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後水尾天皇、苦難の御生涯 ──皇室の弱体化を図った徳川3代との攻防 [天皇・皇室]


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後水尾天皇、苦難の御生涯
──皇室の弱体化を図った徳川3代との攻防
(「神社新報」平成14年3月11日号)
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 平成の御代替わりから早くも十数年になります(この記事は平成14年に書かれた)。この間、日本経済はバブルの崩壊、「失われた10年」を経て、いまなお不況のどん底からはい上がれずにいます。そのうえ政治的、社会的な混迷は増すばかりです。

 そうした中で、「皇室典範」改正の動きが伝えられはじめました。皇室本来の姿を回復しようというのならいざ知らず、伝え聞くところでは、必ずしもそうではないようです。むしろ連綿たる天皇史に根本的改変をあえて加えようというような意図さえ感じられ、神武以来の皇室にとって空前絶後の危機が到来しているのではないか、と憂慮されます。

 そんな時代ならなおのこと、虚心に歴史を振り返り、天皇史の本質を深く祈り求める姿勢が求められるのではないでしょうか。400年前の後水尾(ごみずのお)天皇の苦難の足跡をかえりみる所以です。


▢ お食事さえ事欠く中世末期の宮廷
▢ 家康の干渉に激怒され先帝が譲位


 昭和天皇の御在位は63年の長きにおよび、88年の天寿を全うされました。史上最長の御在位と御長命ですが、昭和天皇に次いで御長命なのが後水尾天皇です。
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 ともに激動の時代を生き抜かれたお二方ですが、後水尾天皇の御在位は、昭和天皇とは対照的に、20年もありません。そこから時代の厳しさと、多事多難の御生涯とが問わず語りによみがえってきます。

 後水尾天皇は慶長元年(1596年)、後陽成天皇の第三皇子として御誕生になりました。母君は関白・近衛前久(さきひさ)の女・前子(さきこ、中和門院)。諱を政仁(ことひと)と申し上げます。時代は、中世が終わりを告げ、群雄割拠する戦国乱世を経て、織豊時代から近世へと移り変わる大変革期でした。

 後水尾天皇の波乱の御生涯には前史があります。

 中世末期の宮廷は、その日の供御(くご、お食事)にさえ事欠く窮乏ぶりでした。奉仕する公家たちも同様で、宮廷行事が延期になることもしばしばだったといいます。

 しかし正親町天皇も後陽成天皇も、そして後水尾天皇も、たとえば、古い書物を書写されるときには、奥書の署名に「従神武百余代孫」とお書きになりました。万世一系の天皇の誇り、下剋上の乱世に成り上がる武断の雄たち、何するものぞ、というお考えであったのだろうと拝察されます。

 それでも信長や秀吉は朝廷の威信回復に努めたのですが、家康は逆に朝廷への干渉を強め、そして事件が起きました。

 慶長13年(1608年)に公家たちと宮中女官たちのスキャンダルが露見しました。密通事件です。天皇が寵愛された女官も含まれていたようです。後陽成天皇は御立腹になり、厳罰を幕府に命じられました。

 ところが、家康は反対しました。むしろ深い仁愛の心で対応される方が皇室の尊厳を守ることになる、と意見したのです。

 天皇は神経質な御性分で、事件以後はますます難しくなられました。そもそも幕府成立を本心からお喜びではなかったといいます。信長は右大臣、秀吉は関白、いずれも文官ですが、家康は征夷大将軍を望んで、幕府を開きました。右大臣では満足しませんでした。

 公家たちの配流が決まったあと、天皇は譲位の機は熟したとお考えになり、15年2月、譲位の意向を示されました。家康は、御判断に従うけれども、皇位は政仁親王に継承されるべきだ、と申し述べた。

 けれども折悪しく、同年閏2月、家康の女・市姫が亡くなります。家康が寵愛するお勝局の子で、家康の悲しみはただなりません。そこで御譲位の延期を申し上げるのですが、天皇はいよいよお怒りになります。家康は朝廷よりも自分の娘の方が大事だ、と映られたようです。

 12月、15歳になられた政仁親王に元服加冠のことがあり、翌16年3月、後陽成天皇は譲位されます。こうして朝幕対決の多難の時代に、後水尾天皇は即位されました。


▢ 「公家衆法度」で朝幕関係逆転
▢ 朝廷を軽視する幕府に激怒され

 2年後の慶長18年6月、徳川幕府は5カ条からなる「公家衆法度」を制定します。それまでも武士を取り締まる法律はありました。しかしそもそも法律はすべて朝廷が制定されるもので、武士には立法権はありませんでした。ところが、幕府は勝手に法律を定め、逆に朝廷側に遵守を命じました。朝幕関係が逆転する新事態です。

 同じころ家康は朝廷崇敬の意向を天下に演出しようとして、秀忠の女・和子の入内(じゅだい)を推し進めていました。後陽成天皇は歴史始まって以来の未曾有の沙汰だ、と容易にはお認めになりませんでしたが、家康は強硬でした。「公家衆法度」が制定されたのはそんなときでした。

