神道人が体験したシベリア抑留 ──封印を解かれたロシア公文書 [戦争の時代]
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神道人が体験したシベリア抑留
──封印を解かれたロシア公文書
(「神社新報」平成15年8〜9月)
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▢1 極秘決定
今年(平成十五年)一月、小泉・プーチン両首脳がモスクワで会談した際、小泉首相は「ソ連が日ソ中立条約を破り参戦した結果、六十万人の日本人がシベリアに抑留され、六万人が現地で亡くなった」と語った。プーチン大統領はただ黙って聞いてゐたと伝へられる。
ソ連では戦後抑留は国家機密であったから、事実さへ知らされてこなかった。日本では抑留生還者たちの苛烈な体験談は汗牛充棟のごとしだが、「壮大な拉致犯罪」ともいはれるその全体像は必ずしもつまびらかではない。
しかしソ連崩壊後、ロシアでの歴史研究が進み、鉄のカーテンの背後で展開された不法がいま徐々に全容を現しつつある。
ロシアの公文書に基づいて、戦後抑留の実像を初めて学術的に明らかにした、ウクライナ軍中央博物館長ヴィクトル・カルポフの『スターリンの捕虜たち』によると、死者は「六万人」どころではない。ソ連領内だけで六万六百七十人、周辺のソ連支配地域で三万千三百八十三人、計九万二千五十三人。うち最初の一年間で五万千百六十三人がソ連内の収容所で死亡した。
しかしカルポフは、これとて正確ではないといふ。もともと「捕虜」の数さへ十分には把握できてゐないからだ。
捕虜の抑留・使役は国際法上、明らかに違法で、ポツダム宣言も「武装解除後の家庭復帰」に言及してゐる。それなのになぜ悲劇は起きたのか。
▽参戦は既定事実
独裁者スターリンは一九四三(昭和十八)年十一月に対日参戦を決断、テヘラン会談で米英首脳に参戦を約束した。四五年四月には日ソ中立条約の不延長を日本に通告する。
日本はソ連に和平仲介を期待してゐたが、参戦は既定事実で、戦時態勢の準備は整ってゐた。日本の壊滅、満洲・朝鮮の「解放」、樺太南部・千島の「奪還」が参戦の目的であった。北海道北部占領どころか、首都上陸、日本全土での軍事行動も計画されてゐた。
八月八日午後五時、モスクワで外務人民委員モロトフが佐藤尚武大使に宣戦を布告する。このとき極東のハバロフスクは九日午前零時、ソ連軍は電光石火、大規模攻撃を開始し、満洲奥深くまで侵入する。
頑強な抵抗むなしく壊滅する日本軍部隊もあった。非戦闘員の犠牲も生まれた。
▽思召しに従ひ
十四日の御前会議で、日本は「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定する。翌十五日正午には玉音放送。昭和天皇御親ら終戦を告げられた。
満洲の前線では十六日朝、大本営指令に基づく関東軍司令官山田乙三大将の停戦命令が届いた。
「天皇陛下の思召しに従ひ、万策を尽くして停戦を期する」
日本軍は陛下の御命令により、陛下の御意思を遂行するために、自発的に武装解除した。従って「捕虜」ではない。
しかしソ連側の認識は違ってゐた。それどころか「関東軍は降伏命令を受け付けず、猛烈な反撃を続けてゐる」とウソで固めて、独裁者は進撃の号令をかけた。
「日本野郎を叩きのめせ」
十八日午後、第一極東方面軍司令部で、極東方面軍総司令官ワシレフスキー元帥と第一極東方面軍司令官メレツコフ元帥は「敗軍の将」関東軍参謀長秦彦三郎中将に、武装解除や兵器の引き渡しなどを厳しく指示する。指示はモスクワの決定に基づいてゐた。ソ連政府は「軍事捕虜を武装解除の地で収容する」と決めてゐた。
秦中将は民間人保護について約束を取り付けたほかは、「勝者」の思ふままに任せた。
「捕虜」の受け入れは全方面軍で九月十日に完了した。戦闘行動の過程で四万千百九十九人、残り六十万人は日本軍降伏後の受け入れだが、すべて「捕虜」とされた。九月三日は「対日戦勝記念日」と決められた。
▽「借りを返す」
カルポフによれば、この時点では、「捕虜」をソ連領内に大量移送して労働力に使ふつもりはなかったといふ。軍司令部にはその扱ひについての明確な方針はなかった。
シベリア送りを決めたのはスターリンである。八月二十三日、独裁者は「五十万人の日本軍軍事捕虜の受け入れ、配置、労働使役について」と題された「国家防衛委員会決定No.九八九八(極秘)」に署名する。
このときスターリンはかう語ったといふ。
「日本軍は革命後の国内戦の際、ソ連極東をかなりの期間、支配した。その借りを返すときだ」
