかに愛媛県招魂社、香川県護国神社、大阪護国神社、岐阜県護国神社、兵庫県神戸護国神社、函館護国神社など多くの護国神社の建設を請け負っている。

 上棟式は18年11月で、やはり座田宮司ほか鶴岡八幡宮の神職が奉仕した。

 神奈川新聞によると、上棟式には近藤県知事ほか行政関係者、軍・警察関係者、工事関係者など多数が参列した。

「白木の香高き社殿作り、聖々とし護国の忠魂を祀るに相応しい幽遠の地に一人森厳さを加えた」

 と記事は伝えている。

 坂井氏によると、戦後、神奈川県神社庁初代庁長や神社本庁調査部長、賀茂別雷神社宮司などを歴任する座田氏が護国神社初代宮司に、鶴見神社の金子勢次社掌が同社社掌に内定していたようだ。

 ところが、資材の調達難などで工事が遅れに遅れ、あげくに竣功を目前にして、20年5月29日の横浜大空襲で、本殿10坪祝詞殿5坪、幣殿9坪、拝殿35坪、社務所100坪ほか護国神社の社殿はことごとく焼失する。

 ただ、『横浜市史』によれば、517機のB29が襲来して、東京大空襲の1・5倍に当たる2571トンの焼夷弾を投下し、7万9千戸が全焼、死者3649人を含む30万人以上が被災し、旧市街地を焼き尽くしたといわれる空襲だが、護国神社炎上の公的記録はなぜかないらしい(『神奈川県神社庁50年史』)。


内山知事が慰霊塔構想を発表
秩父宮妃殿下が慰霊祭御臨席

 坂井氏の論文によれば、戦後、昭和22年6月、県は護国神社の境内地を横浜市に無償で払い下げる。このため同社再建の道は閉ざされてしまう。

 いま護国神社跡地は陸上競技場ほかスポーツ施設が並ぶ三ツ沢公園の一部となり、現代的意匠の横浜市慰霊塔が建っている。その経緯は以下のようなものらしい。

 26年9月に講和条約が締結され、翌年4月に条約が発効すると、公葬の緩和が進み、地方公共団体による慰霊塔建設が全国的に展開されるようになる。

 神奈川県では26年11月に県遺族連合会主催、県市町村後援による「平和条約調印奉告神奈川県戦没者合同慰霊祭」が横浜市鶴見の曹洞宗大本山・総持寺で執行された。

 神奈川新聞にこのときの小さな記事が載っている。橋本厚相ら名士からの花輪が並び、参列した2500余名の遺族は本堂からあふれ、遺族代表の講話奉告祭詞、内山知事らの弔辞、導師渡辺貫首ら僧侶の読経に聞き入ったという。

 その翌年1月、外交官出身で、クリスチャンといわれる内山岩太郎知事は、談話を発表し、慰霊塔を建設し、戦災死者を含めて慰霊するという考えを示した。

 こうして同年5月9日、戦後初の県が主催する戦没者追悼式が横浜の神奈川体育館で挙行された。神奈川新聞によると、佐藤信県遺族会会長や山下大将未亡人久子さんほか遺族2千名、来賓250名が参列した。

 君が代が吹奏され、内山県知事の式辞、県会議長、厚相、衆参両院議長、各市町村代表などの弔辞、佐藤会長の謝辞のあと、御臨席になった秩父宮妃殿下が献花され、51名の各界代表者が続いた。

 ただなぜ「5月9日」なのかは分からない。

 坂井氏によると、その後、慰霊塔建設は慰霊堂に計画が変更される。「横浜市の慰霊塔との競合を避け、塔は宗教色がある……」というのが理由らしい。

 慰霊堂の建設地選定は難航したという。

 9つの候補地があったが、結局、昭和27年7月、真言宗大覚寺派・千手院から無償譲渡の申し出があった横浜市港南区大岡台の境内地約3千坪に決まる。

 現住職の宮本光真氏によれば、先代の光玄住職は「明治生まれらしく意志の強い人だった」。檀家の思わぬ反対もあったが、「命の尊さが分からない者は檀家でなくてもいい」とまで語り、説得したという。

