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知られざる「君が代」千年の歴史──長寿者への「お祝いの歌」から国歌へ [国旗国歌]

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知られざる「君が代」千年の歴史
──長寿者への「お祝いの歌」から国歌へ
(「選択」2005年5月号)
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君が代.png
 国旗国歌法の成立からもう何年になるでしょうか。混乱はなお続いています。卒業式の国歌斉唱で起立しなかった公立学校の教員が「職務命令違反」で処分され、教員側は「強制反対」「思想良心の自由を守れ」と反発を強めています。

 対立の中心は天皇と歴史の問題にほかなりません。平成16年の暮れにそれを象徴する出来事がありました。

 在ドイツ日本大使館のホームページで、「君が代」が

「君主よ、汝の支配が千年も、幾千年も続くように」

 とドイツ語訳されている、と指摘する質問主意書を民主党のある議員が提出したのに対して、政府は

「誤解を招きかねない」と答弁し、

「天皇を国および国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念」とする政府見解の周知徹底がはかられたのです。

「君が代」反対派は戦前の天皇制に対する怨念に固まり、「天皇の歌」を忌避しています。政府は象徴天皇制の建前から「天皇の歌」と言いたくてもできず、いささか苦しい解釈でかわし、法律や国際マナーを根拠に起立・斉唱の励行を求めています。そのためかえって「強制」の印象が深まっています。


▢ 「君」は必ずしも天皇ではない

 しかし文学的、歴史的観点で見ると、「君が代」を単純に「天皇の歌」と理解するのは正しくないのではありませんか。混乱の原因は不十分で不正確な理解にこそ求められます。

「君が代」の文献上の初出は古今和歌集巻第七賀部です。賀歌(がのうた)とは40、50、60歳と一定の年齢に達した人へのお祝いの歌です。この歌が賀歌部の冒頭に「題しらず、読人しらず」として掲げられているのは、当時すでに広く知られた古歌であったことを意味します。ただ首句は「わがきみは」で、今日と異なります。第二句を「千代にましませ」とする伝本もあります。

 祝賀の対象はむろん天皇とは限りません。光孝天皇が僧正遍昭の長寿を願って歌われた御歌には

「君が八千代に逢ふ由もがな」という、よく似たフレーズが用いられています。

「君」は必ずしも天皇を指すのではありません。光孝帝は百人一首の

「君がため春の野に出でて若菜摘む」の作者でもあります。この「君」もやはり天皇ではありません。

 首句が「君が代は」に定まるのは鎌倉時代以後といわれますが、この「君」も天皇とは限らなかったのです。朝廷に用いれば聖寿万歳を寿ぐ意味になり、民衆に用いれば長寿を祝う歌として神事や仏事、宴席で盛んに歌われたのでした。そしてこれが「君が代」の「君が代」たるゆえんといえます。古来、日本人は天皇と国民を対立概念でとらえなかったのです。「天皇主権か国民主権か」と対立的に考えるのは日本の伝統思想と異なるのではありませんか。

 世阿弥作「老松」という謡曲は、都の梅津某が夢のお告げに従って、筑前太宰府の安楽寺(天満宮)に参詣し、松の神木の傍らで旅寝していると、神霊が現れ、舞を舞い、

「これは老木の神松の千代に八千代にさざれ石の巌となりて」

 と御代を寿ぎ、鶴亀の齢を「この君」に授けるとの神託を告げ、行く末万歳のめでたきを祝います。「この君」とは天皇と解されますが、曲は今日、一般の祝宴でしばしば謡われています。

 江戸期になると、「君が代」は物語や御伽草子、謡曲、小唄、浄瑠璃などに採り入れられました。若狭国では正月や節句に物乞いの盲女が「君が代」を歌い、門付けに及んだといいます。広く祝いの歌として欠かせない存在だったのです。

 ある研究によると、幕末の鹿児島城下では薩摩琵琶が爆発的に流行していました。欧米列強の船が近海に出没するようになったのに対抗して、武士たちは士風を磨き、士気を高める目的で薩摩琵琶を盛んに歌ったといいます。

