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北朝鮮に里帰りした靖国神社「北関大捷碑」の真実 ──「日本軍を撃破」でも「日本が略奪」でもない [靖国問題]

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北朝鮮に里帰りした靖国神社「北関大捷碑」の真実
──「日本軍を撃破」でも「日本が略奪」でもない
(「人形町サロン」2006年5月)
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 靖国神社の境内で約100年間、保管されていた北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)が、今年(2006年)3月、最初に建てられていたとされる現在の北朝鮮・咸鏡北道(ハムギョンプクド)に里帰りし、「復元式」が行われました。

 北朝鮮の国営通信社などが伝えるところによると、式には同碑返還対策委員会の北朝鮮側委員長を務める文化財保存指導局長や朝鮮仏教徒同盟中央委員長らが出席しました。碑は「復元」と同時に、北朝鮮の第193号国宝遺跡に登録されたと伝えられます。

 国交のない国に、一世紀もの時間を超え、しかもとかく靖国神社問題でぎくしゃくする隣国同士が協力し合って、ほかならぬ同社で保管されてきた文化財の里帰りが実現できたのはほっとするような美しい話です。ところが、美談であるはずのこの里帰りについて、韓国・北朝鮮とも、メディアの報道は好意的ではありません。

 たとえば韓国の新聞は「日露戦争当時、日本によって略奪され、靖国神社に放置されていた」などと報じ、北朝鮮の国営メディアは「正しく強い朝鮮民族の闘争史を示す貴重な愛国戦勝碑として、また日帝の朝鮮侵略と歴史遺跡の破壊・略奪を告発する証拠として、永遠に保存される」と伝えています。

 しかし日本の植民地支配と二重写しになったこれらの報道は、どこまで客観的、実証的なのでしょうか。もともと北朝鮮に建てられていた碑が長い間、靖国神社で保管されていたのは、韓国・朝鮮のメディアがいうような文字通りの「略奪」なのでしょうか。


▢1 国王の都落ちと反乱軍の悪逆非道

 その前に、まずは北関大捷碑とはどのようなものなのか、を見てみましょう。

 靖国神社の境内にあったときは、碑の高さは210センチ、幅は65センチ。最上部にはキノコの笠のように、幅150センチの自然石の屋根が乗っていました。

 碑の表面上部には横書きで「北関大捷碑」と大書されています。「北関」とは朝鮮半島の「咸鏡北道磨天嶺(マチョンリョン)以北」を指し、「大捷」は「大勝利」の意味ですから、戦勝記念碑であることが分かります。

 裏面にまでびっしりと刻まれた漢字1500字余りの碑文には何が書いてあるのでしょう。

 歴史学者の北島万次・前共立女子大学教授の研究によると、本文は「昔、壬申倭乱(日本でいう文禄の役。1592〜93年)のとき、力戦して賊を破った武勇は世に名高い」という文章で始まり、「海戦では李舜臣(イスンシン)、陸戦では権慄(クオンユル)、李廷馣(イジョンアン)がおり、歴史が記録しているが、咸鏡北道の義勇兵の働きは際立っていた」と続きます。全体的には3つのことが書かれているようです(北島「壬申倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義」=「歴史学研究」1992年11月号、青木書店)。

1、豊臣秀吉はおごり高ぶって中国・明を侵略しようとした。わが朝鮮がその道筋になることに同意しないのを怒り、大軍を送り込み、都の漢城(現在のソウル)にまで攻め入ってきた。朝鮮国王・宣祖(ソンジョ)は平壌に都を遷し、京畿道は「賊」(日本軍)の手に落ちた。加藤清正はもっぱら北を攻め、その年の秋には咸鏡北道に兵を進めた。兵は勇猛果敢で、鉄嶺山脈以北には守る者がなかった。

2、このとき鞠景仁(ククギョンイン)らが反乱を起こして「賊」に内応し、二人の王子(臨海君[イムヘグン]と順和君[スンファグン])を捕らえて、「賊」に売り渡した。「賊」に降った朝鮮人らが殺戮の限りを尽くすと、義兵が決起し、鄭文孚(チョンムンブ)が主将となり、反乱者を討ち破った。その後、清正の大軍と戦い、「賊」軍は義兵の全面攻撃の前に敗走、撤兵した。

3、鄭文孚は大勝利を宮廷に報告したが、功績をねたむ官吏が論功行賞を阻んだ。顕宗(第18代)の時代になって、相応の叙位がなされ、祠堂が建てられ、関係者が祀られた。私(碑文撰者の崔昌大[チェチャンデ])は当時の事情を詳しく知った。他所には顕彰碑があるが、北関に碑がないのは恥ではないか。

 碑文を読み下してみると、たしかに文禄・慶長の役(韓国の歴史用語では壬申・丁酉倭乱)の際に加藤清正軍を迎え撃った朝鮮義兵の勲功を称えて建てられた記念碑であることは間違いないのですが、韓国のマスコミなどが繰り返し伝えているように単純に「秀吉の侵略軍を破った義兵を称えている」のではないことが分かります。

 第一に、碑が称えている勲功は限定的です。地域的には、現在の北朝鮮北東部という一地域に限られ、時間的には、文禄の役すなわち第一次朝鮮出兵にとどまります。講和交渉決裂後の第二次出兵すなわち慶長の役(1597〜98年)では、日本軍は咸鏡道には進攻していません。

