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「家づくりは人づくり」日本の伝統建築を甦らせたい──「大工育成塾」開塾から1年 [人物]

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「家づくりは人づくり」日本の伝統建築を甦らせたい
──「大工育成塾」開塾から1年
(「神社新報」平成16年10月4日号)
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 日本の伝統的な木造建築の担ひ手、大工職人を基礎から育て上げる「大工育成塾」が昨年(平成15年)十月に開塾した。住宅に関する意識向上を推進する(財)住宅産業研修財団(松田妙子理事長)の一事業で、国土交通省の国庫補助を受ける国家プロジェクト。

 だが、単なる職業訓練ではない。塾長の松田氏は次代の匠をめざす若者たちに熱いメッセージを贈る。

「よい住まひとは家族の幸せの容れ物です。家づくりは人づくり、国づくりでもあります」

「よい住まひ」とは何かを長年、追求してきた松田氏には、地域と風土に適合した家づくりを通して、日本の教育を立て直し、国を再建しようといふ気宇壮大な目的がある。


▢ 職人を育てる国家プロジェクト

 柱や梁などに木材を用ゐる日本伝統の木造住宅は、日本の気候風土に適してゐる。襖や障子、引き戸で間取りを自由に変へたり、増改築が容易であるなど空間的な融通性に富み、意匠も美しい。

 家族が互ひに気遣ひながら暮らすといふ、和を重んじる日本的な住まひ方ができるし、由緒ある神社の木造建築の堅固さを見れば明らかなやうに、樹齢五百年の木を使へば五百年間持ちこたへる建物を造ることもできる。


▢ 「給料を払へない」

 ところが、多くの長所を持つ木造建築は戦後、影を潜めた。

 戦災と人口急増などで住宅供給が絶対的に不足したこともあって住宅の工業化が進められ、洋風化が進み、合理的で独立性の高い住宅が供給された半面、歴史的にかけがへのないものが失はれた。

 外国の建築家が、優れた建築技術を日本人はなぜ捨てたのか、と不思議がるほど、ショートケーキにチョコレートをまぶしたやうな、「真の日本の住まひ」とはほど遠いイミテーション住宅が横行してゐる。住宅不足が解消された今日、地域に根ざした伝統的な住まひづくりに立ち返る必要がある。それが松田氏の信念だ。

 けれども伝統を復活させようにも、高度な技術と技能を持つ匠たちは高齢化し、技術の継承が年ごとに困難になりつつある。国勢調査によると、この二十年間に大工は三十万人も減り、いまや六十万人台。

 それだけではない。十年前、松田氏はある棟梁に、

「せっかくの技術なのに、若者に伝へたいと思はないのか」と聞いたことがある。

「弟子に給料を払ふだけの余力がない」

 寂しい答へが返ってきた。貴重な文化が廃れる。強い危機感が松田氏を決意させた。


▢ 三年間で一人前に

 塾の研修期間は三年。従来の徒弟制度では一人前になるのに十年かかってゐたが、集団で学ぶ講義と個別に指導を受ける現場修業の二本立てで効率化を図ってゐる。

 講義は東京、大阪、名古屋、福岡の各講義会場で、一泊二日の日程。三年間に七十日程度の合宿で、教科書を用ゐ、大工技術・技能の習得に必要な心構へ、知識、理論などを一流の講師陣から学ぶ。大先輩から職人魂や職人の役割、振る舞ふ方などの体験談を聞く「職人学」の講義もある。塾は匠の技と心を教へようとしてゐる。

 現場の実技指導は、塾生の居住地に近い工務店で、ほぼ毎日、おこなはれる。経験豊かな棟梁による一対一の研修を通じて、「規矩術」「墨付け」「板図・尺杖」から「切り組・造作」まで、基礎的技術の指導を受けるほか、省エネルギーやシックハウス対策など現代的な要求に応へられる基本的な技術を習得する。

 昨年(平成15年)十月の第一期生には百四十八人が応募。書類審査や面接で五十人に絞られた。ほとんどは二十代前半までの若者。無関係の職種やフリーターからの転向組もゐる。

「モノ作りが好き」

「小さいころからの憧れの職業」

 など動機はさまざまだ。今年四月には二期生九十七人の入塾式がおこなはれた。今年は女性五人が加はった。


▢ 百年の時空を超えて

 大学の建築学科を首席で卒業したあと、「大学院に行くつもり」で門を叩いてきた学生もゐる。日本建築を学ぼうにも、明治三十四年(一九〇一)以来、日本には教へてくれる大学がない。

 明治の宮大工・木子清敬が十二年間、帝国大学で講義を担当してゐたが、西欧建築のうねりで教壇を去らざるを得なかった。それから百年の時空を超え、日本の木造建築を担ふ匠の育成を政府が支援することになった。

