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あなたの知らないお札の歴史──過酷な占領政策 [占領]


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あなたの知らないお札の歴史──過酷な占領政策
(「神社新報」平成16年12月6日)
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お札のデザインが(平成16年)十一月一日、二十年ぶりに一新された。

一万円札の肖像は今までと同じ福沢諭吉だが、五千円札が樋口一葉、千円札は野口英世が新たに採用された。女性や科学者が登場したことや偽造防止の最先端技術が駆使されてゐることなどが話題になってゐるのに刺戟されて、お札の歴史をふり返ってみた。

すると、終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)に「軍国主義的」だとして「追放」された肖像があったりなど、知られざる史実がいくつも浮かび上がってきた。


▢ 日本最古の紙幣「山田羽書」
▢ 伊勢の御師が発行

わが国最古の紙幣を発行したのは、神宮の御師たちだといはれる。なぜ伊勢の神職が紙幣を発行するに至ったのか。

▽ 安土桃山時代末期

神宮司庁総務部長や神社本庁総長、皇學館理事長などの要職を歴任した櫻井勝之進氏の『伊勢神宮』によると、神宮に幣帛をお供へできるのは本来、天皇お一人に限られてゐた。

私幣禁断の社といはれ、神領の寄進や祈祷、金品の献進は、願主が直接、神前に捧げることはできない。そのため主として権禰宜たちが、大神の神徳を仰ぎ、神威を蒙りたいと願ふ人々の志を御前に取り次いだ。これが「口入神主」で、一面では御祈祷師すなはち御師でもあった。御師たちの活動によって伊勢の信仰は全国の各階層に広がり、御師と檀家の関係は家や村ごとに、代々、受け継がれ、強固なものとなった。

日銀調査局の妹尾守雄氏の研究などによると、伊勢の信仰が全国的に盛んになり、参宮も飛躍的に増えたことから、中世末期、伊勢国は山城、近江と並んで、商業が発達した経済的な先進地となってゐた。

伊勢神領は内宮領、外宮領とも、歴史的に守護不入の地で、徴税、政務、警察権を行使する自治組織があった。それぞれに支配の実権を握っていたのは御師たちで、安土桃山時代末期になると、御師たちが秤量銀貨の釣り銭替はりに発行した、「山田羽書」と呼ばれるお札が伊勢山田地方で流通してゐた。

当時の銀貨は額面を持たず、その都度、重さを量って使はれた。そのため端数の調整には、必要な目方分をけづって使用する「切遣ひ」といふ習慣があった。ところが、元和年間(十七世紀初頭)に幕府がこの切遣ひを禁止したことから、「羽書」は端数処理の手段として俄然、引く手あまたとなり、やがて一定の額面を持つやうになったといはれる。

▽ 信仰に支へられ

現存する最古の「山田羽書」は慶長十五年(一六一〇)頃に発行された預かり手形の「丁銀伍分札」で、短冊形、厚手の和紙の上部に大黒天が描かれ、中央に「丁銀」の文字、金額、下部に兌換文言、最下段に発行者の「山田大路長右」の銘が記入してある。

山田羽書は伊勢の信仰に支へられて社会的信用が高く、そのため公的な性格を持って流通し、のちに藩札の原型ともなった。近代の貨幣制度にも劣らないほど発行制度が完備し、最古の紙幣ながら幕府公認のもと江戸末期まで継続的に発行され、近代紙幣とのつながりも認められるといふ。


▢ お札に登場した十八人
▢ 最初の本格的肖像は神功皇后

▽ 御真影を用ゐず

お札にはしばしば肖像が描かれてゐる。目的は二つ。

一つは偽造防止。人の顔はほんの少しでも印刷がずれてゐたりすると違和感が生じ、真贋の判別がつきやすい。聖徳太子のやうに、ヒゲなど特徴のある顔が選ばれるのはそのためだ。

二つめは人々に親近感を持ってもらふためで、国を代表する政治家や文化人などが選定されてゐる。

これまで日本のお札に肖像が描かれた人物は十八人ゐる。

明治初年に政府が発行した政府紙幣には神功皇后と板垣退助が描かれ、明治六年以降に発行された日本銀行券には、戦前は菅原道真、和気清麻呂、武内宿禰、藤原鎌足、日本武尊、戦後は二宮尊徳、岩倉具視、高橋是清、板垣退助、聖徳太子、伊藤博文、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石、そして今回の樋口一葉、野口英世が採用されてゐる。

最初の本格的な肖像が描かれたのは、神功皇后である。

君主制の国では、英国やタイなど、国王や女王、元国王の肖像が紙幣に描かれてゐる。唯一の例外は日本で、御真影を用ゐることはあまりに畏れ多いと考へられた。西欧諸国では国家元首の肖像を描くことが流行し始めたことや、政府がイタリアから招いたお雇ひ外国人エドアルド・キヨッソーネの考へに影響されて、明治天皇の御真影が採用される可能性もあったといふが、最終的には神功皇后が選ばれ、明治十四年以降、発行された。

▽ 明治天皇の御指示?