 琵琶曲のうち謡曲の一部を引用し、天下泰平を歌い上げるのが「賀の歌」で、その中に

「目出度やな君が恵みは久方の」

 で始まり、今日知られている「君が代」の歌をそのまま歌い込んだ「蓬莱山」という曲がありました。

 イギリス歩兵隊の軍楽長フェントンが薩摩藩砲兵隊長の大山巌に

「欧米諸国にはみな国歌というものがある」

 と説き、「国歌」制定を建議したのは明治二、三年頃です。共鳴した大山は日頃から愛誦する琵琶曲「蓬莱山」に引用されたこの「君が代」の歌を選び、「国歌ともなるべき歌」の作曲を依頼しました。

 けれどもフェントンの曲は「国歌」として認められませんでした。陸軍はフランス軍が用いる敬礼のラッパ曲「オーシャン」をそのまま用いてフェントンの曲を用いませんでしたし、海軍はフェントンを御雇音楽教師に迎えたものの、明治九年になって海軍軍楽長の中村祐康が「天皇陛下を奉祝する楽譜改訂の議」を海軍省に上申しています。しばらくは海軍軍楽隊が演奏していたらしいフェントンの曲はメロディーが日本人の歌うにはふさわしくない、心に響かないと判断されました。まるで讃美歌のようなメロディーだったのです。

 古来、広く歌われていた「君が代」以上に国民的祝い歌の歌詞に相応しいものはありませんでしたが、それならなぜあらためて新しいメロディーが必要とされたのか、といえば、一般に流布する「君が代」の歌は、謡曲から門付けまで曲がまちまちだったからです。しかも地方によって方言と同様、音階が異なっていました。これでは同じ歌詞を知っていても、国民が一緒に歌うことはできません。そこで宮中の伝統的な音階「壱越調律旋」で作曲されることになったのです。

 曲の改定は明治13年に動き出します。海軍省軍務局長海軍大佐の林清康が、宮内省式部頭の坊城俊政に対して曲の選定を依頼し、同年六月に曲が完成します。11月3日の天長節に海軍および宮中で新しい「国民の唱歌」としての「君が代」が演奏されました。


▢ 「国歌の地位」は自然に獲得された

 しかし当時、この曲は「国歌」として公式に認められていたわけではありませんでした。政府が「国歌」として公布したこともありません。文部省の音楽取調掛は明治15年1月に「国歌選定」に着手さえしています。一方で、「軍楽」としての「君が代」は18年の天長節に陸軍省達として公布された「陸軍省ラッパ譜」の第一に掲げられ、陸海軍楽の筆頭の地位を法的に獲得します。

『君が代の歴史』の著者、国語学者の山田孝雄は、当時、陸軍、海軍を問わず複数の「国歌」があり、宮内省作曲の「君が代」はその一つにすぎなかった。学校でも「国歌」として教えられたことはないが、いつしか「国歌」の第一のものと認められ、「国歌」としての公式の布告もないまま、自然のうちに人々が「国歌」と唱え、認めてきた──と解説しています。

 国家が権力的に「国歌」として制度化したのではなく、千年以上の長い歴史の中で自然にその地位を獲得してきたところに日本の国歌「君が代」の大きな特徴があるのではありませんか。

「君が代」と縁が深い薩摩琵琶は明治天皇が終生、愛好されたものの一つです。明治14年5月、東京・大崎の元薩摩藩主・島津忠義邸で名手・西幸吉が史上画期的な御前弾奏を行いました。曲は「小敦盛」と「蓬莱山」でした。天皇はいたく感激され、以後、琵琶曲を口ずさみ、毎晩のように蓄音機で曲を聴かれるようになりました。

 明治帝のみならず、各界各層で薩摩琵琶は国民の士気を鼓舞する音楽として浸透し、明治末期には大衆芸能の一大ブームがわき起こりました。琵琶会の弾き始めには「君が代」の歌を歌い込んだ「蓬莱山」が必ず演奏されたといいます。

 国旗国歌反対派の中にも、こうした「君が代」の豊かな歴史を積極的に評価する人もいます。評論家の鶴見俊輔氏は

「国家の儀式に演奏される歌を選ぶのに、千年以上前に読み人知らずだった歌を採用したのは、新興国の官吏として独立精神を示した」

 と称えています。

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