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靖国神社──A級戦犯分祀が『あり得ない』理由 [靖国神社]

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靖国神社──A級戦犯分祀が『あり得ない』理由
(「選択」2005年2月号)
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 平成16年12月9日、山崎拓首相補佐官が東京・九段の靖国神社をたずね、新任の南部利昭宮司ら幹部神職と面会し、

「神社にまつられている東条英機元首相らA級戦犯十四人を『分祀(ぶんし)』できないか」

 と打診しました。新聞報道によると、首相の名代としてではなく、中曽根康弘元首相の意を受けての働きかけでした。神社側は「拒否」したと伝えられています。

 打診は同じ年の3月にもありました。自民党の島村宜伸議員が神社を訪問し、湯澤貞宮司(当時)と二人の権宮司(ごんぐうじ)に、

「できれば考えていただけないか」

 と持ちかけました。発信源はやはり中曽根元首相だったといいます。

「自分はそうは思わないんだが、中曽根さんが主張している」

 元首相は雑誌インタビューなどで、「別に尊厳なる社を造ってA級戦犯の霊をお迎えする」ことを提案してきました。「分祀」すれば神霊を取り除くことができるという発想が中曽根「分祀」論の前提でしょうが、それは神道の信仰上、あり得ないといわれます。


▢ 神道にも仏教にも共通した霊魂観


 宮司らは島村議員に「ロウソクの火」を例にあげて説明したといわれます。

「大きなロウソクから火を分けても、元のロウソクの火は残る。『分祀』しても、元の神霊は残る。元の神霊も分霊(ぶんれい)もそれぞれ全神格を有する」

 たとえば、千葉県内のある大手企業の社有地に琴平神社が鎮まっています。江戸後期、創業家の当主が讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)に参籠(さんろう)し、「腕香(わんこう)」という荒行(あらぎょう)を行い、激痛に耐えながら家業と町の発展を祈願し、分霊を敷地内に勧請(かんじょう)した、と伝えられます。

 荒行はともかく、分霊を本社の外にまつるのが、神道の「分祀」であって、「分祀」したからといって本社の金刀比羅宮に祀られた神霊が消えてなくなることはありません。神霊には形も大きさもないからです。

 だからこそ、たとえば京都・伏見稲荷大社の分霊を祀る神社が九州から北海道まで3万2000社、同じく京都、石清水八幡宮の場合は2万5000社、伊勢の神宮は1万8000社というように、同じ神をまつる神社が全国に多数分布しています。

 この神霊観念は日本の仏教にも共通します。祖先の霊は墓所や仏壇などそれぞれに宿ると考えられ、それゆえに供養は自宅でも寺でも墓でも行われ、日本人は遺骸、遺骨、位牌、墓石、遺影それぞれに手を合わせます。

 中曽根元首相のいう「分祀」は日本人の伝統的信仰心に基づく「分祀」とは完全に異なることになります。

 元首相は〈A級戦犯を合祀した当時は頑固な宮司がいたが、時が移り、いまなら「分祀」が可能〉と考えたようです。しかし神社側は「昔も今も同じ。できないものはできない」と説明し、島村議員も納得したといいます。けれども元首相自身は理解したのかどうか、はわかりません。


▢ 合祀を「取り下げ」ようがない


 中曽根「分祀」論はつまるところ、「合祀取り下げ」要求にほかなりません。けれども「取り下げ」こそあり得ません。

 韓国・ソウルの韓国国立墓地「顕忠院」と比較するとよく分かります。

 顕忠院には「抗日独立」戦争や朝鮮戦争で落命した韓国人16万3000余の墓石が並んでいます。中央にそびえる顕忠塔の内部には朝鮮戦争当時の戦死者10万4000人の位牌(いはい)、地下には無名戦士6200余柱の遺骨を納める納骨堂があります。6月6日の「顕忠日」には首相直属の機関が主催し、政府関係者や各界代表、各国在外公館関係者などが参列する式典が行われ、大統領が献花、焼香するそうです。