「真の日本の住まひ」とは何か。塾は七つの理念を打ち出してゐる。

①日本の伝統・文化を受け継ぎ、人格形成の場となる住まひ、

②地球環境を大切にした住まひ、

③高齢者や身障者が自立して暮らせる住まひ、

④生命を守る住まひ、

⑤病気を作らせない住まひ、

⑥財産を守る住まひ、

⑦気候・風土を活かした住まひ、

 の七項目。

 開塾と同時に、「真の日本のすまひ」設計コンペも開催。「循環型社会にふさはしく、地域に根ざし、人づくりや家族の幸せづくりにもつながる美しい住まひ」といふ課題に、全国の建築士などから二百件を超える応募があった。

「大工は住まひづくりの志士です。塾で学ぶ大工が、日本の伝統文化の再生を担ひます」

 十年間で千人の大工を育てるといふ試みが、日本建築の新たな潮流を作らうとしてゐる。


▢ 夢を追ひ続ける松田妙子

 松田氏が大工育成塾を開塾したのには、もう一つの大きな理由がある。戦後の教育の荒廃と少年犯罪の増加に対する深い痛みである。

 二十年も前のこと、都心の閑静な住宅街で、塾帰りらしい小学校低学年の少年と行き会った。半ズボンの「社会の窓」が開いてゐる。

「坊や、ジッパーが開いてるわよ」

 少年はお礼どころかにらみ返し、

「スケベ婆ア」と悪態をついた。

 衝撃だった。裕福な育ちのやうだが、年長者に対する態度や言葉遣ひをしつけられてゐない。どんな日常を過ごしてゐるのか。この少年の二十年後はどんなだらう。


▢ 非行を生む子供部屋

 子供の非行は住まひのあり方と関係があるのではないか。そんな仮説を立てて、凶悪犯罪で補導された少年少女七百人の家庭環境を調べた。すると案の定、ほぼ全員が自室を持ち、五十人に一人は何と冷蔵庫まで自室に備へてゐた。

 いま国民の三分の二以上が持ち家に住んでゐる。中流以上で両親は高学歴、母親は専業主婦。そんな家庭で引きこもりや家庭内暴力、果ては少女監禁事件などが起きてゐる。かつては予想もしなかったやうな事件は密室の子供部屋で起きてゐる。家を建て、子供に個室と鍵を与へたが、親子は会話を失ひ、しつけができず、断絶してゐる。

「家をつくって子を失ふ」

 戦後の子供本位の住まひ方は誤りだ。家庭教育や家族のきづなを取り戻すためには、子供部屋の見直しが必要だ。「子供部屋は文明の凶器」と警鐘を鳴らす。

 松田氏は昭和二年、東京に生まれた。父は社会事業家で、衆院議長・文部大臣などを歴任した松田竹千代氏。

 女学生のとき

「米国に行きたい」と母親に話したら、

「社会の役に立つことを学ぶのなら」といはれ、

「テレビしかない」と思った。

 街頭テレビがやうやく出始めたころだが、テレビの影響力がいづれ各家庭を席捲すると確信してゐた。ハリウッドに近い南カリフォルニア大学でテレビ番組の演出を学ぶ。

「日本に関するテレビの情報はデタラメ。私を雇ってくれたら……」と三大キー局の一つNBCテレビの創設者に手紙を書いた。卒業後、同社のプロデューサーになった。

 三十四年に帰国。渡米時とは比較にならないほど日本経済は発展してゐた。日本の姿を正確に米国に知らせたいと考へ、PR会社を設立。PRといふ言葉さへ知られてゐない時代に「米国一の写真家」ユージン・スミスを呼んだ。

「日本の経済成長を撮らないか」

 スミスは日本が大好きだった。南方戦線の戦後を撮り歩いてゐるとき、写真誌「ライフ」に載った彼の写真が日本兵の塹壕に貼られてゐた。敵国でも人間として理解し合へる。それ以来、日本に関心を持つやうになった。三カ月の約束が一年半の滞在。「東洋の巨人」と題する十五頁の特集記事が同誌を飾った。

 会社が軌道に乗り、マイホームを建てようと思った。結婚して、子供も二人ゐた。共稼ぎで何とか家を買へたが、良質な家が安く供給されてゐる米国とは大違ひだ。

 それで支援者の協力を得て、ずぶの素人ながら三十九年に注文住宅会社を設立、日本の一般住宅に2×4工法を初めて導入し、安価な住宅づくりの普及に努めた。


▢ 家族の幸せの容器

 十年後、石油ショックが起きる。輸入材の価格が六~七倍に跳ね上がった。契約分を値上げすることはできない。会社は赤字に転落、責任を取って経営から退いた。

 このとき「ハウス55計画」を発案。一戸あたり総工費が相場の半値の五百万円、現場の労働時間五百五十時間で建てられる良質で安価な住宅を五十五年中に提供しようといふ計画。「自動車王」H・フォードの安価な大量生産車「モデルT」にちなんで「T型ハウス」と名付けた。

「先駆者は必ず夢を追ふ」(フォード)の座右の銘通り、夢を追ってゐた。

 だが当時は、

「住まひはどうあるべきか」まで考へが及ばなかった。反省を迫られた。

 五十二年、財団法人住宅産業研修財団を設立、理事長に就任する。住宅産業が興隆した反面、工務店の地位が低下してゐた。「よい住まひ」作りのため、優秀な工務店を元気づけようと、組織化に着手した。

