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話題 ベトナム議事堂建設現場から古代遺跡出土。阿倍仲麻呂ゆかりの王城か [天皇・皇室]

以下は「神社新報」(平成15年11月10日)からの転載です


話 題
ベトナム議事堂建設現場から古代遺跡出土
──阿倍仲麻呂ゆかりの王城か


あまの原ふりさけみれば かすがなるみかさの山にいでし月かも

 『古今和歌集』の注記には、遣唐使として中国大陸にわたった阿倍仲麻呂が望郷の思ひ断ちがたく詠んだと伝へられる、とある。

 仲麻呂は唐の文官となり昇進した後、帰国途中に遭難して、ベトナムに漂着。その後、唐がベトナム地域を治める最高ポストにも任じられた。

 その統治機関が置かれてゐた王城ではないか、と目される広大な遺跡がハノイの国会議事堂建設現場から出土した、と九月末、報道された。遺跡は百四十㌃とベトナムでは過去最大。発掘された遺物は龍や鳳凰の彫刻や銅銭など、じつに四百万点。中国・隋、唐の時代から現代にいたるまでの各時代の遺構群が重層的に重なってゐるといはれる。


 十九歳で唐に渡り
 玄宗に重用される

 仲麻呂は文武天皇二年(六九八)、中務大輔・阿倍船守の長男として、大和国に生まれた。秀才の誉れ高く、十九歳で第八次遣唐使の一員となった。

 吉備真備とともに都・長安(いまの西安)に到着後、最高の教育機関といはれる太学に学び、日本人ながら超難関の官吏登用試験・科挙に合格。第六代皇帝・玄宗(六八五~七六二、在位七一二~七五六)の厚い信頼を得、唐の高等官として重用された。

 在唐三十六年、五十六歳のとき、第十次遣唐使の日本帰国時に、中国側の使節としてやうやく同行が許される。冒頭の歌は出港する長江南岸の港で詠んだと伝へられる。


 ベトナム北部漂着
 つひに帰国できず

 しかし仲麻呂は結局、日本に帰国できなかった。

 沖縄から奄美に向かふ途上、暴風雨に遭遇するのだ。仲麻呂らの要請で渡日する鑑真を乗せた第二船はこのとき無事、日本に到着するが、遣唐大使を務める藤原清河や仲麻呂らを乗せた第一船はベトナム北部に流れ着く。

 一行は盗賊に襲はれるなどして百七十人余りが死亡したが、仲麻呂と清河は奇跡的に生き抜き、長安にたどり着いた。長年、交友のあった有名な唐の詩人・李白は、仲麻呂の遭難を嘆く七言絶句「晁卿の行を哭す」を詩作したほどで、長安への帰還は人々を大いに驚かせたといふ。

 玄宗が亡くなった後、仲麻呂は皇帝直属の諫官で従三品の左散騎常侍に昇進する。さらにベトナム方面の最高ポストとされる鎮南都護、安南節度使(正三品)に任じられ、最後は潞(さんずいに路)州大都督(従二品)にまで上り詰めた。


 明らかになるか
 ベトナム交流史

 仲麻呂は日本に帰国することなく、宝亀元年(七七〇)、長安で歿する。『続日本紀』には、その九年後に来日した唐からの使ひによって死去が伝へられ、光仁天皇には没落して葬礼もままならない仲麻呂の遺族に「東絁(糸偏に施の旁)百疋、白綿三百屯」を賜ったと記されてゐる。

 ベトナムの林邑楽は雅楽の一源流であるなど、同国は古代から深い関係があるにもかかはらず、情報や知識は限られてゐる。今回の発掘をきっかけに、いままで知られなかった交流史が明らかになるかもしれない。
 

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