 別名「平和の森」には内山知事の筆による光玄住職の顕彰碑が慎ましげに置かれている。

 慰霊堂は27年12月に着工し、翌年11月に竣功する。建設費用は1591万円余。「神社でも教会でもない」という総檜造り銅板葺き平屋建ての建物が建てられた。

 建坪は51坪余りで、内部には戦没者・戦災死者5万3147柱の合祀者名簿格納棚、県庁に保管されていた無名戦士61柱の遺骨、総持寺や山梨県納骨堂に保管されていた3423柱の遺骨の安置室、遺品や写真などが納められる記念品展示台などが設けられた。

 大岡台の麓に案内板があり、「慰霊堂建立の由来」が記されている。そこには、明治以来、幾多の戦争で戦没した県出身の旧軍人軍属、一般戦災死者、外地死没者など5万7千余柱の御霊が祀られている、とある。


一宗一派に偏らない神奈川方式
追悼奉賛行事は宗教連盟が奉仕

 秩父宮妃殿下の御臨席のもとに、「竣工式並びに昭和28年度秋季慰霊祭」が斎行されたのは、昭和28年11月5日である。

 神奈川新聞によれば、慰霊祭には遺族2700名が参列し、内山知事が祭文を読み上げ、妃殿下が追悼の言葉を述べられた。

 坂井氏によれば、これに先だって、県宗教連盟から県民生部に諸宗合同の奉仕の申し出があった。民生部は「喜んでお受け致し、慰霊祭のより一層の荘厳厳粛を図ると共に、遺族各位に対する感銘を新たにしたいと存じます」と奉仕を依頼し、これ以降、諸宗教合同による祭儀が斎行されるようになったという。

 官民が一体となり、しかも一宗一派によらない神道・仏教・キリスト教合同の慰霊祭が執行されるのは、全国的には異例で、「神奈川方式」と呼ばれている。

 慰霊祭は5月と11月の年2回、開催されてきたが、昭和35年からは「参列する遺族代表が一巡した」との理由で、年1回、5月だけの開催となった。しかしその一方で、毎月5日の月例祭が慰霊堂奉賛会(昭和29年設立。歴代県知事が会長)の主催、県宗教連盟の奉仕で執行されるようになる。

 ほかに、終戦記念日には県遺族会主催の戦没者追悼式が行われる。春の観桜慰霊祭には神輿も繰り出して賑やかだ。

 大きく変化したのは49年で、慰霊堂奉賛会が主催する宗教的祭儀の「奉賛行事」と県主催の非宗教的行事「慰霊祭」とが切り離された。

 國學院大學の大原康男教授は「46年の津地鎮祭訴訟・名古屋高裁違憲判決が影響している」と推理するが、県福祉部生活援護課の担当者は「政教分離裁判が関係していると思われるが、経緯を説明した資料はない」と語る。

 政教分離裁判との関係は必ずしも明確ではないが、箕面市忠魂碑・慰霊祭訴訟で大阪地裁が「違憲」と判断したのは昭和57年3月で、この年から神奈川県主催の「慰霊祭」は「神奈川県戦没者追悼式」と改称されている。

 今年の追悼奉賛行事は9時50分に始まった。

 堂内には所狭しと御饌が供され、供花が飾られている。京都嵯峨大覚寺華道総裁(名代で千手院住職)が献花、戦没者慰霊堂茶道奉賛会が献茶の儀を供し、千手院幼稚園児100名が賛仏歌を歌ったあと、県宗教連盟による祭儀に移った。

 雅楽を奏する天理教の伶人が先導して、神職・僧侶・牧師が入場し、修祓、祝詞奏上(以上が県神社庁)、玉串奉奠(天理教教務支庁)、讃美歌と聖書朗読(県キリスト教連合会)、読経(県仏教会)が行われた。

 神社庁からは濱田進庁長ほか10名が奉仕している。県知事の参列はない。

 続く11時からの追悼式では、国歌斉唱、岡崎県知事の式辞、黙祷のあと、県会議長らが追悼の言葉を述べ、県知事ほかが献花、最後に25名の遺族援護功労者が表彰された。

 今年で55回目を迎えた追悼式の評価は簡単ではない。

 かつて祭典を奉仕したある長老は語る。

「知事は御霊に対してではなく、遺族に向かって話をする。それで、どっちを向いているのか、と県の担当者に問いかけたことがある。遺族はもちろん大事だが、本来あるべき慰霊とはどういうものなのか、を考えさせられた。ただ、続けることには意義がある」

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