「よい住まひ」とは何か。戦後の持ち家政策は「五つの大罪」を犯したと考へてゐる。

①宅地造成のために山を崩し、自然を破壊した、

②早く安く家を作らうとして逆に不健康なシックビルディングを建てた、

③産業廃棄物を大量に発生させた、

④核家族が奨励され、地域共同体が失はれた、

⑤ローン地獄が深刻になった、

 の五つ。

 戦後の住宅政策は間違ってゐる。住まひの主役は本来、作り手ではなく、住人であり、住まひは家族の幸せの容れ物のはずだ。伝統的な木の文化を活かした、自然に順応し、地域に密着した住まひづくりをしたい。

「日本の伝統美を生かした住まひ」と「家族の幸せの容器としての住居」を追求する過程で、塾は生まれた。松田氏は夢を追ひ続けてゐる。


▢ 日本を甦らせる住まひ

 お彼岸が過ぎてなほ残暑の厳しい午後、東京・虎ノ門の財団事務所に松田塾長を訪ねた。

「まづ神社をお詣りしてください」

 塾長の若々しい大きな声がオフィス中に響く。「健康神社」。人々の健康を願ひ、霊峰富士がよく見える河口湖畔の別荘に邸内社を建てた。分霊をいただいた神棚への拝礼をすべての訪問者に求めてゐる。

 なぜ神社を建てたか。

「父は、ワシの夢はなあ、神社を造りたいんぢゃ、といってました。いちばん大切なのは健康。感謝の心が必要です。父は、神社ほど大らかなものはない、寛大なんやなあ、ともいってました。どこのお宮でも空気がきれいで、神々しさをものすごく感じますね。娘の主人は米国人だけど、ちゃんと二礼二拍手一礼します。神道を世界に知らせるべきですね。ずいぶん理解すると思ひます。ただ言葉が難しい」。


▢ 茶髪の若者が別人に

 隣の講義室では座学の真っ最中。佐賀・吉野ヶ里や青森・三内丸山の古代遺跡を題材に祭祀空間と居住空間の違ひを講師が語り、四十人の塾生が熱心に耳を傾けてゐる。

 開塾から一年、準備段階からだと一年半。手応へは十分といふ。入塾時には茶髪にピアスでふんぞり返ってゐる今風の塾生もゐる。ところが数カ月もしないうちに言葉遣ひも丁寧で、礼儀正しい別人に変はる。

「目標とする本物の技を目の前で見て、ついて行くしかない、と思ったとき、目がキラキラしたいい青年になるんです」

「学生時代より三倍ぐらゐ忙しくて大変か、と聞いたら、その倍です、っていふのよ」と笑ふ。

 朝七時には現場に出、夜は自分で勉強。休日は講義。寝てゐる暇もない。名古屋校の清川峻君は桜井三也棟梁(三清建築。長野・清内路村)のもとで、一人で手水舎に挑んでゐる。最高の技術を求められる神社建築に、弟子入り五カ月でふつうは関はれない。

「教へる棟梁がすばらしいんです」

 出会ひが人を育てる。

 清川君だけではない。五人に一人は

「将来は宮大工になりたい」と語る。

 受け入れ工務店の多くは神社仏閣を手がけてゐるが、木造建築を学ぶほどに、その粋を集めた神社建築の良さが分かる。


▢ 真の日本人を育てる

 松田氏は塾生たちを「サムラヒ」と呼ぶ。修業を積んだ棟梁から、苦労しながら礼儀作法や技術を学び、「よい住まひ」を作る。「よい住まひ」は家族のきづなを育み、人を作る。家づくりは人づくり、そして国づくり。千年を超える歴史を誇る木造技術を継承し、発展させていくサムラヒが塾生だと信じてゐる。

「モデルハウスに行って御覧なさい。家の中に神棚、仏壇を置くところがない。それでいいのか。問題提起しなきゃ。神様がゐて、神様に頭を下げる練習をしないと人は育たない。設計士や建築士にはそれが分からない。豆腐に目鼻みたいなデザインばかり考へてゐる。あくまで家族が主体。家族が幸せになれる家づくりを研究すべきです」

 提唱する「七つの理念」の七番目は「気候・風土を生かした住まひ」

「日本にはじつに多様な自然があります。家づくりにはその地域の木材を使ふのが一番です。環境を大切にする持続可能な社会づくりにも重要です」

 伝統技術の継承による「よい住まひ」づくりを通して、地場産業の復活、地域経済の再生、そして国づくりが大工育成塾の彼方に見えてくる。

 国づくりは戦死したたった一人の兄の記憶とも結びついてゐる。

「ものすごく優秀で、英語も仏語も堪能だった。学徒出陣の時代で、卒業してすぐ志願したんです。父は海軍政務次官。よく止めなかったなと思ってね。『国のためなら』『みんな平等』と考へるんですね。父は議会で戦争反対を演説してゐたけど、いざ戦争が始まれば、真の日本人なら戦はざるを得ない。今はその真の日本人がゐなくなった。だから真の日本人を育てたいんです」

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