その脳裏にはシベリア出兵のみならず、日露戦争敗北といふ積年の恨みを晴らす「復讐」の二文字があった。しかし抑留の要因はそれだけではない。
▢2 ラーゲリ(強制収容所)
独裁者スターリンの極秘決定に基づき、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は方面軍に命令した。
「日本人捕虜を五十五の作業大隊に編成せよ。ソ連領収容所に出発するため集結地に集めよ」
一九四六(昭和二十一)年九月、「捕虜」とされた日本人抑留者は集結地に集められ、順次、内務人民委員部の収容所に移送された。
「抑留」の目的は何だったのか。『スターリンの捕虜たち』の著者、ウクライナ軍中央博物館長ヴィクトル・カルポフによれば、「ソ連極東地域発展のための論理的帰結」だといふ。
戦争でソ連経済は疲弊してゐた。なかでも米ソ対立の最前線に躍り出た極東の復興は焦眉の急で、軍事的強化の必要にも迫られてゐた。しかし戦争で人口が減り、国内に人的余力はない。抑留日本人の安価な労働力で打開しようと目論んだのだ。
▽強制労働と洗脳
ソ連領への移送は秘密で、数人の軍司令官以外は知らなかった。日本人は「トウキョウ・ダモイ(日本に帰国させる)」「ソ連へ一年間働きに行く」とその場しのぎのウソで誤魔化され、シベリアに送られ、石炭採掘や木材伐採などに従事させられた。
第二シベリア鉄道の線路は零下三十~四十度の酷寒の中で、抑留者が命と引き替へに敷いたのだ。枕木と同じ数の抑留者が亡くなったといはれる。
収容所生活は苛烈をきはめた。戦争中、ソ連は生産力が低下し、食糧不足に見舞はれた。国民にさへ十分に食糧を供給できない状況であった。強制労働、シラミや南京虫、さらに四六年の冬は猛烈な寒波がシベリアを襲った。
健康状態が急激に悪化し、死亡者が急増、収容所によっては二人に一人が死亡するといふ惨状を呈した。防寒具もなく、夏用のテント暮らしでどうして生き残れようか。遺体は、収容所長の「ぶん投げろ」といふ命令で、遺棄された。
生き残った者たちをさらに苦しめたのは政治工作だ。それは抑留当初から、洗脳機関紙『日本新聞』の発行とともに始まった。やがて抑留者の日本送還が始まると、政治工作は活溌化した。東欧にはソ連の軍事力によって衛星国家が誕生してゐたが、祖国に帰国する抑留者は日本を「民主化」するための政治的侵入軍の役割を担ってゐた。
▽「人民の敵」を弾圧
しかし抑留者の大多数はなほ戦意旺盛で、日本の降伏を認めたがらなかった。「日本の侵略」といふソ連の宣伝を受け入れず、天皇はあくまで神聖な存在であり続けた。「捕虜」といふ決定的な立場におかれながら、決して精神的に屈服しなかった。
スターリンの「弾圧」「粛正」で数百万の罪なきロシア市民が闇から闇へと消えてゐたソ連社会で、日本人の「抵抗」は現実に起きてゐた。
そこで抑留者は「送還」「残留」「反動」にふるひ分けられ、四七年に入ると抵抗者は弾圧されるやうになる。「民主運動」と称する収容所内の洗脳に抵抗する「人民の敵」は重労働を課され、帰国を遅らされた。
日本人将校は兵士の指揮から解任され、「民主主義派」の若いアクチーブ(活動分子)に代へられた。「反ソ」「反動」派が暴き出され、特別規制収容所に隔離される。「民主派」の兵士が決定権を持ち、将校の権威は失墜した。
四八年頃になると、ソ連領内九万人の抑留者はもはや、ソ連の政治将校とその助手であるアクチーブの政治的感化の下にあった。皇居遙拝をしなくなり、「天皇が権力にとどまるなら、日本はふたたび侵略政策に戻るだらう」と天皇批判を唱へるやうになる。
一方で日本共産党の活動が宣伝され、帰国後の入党が呼びかけられた。
▽洗脳されざる精神
四九年夏には「スターリンへの感謝文」に集団で署名する運動なるものさへ起きる。このころの帰国者はナホトカで乗船前に大衆集会を開き、スターリンに感謝し、革命歌を合唱した。
しかしやがて「反動派」とされた抑留者にも送還の順番が回ってくる。洗脳に屈せず、日本の軍人としての誇りを堅持し続けた将校たちの精神は、ソ連当局者を悔しがらせた。
カルポフは語る。
「軍人の誇りと伝統は、日本人将校および軍務に忠実な兵士の胸中にのみ保たれた。抵抗の規模は小さく、ダイナミズムに欠けてゐた。けれども抵抗が存在した事実は日本の軍旗への敬意を抱かせた。数百年にわたって形成された日本人の民族感情は短期間に消えはしない」
▢3 ダモイ(帰国)
スターリンは一九四六(昭和二十一)年十月四日、政府決定No.二二三五-九二一(秘)「日本人軍事捕虜と抑留民間人のソ連からの本国送還について」に署名する。
ポツダム宣言に基づいて、アメリカは抑留者の早期送還を執拗に要求した。加へて前年冬の抑留者の高い死亡率、ソ連の対日接近政策と対日平和条約締結問題が、独裁者に決意を促したといはれる。