神功皇后が選ばれたのは、『日本書紀』に神功皇后が摂政の折り、三韓より金銀を貢献するといふ明文があり、これが日本の貨幣の始まりとされてゐることにある。明治天皇御自身の指示ともいはれ、神功皇后像が天皇の御真影を象徴的に表現してゐるといふ暗黙の了解が当時の国民にはあったと指摘されてゐる。

肖像の原版はキヨッソーネが印刷局の美人行員数名をモデルに彫刻したといふ。できあがった肖像は外国人の作品だけに日本人離れした感じが否めないが、当時の最高技術が駆使されてゐることは間違ひない。

今度の新札発行で樋口一葉が登場したことについて、「紙幣に女性の肖像が登場するのは初めて」といふ報道があるが、間違ひである。


▢ GHQが「追放」した忠臣たち
▢ 武内宿禰を「軍国主義的」と却下

連合国軍総司令部(GHQ)は過酷な占領政策を強行したが、それは国家主権行使の一つである紙幣の発行にも及んだ。明治政府は、明治二十年にお札の肖像に使用する人物として日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、菅原道真の七人を選び、天皇の裁可を賜ってゐた。戦前はこれに基づいてお札の図案が採用されたが、GHQはこれら古代の忠臣たちの肖像を「軍国主義的」として「追放」したのである。

▽ まるで言ひがかり

昭和二十年八月以降、インフレが急速に進み、新紙幣の製造発行が急務とされた。しかし物資は欠乏し、印刷機械も不足してゐたことなどから、大蔵省金融局は初めての試みとして紙幣の図案を公募した。印刷局や民間印刷会社四社から提示された五十三点のうち、凸版印刷一社のデザインが採用された。

千円券には奈良・新薬師寺十二神将の伐折羅大将、五百円券には京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が選ばれてゐた。仏像には戦争で荒廃した人心を少しでも和らげようとの意図があったといはれる。大蔵省としては千円券や五百円券の高額紙幣を発行する必要性がないと考へ、弥勒菩薩像を百円券に、伐折羅大将像を十円券に変更して使用することで新札発行の準備を開始した。

ところがGHQがこれに待ったをかける。十一月、GHQは覚書「新通貨発行の統制に関する件」を発し、

「新様式の通貨の製造・発行は事前承認を要する」

とした。GHQの事前承認がなければ、日本政府は紙幣や硬貨を発行できなくなったのである。屈辱の覚書であった。

大蔵省は早速、弥勒菩薩像の百円券、伐折羅大将像の十円券、彩紋模様の五円券、武内宿禰像の一円券について製造・発行を申請したが、GHQ経済科学局長は、

「弥勒菩薩の表情は戦争に負けた国民の悲痛な感情を表してゐる。伐折羅大将の形相は戦勝国に対する憤怒を示してゐる。武内宿禰は軍国主義のシンボルであり、いづれも肖像に相応しくない」

と却下し、五円券以外の図柄を変更するやう迫った。

まるで言ひがかりだが、発行期日が間近に迫ってをり、金融局には図柄を最初から検討し直す時間的余裕がなかった。そこで、

①百円札に関しては流通してゐる聖徳太子像の百円券の刷り色を変更する、
②十円券は伐折羅大将像を国会議事堂に、
③一円券は武内宿禰像を二宮尊徳像に変更する、

など修正を加へて再申請し、GHQの承認を得、発行した。

「聖徳太子以外は、軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めない」

といふのがGHQの姿勢であった。

新券が流通し始めると、国民の間で敗戦後の世相を反映して、とくに十円券について、

「表は『米国』を図案化してゐる」
「国会議事堂が十字架の中に押し込められてゐる」

などとささやかれたといふ。

▽ 神社も「追放」された

大蔵省は二十一年七月、肖像に使用する二十人の候補者を列記し、GHQと交渉した。

光明皇后、聖徳太子、貝原益軒、菅原道真、松方正義、板垣退助、木戸孝允、大久保利通、野口英世、渋沢栄一、岩倉具視、二宮尊徳、福沢諭吉、青木昆陽、夏目漱石、吉原重俊、新井白石、伊能忠敬、勝安房、三条実美がその候補だったが、GHQは聖徳太子、貝原益軒、板垣退助、木戸孝允、大久保利通、野口英世、岩倉具視、二宮尊徳、福沢諭吉、青木昆陽、夏目漱石、吉原重俊の十二人のみを承認した。

明治二十年に政府が決定した肖像に使用する人物のうち残ったのは聖徳太子だけとなったが、聖徳太子についても議論があった。「法王」の異名を持つ当時の一万田尚登日銀総裁が

「聖徳太子は十七条憲法を制定し、和の政治を主張された。軍国主義どころか、平和主義の代表である」

と説得し、肖像の存続を認めさせたと伝へられる。

GHQはお札の肖像だけではなく、同時に神社をも「追放」してゐる。

戦前は武内宿禰と宇部神社、和気清麻呂と護王神社、菅原道真と北野天満宮、藤原鎌足と談山神社、日本武尊と建部神社といふやうに祭神として祀る神社の社殿があはせて図案化されてゐた。聖徳太子と法隆寺・夢殿は戦後も残ったが、神社はお札から消えた。

占領は講和条約の発効をもって終はったが、GHQの横暴からからうじて生き残り、高額紙幣の代名詞といはれた太子と夢殿も、二十年前の福沢諭吉の登場で、紙幣デザインの表舞台を去った。

独立恢復後、採用された板垣退助や福沢諭吉、夏目漱石、そして今回、登場した野口英世は昭和二十一年にGHQから承認された人物だが、まさかGHQの縛りがいまも生きてゐるわけではあるまい。


参考文献=曾我部靜雄『紙幣発達史』昭和二十六年、朝日新聞社編『日本の紙幣』昭和三十四年、櫻井勝之進『伊勢神宮』昭和四十四年、妹尾守雄『山田羽書の事歴』昭和四十五年、植村峻『紙幣肖像の歴史』平成元年、植村峻『お札の文化史』平成六年など。
取材協力=お札と切手の博物館


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