 けれども日本の靖国神社には遺骨も位牌もありません。朝鮮半島出身者の遺族などが

「位牌を返せ」

 と要求していると伝えられたことがありますが、もともと存在しない位牌を返還することは不可能です。

 韓国には、日本統治時代の「親日派」を糾弾する「親日反民族特別法」に関連して、

「親日派軍人の墓を国立墓地から追放せよ」

 と声を荒げる国会議員もいます。戦没者個人の遺骨や墓があるなら、それも可能でしょう。しかし靖国神社は戦没者の神霊をまつっています。かりにA級戦犯の「合祀取り下げ」要求を受け入れたとして、「取り下げ」ようがないのです。

 神社には祭神の霊璽簿(れいじぼ)ならあります。幕末の戊辰(ぼしん)戦争から大東亜戦争(第二次世界大戦)まで、246万6495柱(平成15年秋現在)の祭神について、階級、氏名、本籍などが毛筆で記され、本殿後背の霊璽簿奉安殿に収められています。けれども、たとえA級戦犯の祭神名を書類上、抹消したとしても、「取り下げ」にはなりません。霊璽簿は副霊璽という重い扱いですが、神霊そのものではないからです。

 靖国神社では毎秋、合祀祭が行われます。

 合祀までには創建以来の厳密な手続きがあります。厚生省や都道府県に照会し、得られた戦没者の資料にもとづき、旧陸海軍が採用した前例を踏襲して、合祀の取扱は決定されます。階級、氏名、死没年月日、死没区分(戦死、戦病死等)、死没場所、本籍、遺族名などが記載された合祀名簿が作成され、戦前は天皇に上奏され、御裁可を経て、合祀されました。

 一宗教法人となった戦後は御裁可の制度はありませんが、前例に準じて上奏され合祀が行われているといわれます。


▢ 一柱の神のごとく鎮まる


 神社が「昭和殉難者」と呼ぶ、東京裁判で絞首刑の宣告を受けて処刑され、または未決拘留中・受刑中に死亡したA級戦犯14柱が合祀されたのは、昭和53年秋です。日本国民の感情と日本政府の政策に依拠し、十余年にわたる社内検討の末に実行されました。

 サンフランシスコ講和条約の発効を機に、日弁連など民間団体は戦犯赦免運動を展開し、のべ4000万人ともいわれる署名を集めました。戦争裁判の受刑者に同情的な国民感情に後押しされて、政府は重い腰を上げ、講和条約や関係各国との合意に基づいて、戦犯の減刑・赦免が進められました。その結果、巣鴨プリズンで服役していた有期刑のA級戦犯は31年3月までに、B・C級は33年5月までに釈放されました。

 一方でポツダム宣言受諾後、停止されていた軍人恩給が28年に復活します。当初は「戦犯」は対象外とされましたが、

「一般戦没者と同様に取り扱うべきだ」

 という世論の高まりを受け、翌29年の恩給法改正で戦犯の家族にも恩給が支給されるようになります。また、講和条約発効前の戦犯の刑死・獄死を「在職中の公務死」と見なして、政府は戦犯者に対する援護措置を充実させていきました。これがA級戦犯合祀の契機となります。

 合祀祭(霊璽奉安祭)は秋季例大祭当日の前夜、浄闇(じょうあん)の中、おごそかかに執り行われます。

 本殿相殿(あいどの)には昭和20年11月の臨時招魂祭で祭神名が判明しないまままつられた英霊の神霊が鎮(しず)まっています。祭典ではこのうち新たに合祀される神霊を作成されたばかりの霊璽簿にいったんお遷(うつ)しし、引き続いて本殿中央、内陣に奉安された御霊代(みたましろ)に合わせまつられます。

 246万余柱の英霊は一視同仁、生前の位階勲等や思想・信条、年齢、男女の性別、内地や台湾・朝鮮半島など出身地の別なく、あたかも一柱の神のように、一つの神座に鎮まるのです。

 平成16年も、終戦から半世紀以上が経って、ようやく戦死が判明した37柱が合祀されました。

 一つの神座に鎮まっている以上、部分的な「合祀取り下げ」は不可能です。そもそもいったん神に祀った神霊を人間の都合で、引きずりおろすことはできません。たとえ「大勲位」であれ、神の領域を侵すことは不可能であり、考えること自体が不敬だということになります。