 この法律は朝廷から幕府に申請があったとき、はじめて効力が発生しました。したがって五摂家などから幕府に申請がないかぎり、死法同然でした。しかしそれでも、武士が朝廷を法的に規制すること自体が、まぎれもなく驚天動地の暴挙でした。

 翌19年、大坂冬の陣が始まります。家康は天皇に対して、豊臣秀頼を征伐すべし、という綸旨(りんし)を賜りたい、と願い出ました。しかし後水尾天皇は文書をお出しになりません。家康は激怒し、400年前の承久の変にならい、天皇を隠岐(おき)にお遷(うつ)し申そう、とまで語った、と伝えられます。

 20年5月、大坂夏の陣。大坂城は落城し、秀頼母子は自害しました。もうもうと煙が立ち上るのが宮廷の高楼から見えたので、宮中は騒然となります。朝廷は豊臣方に同情を寄せ、徳川方への反感はいよいよ募られました。

 同年7月、元号は「元和」と代わります。「禁中並公家諸法度」17条が発布されたのは、改元から数日後のことです。「公家衆法度」とは異なり、朝廷の意向にかかわらず、法の遵守を強要する内容で、しかも法のおよぶ範囲は「禁中」にまで拡大されました。

 古来、日本では天皇の御意向が法律であり、天皇と法は同格でした。ところが「諸法度」は天皇の御位を武家が制定する法の下位に置きました。そしてその「第一条」は、天皇のお勤めは学問である、と規定し、和歌が天皇の学問だとして、天皇の政治不関与を要求したのです。

 こうした幕府の姿勢は間違いなく、後水尾天皇には、皇室の尊厳を蔑ろにするもの、と映られました。大阪府の北東部、三島郡島本町に鎮座する古社・水無瀬宮が所蔵する後水尾天皇の宸筆(しんぴつ)に、そのお心がしのばれます。

 水無瀬宮は後鳥羽天皇をお祀りしています。この地にはその昔、後鳥羽天皇の別宮があり、同帝は行幸のおり、「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」とお読みになりました

 北条氏の横暴ぶりを憎まれて挙兵し、失敗されて隠岐に遠流となられた後鳥羽天皇、そして「歌聖」と称えられた同帝に御心を寄せられた後水尾天皇は、求められるままにこのお歌を宸翰(しんかん)されたのですが、最後の「けむ」を「剣(けん)」とお書きになりました。

 軍事に関することを避けられるのが天皇の帝王学ですから、ただならないことでした。後水尾天皇は目には見えない剣を持たれて、幕府と激闘された、ということでしょうか。


▢ 有史以来未曾有の和子入内
▢ 紫衣勅許問題がこじれ譲位

 元和2年(1616年)、家康薨去。しかし幕府との対峙は終わりません。

 家康が生前、計画した秀忠の女・和子、のちの東福門院の入内は秀忠に受け継がれました。同5年に秀忠が上洛すると摂関家たちは入内の準備を進めます。しかし逆に、秀忠は事態を申し入れました。後水尾天皇にすでに寵妃があり、しかも皇女が生誕されたことが判明したからです。御婚儀以前に寵愛する局のあることは古来、宮中では珍しくありませんでしたが、秀忠は風儀の乱れ、と怒りました。

 一方的な批判に宮中はあわてます。和子入内は一時延期となり、尊位の面目は失われました。後水尾天皇は落髪、譲位の御意向さえ告げられました。公卿たちは秀忠の非道を禁中の片隅でささやきました。

 もちろん秀忠の本心は破談ではありません。翌6年、和子は輿80丁、騎馬と歩行の衆5000人という華麗きわまる行列を整えて江戸を出発しました。

 京都で出迎えたのは、勅使ではなく、女官です。それが「武士の女」に対するしきたりで、御輿の内部をのぞき込んだ女官は「可愛らしいお女中ね」とつぶやきました。幕府に対する精一杯の反意として語り伝えられています。

 同9年、皇女降誕。和子は中宮に冊立します。中宮冊立は源平の御代以来中絶していたことでした。その後も明治の「皇后冊立」にいたるまでありません。

 やがてふたたび事件が起こり、後水尾天皇の譲位が導かれます。

 当時、「紫衣(しえ)の勅許」ということがありました。紫衣は仏僧にとって最高の名誉です。財政的に窮乏する宮中は、寺院の求めに応じて、献納金と引き替えにこれを許しました。弊害はありましたが、背に腹は代えられない金利の苦しい事情がありました。

 他方、寺院・僧侶の取り締まりを強化する幕府は慶長18年、「紫衣法度」を制定します。「公家衆法度」制定と同じ日でした。紫衣の許可はまず幕府に申告され、吟味の上、勅許を受けることとなりました。天皇の栄誉権を取り上げ、実権を握ろうとしたのです。