抑留者の本国送還に関する米ソ協定が締結され、「各人の希望」「全費用は日本政府が負担」といふ条件で、帰国が始まる。最初の船は二十一年十二月五日、樺太から函館に入港した。
ある資料によれば、帰国者は二十一年五千人、二十二年二十万八百四十五人、二十三年十六万九千六百一人、二十四年八万七千二百二人、二十五年七千五百四十七人、二十六年〇人、二十七年〇人、二十八年八百十一人、二十九年四百二十人、三十年百六十七人、三十一年千二百九十一人と続いた。ピークは二十二年、朝鮮戦争中は中断した。
▽冤罪の挙げ句に
「毎月五万人」のペースと決められてゐた送還は、遼東半島と北朝鮮からを除いて、四七年には早くも滞る。理由はソ連の国内事情である。
本国送還局は国境警備隊長に「九十七万八百五人(うち捕虜四十六万八千百五十二人)が本国送還されるべきだ」と通告してゐたが、東部地区の水産省は「年末まで中止」するやう依頼した。代はりの労働者と技術者がをらず、日本人を帰国させれば、長期操業停止に陥るからである。それほど東部地区の経済は抑留者の労働に依存してゐた。
ソ連内務省から「人民の敵」と宣告され、本国送還から外された日本人は少なくない。
七三一部隊(石井部隊)の指揮官、張鼓峰事件およびノモンハン事件の「仕掛け人」、満洲国協和会の指導者、収容所内で敵対的行動をした者、満洲国および大日本帝国の政府指導者。さらに抑留中に「犯罪」を犯したとして有罪判決を受けた者は刑期満了まで残された。
ほとんどは濡れ衣といはれるが「犯罪者」の探索は当然、帰国の遅延を導いた。
四九年二月にソ連閣僚会議は「もはや捕虜はソ連経済に特別の利益をもたらさない」と考へ、「年内全員帰国」を決定した。けれども「ソ連に対して罪を犯した捕虜」と見なされた抑留者は残留させられた。
近衛文麿首相の長男文隆氏のやうにでっち上げ裁判で監獄をたらひ回しにされた挙げ句、薬殺された悲運の抑留者は少なくないといふ。
▽スターリン死す
日本送還を遅らせる理由はほかにもあった。日本共産党の党員になる共産主義者の養成である。
四九年ごろ、送還収容所で開かれる別れの大衆集会では、演壇にレーニン、スターリンとともに徳田球一の肖像が飾られ、代表者が「祖国に着いたら、日本の民主制のために闘ひ、反ソ宣伝と闘ひ」と挨拶した。乗船時には革命歌が歌はれ、「スターリン万歳」が叫ばれた。
五〇年四月、ソ連政府はタス通信を通じて「日本人捕虜の送還完了」を発表する。しかしこのとき「戦犯」二千四百五十八人が残留してゐた。
そのうへ政権樹立から間もない共産中国の撫順戦犯管理所には、スターリンから毛沢東に引き渡された軍人や満洲国高官、憲兵など九百六十九人が収容されてゐた。
五三年三月、独裁者スターリンが死ぬ。三カ月後に朝鮮戦争が停戦。ソ連政府が受難者たちに帰国の道を開くのは九月である。
五六年十月十九日、国交回復に関する日ソ共同宣言が調印された。ソ連は交渉過程で「国交回復直後、全戦犯を引き渡す」と表明し、千十六人の「捕虜」と三百五十七人の民間人のリストを提示した。批准書交換の翌十二月十三日、最高会議幹部会は「戦犯釈放、帰国許可」の法令を発する。
そこに盛り込まれた「人道主義の原則に則り」の言辞が空しく響く。後宮淳大将ら最後の日本人千四十人が送還されるのは十日後である。
▽ウラジオ遺骨収集
平成三年四月、三万八千人分の抑留死歿者名簿を携へて、ゴルバチョフ・ソ連大統領が来日する。同年暮れにソ連崩壊。二年後の五年十月に来日したエリツィン・ロシア大統領は口頭ながらシベリア抑留を「全体主義の悪しき遺産」「非人間的な行為」と謝罪した。
プーチン現政権に代はり、いま日露関係は大きく変はらうとしてゐる。今年六月には、軍港ゆゑに従来立ち入りが制限されてきたウラジオストクの日本人墓地を、川口外相が墓参に訪れた。八月末にはこの町で初の遺骨収集がおこなはれた。
シベリア抑留とは何だったのか。近衛文麿首相の長男の抑留悲話を描いたノンフィクション『プリンス近衛殺人事件』の翻訳者・江戸川大学の瀧澤一郎教授は語る。
「ロシアがいふやうな『日ソ戦争』などは存在しない。『戦犯』もでっち上げで、『疑似裁判』で濡れ衣の『スパイ罪』を適用され、過酷な虜囚生活を余儀なくされ、落命した人もゐる。ヒトラーの蛮行もかすむ二十世紀最大の残虐行為」
靖國神社には戦病死した抑留者たちも祀られてゐる。(参考文献=アルハンゲリスキー『プリンス近衛殺人事件』、カルポフ『スターリンの捕虜たち』など)
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