▢ 「軍神」「英雄」とは限らない


 日本人はなぜ戦没者を神として祀るのでしょうか。イギリスや中国と比較してみましょう。

 毎年11月14日に近い日曜日、午前11時から2分間、イギリスは国を挙げて戦没者を追悼する沈黙の祈りに包まれます。

 第一次世界大戦の休戦協定発効が1918年11月11日の午前11時だったことから、この日に近い日曜日が「戦没者追悼記念日」と定められ、ロンドンの官庁街にそびえる記念碑セノタフを会場に、国王エリザベス二世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者が参列し、二度の大戦と湾岸戦争などで落命した戦没者の追悼式典が催されるのです。

 ビッグ・ベンの鐘の音と騎馬隊の一斉射撃を合図に「二分間の黙祷」が捧げられたあと、女王は碑前に大きな花環を捧げます。国民はこの日のために、「感謝」を表す真っ赤なポピーの造花を胸につけます。

「二分間の黙祷」は、第一次大戦休戦一周年に国王ジョージ五世の呼びかけで始まりました。国王は

「すべての交通機関を止め、完全な静寂の中で、すべての人々は思いを英霊への敬虔な追憶に集中させよ」

 と訴えました。翌年の記念日にはウエストミンスター寺院内に無名戦士の墓が設けられました。

 セノタフの式典では英国国教会のロンドン司教が宗教儀式を行い、讃美歌が歌われ、キリスト教の祈りが続きます。近年は諸宗教の代表者も参列します。けれどもいうまでもなく、戦没者はGodではありません。

 セノタフより歴史の古い日本の靖国神社は、イギリス風の「追憶」や「感謝」を超え、戦没者を神としてまつっています。

 氏族の祖神、国土開発の功労者など祖先や人霊(じんれい)をまつる神社は古来、枚挙にいとまがありません。近世には義人信仰が顕著になり、明治以後、神社に発展した例も数多くあります。けれどもその神観は単純ではありません。同じく菅原道真公をつまる神社であるにもかかわらず、福岡の太宰府天満宮は人徳を慕う追慕の念に発しているのに対して、京都の北野天満宮の創建は怨霊(おんりょう)信仰の結果といわれます。

 同様に靖国の英霊は「軍神」「英雄」とは限りません。


▢ 特定の歴史観を前提とせず


 中国はどうでしょう。杭州の岳飛廟(がくひびょう)では「救国の英雄」岳飛は神にまつられ、「裏切り者」の秦檜(しんかい)は死んでなおツバを吐きかけられています。「罪人」は死んでも「罪人」のままですが、日本は違います。

 北京・天安門広場の人民英雄記念碑は中国共産革命に命を捧げた「英雄」をまつり、あまつさえ天安門事件で死んだ兵士をも祀っているといいます。中国の「英雄」は共産主義の階級闘争史観を前提とし、だからこそ帝国主義戦争の首謀者(戦犯)は悪、侵略の被害を受けた人民はすべて善という解釈になるのでしょうが、靖国神社は特定の歴史観、戦争観を前提としていません。

 中曽根元首相は

「A級戦犯については、日本国民自身が人物ごとに中身を判別し、重い責任者は分祀する」

 と主張しているようですが、靖国神社は個々の祭神を人物評価した上で合祀しているわけではありません。責任の重さも無関係です。

 靖国の英霊は、戦争という国家の非常時に、かけがえのない命を祖国に捧げた、という一点において神としてまつられています。国家の危機に私を去って、公に殉ずる。その悲痛な精神こそが靖国の神だといえます。その悲しいほどの忠誠心ゆえに、天皇は生前の臣下の前で頭を垂れたまい、また春秋の例大祭に勅使が差遣され、幣帛(へいはく)が奉られます。


▢ 「取り下げ」に反対した遺族


 元首相による「分祀」の働きかけは昭和60年に始まります。同年の終戦記念日、元首相は「戦後政治の総決算」の核心として靖国神社に「公式参拝」しました。数千人規模の青年交流など新たな日中関係が模索されるなかでの参拝は戦後政治に大きな足跡を残すはずでしたが、事態は一転、中国国内の保守派が猛烈に反発し、元首相は秋以降の参拝を中止しました。