 さて、寛永3年(1626年)、天皇は二条城に行幸になります。このとき準備に関わった金地院崇伝は「寺院諸法度」の実施状況を取り調べ、大徳寺、妙心寺など元和以後の紫衣勅許はすべて認めがたい、として、取り消しを要求しました。

 綸旨(りんし)を取り消すとは前代未聞。お怒りの後水尾天皇は東福門院の御腹である、生後間もない皇太子高仁親王への譲位を告げました。外戚の地位を夢見る秀忠はここぞとばかりに譲位の準備を始め、同5年、仙洞御所の御造営に取りかかります。

 同年、高仁親王の御不例、帰幽で、幕府は譲位の準備をいったん中止せざるを得なくなりますが、沢庵禅師ら寺院側が紫衣問題で幕府に反論を提出し、逆に配流の処分を受けると、いよいよ天皇のお怒りは増しました。

 幕府は御機嫌うかがいのために朝廷に使いを送ります。しかしその使いたるや家光の乳母で、宮中のしきたりを無視する人選でしたから、かえって火に油を注ぐことになります。

 将軍の乳母を武家伝奏・三条西実条(さんじょうにし・さねえだ)の妹に仕立て上げ、「春日局(かすがのつぼね)」と名乗って参内し、天盃まで賜るのは6年10月。積年の非礼は忍びがたく、同月、後水尾天皇は女一宮、御年7歳に内親王を宣下し、翌月、突如、退位されます。御三十三。東福門院を母とする明正天皇、9世紀ぶりの女帝がこうして即位されます。

「史上、8人10代の女性天皇が存在する」ことをもって、今日では女性天皇を容認しようとする動きがありますが、歴史の事実はそう単純ではありません。


▢ 円熟ましました後半生
▢ 争うことを捨てる帝王学

 女性天皇が登極になるのは推古女帝以来、つねに国家存亡の危機の時代です。また女帝は摂位に近いお立場で、皇太子成人ののち譲位されることが前提とされました。

 明正天皇もその先例に違わず、即位の3年後、すなわち将軍秀忠薨去の翌年、後水尾院に第四皇子が生誕になり、寛永20年(1643年)、11歳に達せられると、弟君に譲位されました。

 慶安4年(1651年)、家光薨去。後水尾院はにわかに落飾されます。これまた幕府の不遜な対応に激憤されてでした。

 前半生を幕府との激しいつばぜり合いの中で過ごされた後水尾院ですが、後年はさすがに円熟されました。後光明天皇への御訓戒の宸翰(しんかん)にそのことがうかがえます。

 ある御消息にはこう書いてあります。

「帝位にそなわっているという御心があれば、知らず知らずのうちに傲慢になり、人の言葉に耳を傾けなくなるものだから、十分に気をつけて、慎むことが肝要である」

 また「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」として、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることが明記されています。

 さらに「御芸能のことは和歌第一」と、和歌を稽古されるよう戒められています。後光明天皇は和歌より漢詩をよくされ、儒学に傾倒されました。父親として御心配になったのでしょうか。

 日本浪漫派の文人・保田與重郎が「広大無辺な大詩人」と形容しているように、後水尾院は歌道を精進され、「百人一首御抄」「詠歌大観御抄」「三十六首花歌仙」など、歌道に関する著述を数多く残されました。

「禁中並公家諸法度」の第一条は、天皇の御務めを「御学問」「和歌」としました。後水尾院こそは幕府の法律をもっともよく守られたのです。

 後水尾院は皇室の弱体化を陰に陽に図ろうとする幕府の策謀は百も承知の上で、争うことを捨て、僭越・非道の幕府の措置に従容と従い、平安の境地にまで御自身の御心を磨かれるという至難の帝王学を実践され、そして皇室の尊厳を守られました。これこそ真の偉大さというべきでしょう。

 百人一首の99首目は後鳥羽院の御製「人もおし人もうらめしあちきなく 世をおもふゆゑに物思ふ身は」ですが、その御講釈にはこう書かれてあります。

「とかく人間は不思議なものじゃ。天下の民をやすいようにと思し召せば、かえってそうもならぬ」

 後鳥羽院四百回忌の追善に、後水尾院は次のように詠まれました。

こひつつもなくや四かへり百千鳥 かすみへだててとほきむかしを

 後水尾院は勅使を隠岐島へ御差遣になりました。天下の民をやすいようにと思われて、御志と反して、かえって遠流の身となった後鳥羽天皇への御思いは浅からぬものがおありだったのでしょう。

 天皇の統治は文治であり、徳治です。その天皇統治の本質を、後水尾院は御生涯を通じて、武の覇者である徳川氏に示されました。その点、徳川光圀が『大日本史』を編纂するに当たり、後水尾院の勅許を賜っていることは象徴的です。後水尾院の御志はやがて明治維新の源流となったのです。
(参考文献=辻善之助『日本仏教史』『日本文化史』、『中村直勝著作集』、熊倉功夫『後水尾天皇』など)

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空花正人

眞に良いお話です。
by 空花正人 (2021-05-22 23:56) 

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