 個人的にも肝胆(かんたん)相照らす仲となった改革派・胡耀邦総書記の立場が悪化しかねない、という情報が首相を動かしたとされていますが、中嶋嶺雄・国際教養大学学長(現代中国学)は宗教専門紙のインタビューで、

「信念の問題でしょう。一見強く見えるけれど、どこが弱点か、中国はちゃんと見ていた。弱みをついたら、見事にぐらついた。そこが靖国問題の原点だと思う」

 と解説しています。強固な政治的信念に欠け、状況を見て豹変する「風見鶏」の習性を中国の対日強硬派は見抜いていたということでしょうか。

 元首相は「日中関係改善のため」と称し、「陰の首相指南役」四元義隆氏や金丸信自民党幹事長らを動かして松平永芳宮司に「分祀」を要求し、一方では板垣正参議院議員(いずれも当時)に戦犯遺族の説得を依頼したといいます。

 板垣議員はA級戦犯・板垣征四郎陸軍大将の子息です。長く日本遺族会に勤務し、当選後は「公式参拝」実現に取り組んでいました。

「合祀問題はA級戦犯の遺族が神社と話し合って決着させる以外にない。A級戦犯自身、取り下げを望んでいるのではないか。密かに祀られたのなら、密かに取り下げるのが理想」

 という旧軍の先輩の助言に動かされ、白菊遺族会(戦犯遺族会)の木村可縫会長(木村兵太郎陸軍大将未亡人)と相談し、まず東条輝雄氏(東条元首相の次男)と接触します。

 東条氏は「取り下げ」に反対でした。けれども板垣議員によると、

「主張は正論そのもので、議論の余地はなかった」。

「『A級戦犯が祀られているから、首相が参拝することは妥当ではない』というのは戦勝国の論理。遺族として同調できない」

「日中間の靖国問題は両国の政治家が不適当な言動を行ったために起こった。遺族が解決に当たらねばならぬ筋合いはない」

 と東条氏は主張しました。

 結局、神社側の反対と、遺族の声が「合祀取り下げ」を阻んだといわれます。いまでは全遺族が「分祀」反対の立場だといいます。


▢ 政治に翻弄される英霊たち


 靖国神社は現実の権力政治とは一線を画し、ひたすら祭祀を厳修することを第一義としています。その靖国神社が平成16年春に「分祀案に対する見解」を発表しました。奇しくも島村議員が神社を訪問したちょうどその日にでした。テレビ朝日「サンデープロジェクト」で中曽根元首相が「分祀」案に言及し、

「以前は神社が頑固に反対したが、いまは遺族の同意も得られそうだ」

 と語ると、神社に問い合わせが殺到し、意思表示を迫られたのでした。

 靖国神社がみずからの意思を示した初のケースで、「見解」は「分祀はあり得ない」と言い切っています。

 16年春の例大祭では、湯澤宮司(当時)は祭神と参列者を前に、

「中曽根発言は国民を惑わす。首相参拝問題の混乱は元首相の参拝取りやめに端を発している」

 と強く批判し、

「できない分祀論よりも内政干渉の排除に最後の政治生命を注いでいただきたい」

 と訴えました。

 同年11月下旬、日中首脳会談で胡錦涛主席、温家宝首相は小泉純一郎首相の靖国神社参拝を相次いで批判しました。直接の批判ははじめてでした。翌月の山崎補佐官の神社訪問、「分祀」打診はこの批判を受けたものであることは間違いないでしょう。

「政治にタッチせず」

 を基本姿勢とする靖国神社ですが、政治にもまれていくのは歴史の綾でしょうか。一度きりの人生で、図らずも国際政治の荒波に巻き込まれ、国に命を捧げた靖国の英霊は死してなお、魂の安らぐことがありません。

 その背景には政治の貧困があることはいうまでもないでしょう。日本の為政者は体を張って国を守ろうとする気概がないどころか、外国に尻尾を振って恥じることがないかのようです。歴史の真実を真摯に追究し、検証することもせず、逆に殉国者への慰霊の誠を失い、物言わぬ英霊と遺族と靖国神社に責任を転化しているのではありませんか。

 終戦六十年を経て、日中の喉元に突き刺さった靖国問題の解決は「参拝中止」でも「分祀」でもない第三の道が模索されるべきですが、それのできる大政治家はいるのでしょうか。

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