 第二に、碑には義兵の戦いぶりが克明に記されていますが、その前提として国王の都落ちと反乱者の悪逆非道があります。日本軍が攻め込むと国王は首都を脱出し、小西行長はこれを追い、加藤清正は咸鏡道を攻めました。咸鏡北道には城を守る将兵がおらず、逆に清正軍に呼応する反乱者がいて、乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働きました。これに対して義兵が決起し、やがて清正軍を「敗走」させた、と碑文は説明しています。

 第三に、義兵の功績は朝鮮国内で長らく評価されず、それ相当の論功行賞が行われたのは四代後の国王・顕宗の時代になってからでした。碑文の最後に「崇禎甲申後六十五年(1709)十月」と刻まれているように、文禄の役からじつに100年以上もあとになって、この碑は建てられたのです。建立の動機は、義兵の功績を純粋に顕彰するというより、義兵の行動が正当に評価されていないことに対する義憤でしょう。碑文の後半部分は、評価の不当さを訴える文章が長々と思い入れたっぷりに書き連ねてあります。


▢2 足かせとなった二人の王子

 次に、碑文が史実に忠実か、という問題ですが、疑問が指摘されます。あくまで朝鮮側の歴史資料ですし、もともと鮮度が高いとはいえない一地域の記憶と伝聞に基づいて歴史が叙述されているとすれば、なんの不思議もありません。

 もっとも疑わしいのは、ほかでもない清正軍の「敗走」です。碑文はもっぱら義兵の活躍で清正軍が「敗走」したかのような書きぶりですが、歴史の事実はそうとは言い切れないでしょう。

 北関大捷碑が記述しているように、当初、日本軍は連戦連勝でした。それもそのはずで、30万の大軍に対し、朝鮮の兵力はたかだか5、6万、明の援軍も10万といわれます。種子島に鉄砲が伝来してから50年、日本はすでに世界有数の鉄砲大国でしたが、文を重んじ、武を軽んじる文治主義の朝鮮には弓矢しかなく、勝ち目はありませんでした。鉄砲の音を聞いただけで逃げ出す者が多かったといわれます。

 しかし日本軍の勢いはピタリと止まり、やがて撤収します。碑文に描かれているように、たしかに水軍の活躍や朝鮮民衆の根強い抵抗はありました。中国・明の援軍もありました。しかし別の理由を挙げる人もいます。ほかでもありません、この文禄・慶長の役のとき日本に連れてこられた朝鮮陶工を祖先にもつ薩摩焼14代の沈寿官(シンジュカン)氏は、敗退の謎を、日本の武将が大量に朝鮮側に寝返ったためだ、と解いています。

 李氏朝鮮の正史『李朝実録』には日本の逃亡兵「降倭」の実態が詳しく書かれています。朝鮮側に投降し、秀吉軍と戦った「降倭」の数は5〜6000ともいわれます。清正の臣下で、阿蘇神社に奉仕していた最強の鉄砲隊・雑賀衆(さいかしゅう)が朝鮮に帰順し、鉄砲を伝えるとともに、秀吉への遺恨を晴らすべく秀吉軍と戦った──と沈寿官氏は理解しています(『NHK歴史発見7』NHK歴史発見取材班編、角川書店、1993年)。

 それなら北関大捷碑が建てられていた咸鏡道での清正軍「敗走」の真相はどうでしょう。

 北島教授の『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、平成7年)などによると、そもそも咸鏡道は流刑・左遷の地で、朝廷に対する反感が根強かったのでした。碑に記されているように、反乱者の鞠景仁ももともとは全州の人でしたが、罪により流人となり、会寧(フェリョン)の役人となっていました。

 であればこそ清正に呼応するために、何の遠慮もなく二人の王子を縛り上げることができたのです。国王に怨みを抱く者が多い土地柄でしたから、各地で反乱がおき、清正軍が攻略すると、北方異民族の女真族が現れ、地域を制圧して清正に伺候し、咸鏡道は日本軍の手に落ちたのです。この辺の背景と経緯が碑では詳しくありません。

 民衆ははじめ日本軍を解放軍のように歓迎しましたが、やがて離反が始まります。きっかけは日本軍による検地でした。食糧の現地調達が次第に厳しくなり、人心は離反します。頼りない朝鮮正規軍とは別に各地で義兵が決起しました。

 碑文は、義兵が反乱者を打ち破り、日本軍を全面攻撃した、日本軍は吉州(キルジュ)城に逃げ、籠城した、義兵はさらにこれを打ち破り、清正軍は撤収した──とたたみかけていますが、北島教授の研究では様相が異なります。

 籠城した日本軍を清正が直ちに救援できなかったのは、手元にいる朝鮮王子が足かせとなっていたからです。兵力不足の上に、冬の寒さが日本軍の戦意をそいでいました。清正が孤立する日本軍を救出したのは年明けでした。

 やがて漢城(ソウル)で軍議が持たれ、戦線縮小が決し、咸鏡道の清正軍にも撤退命令が出ます。清正軍撤退の原因を、北関大捷碑が描いているように「義兵が攻めに攻めて、賊軍を敗走させた」と見るのは、あくまで朝鮮側から見た一方的な解釈といえます。

 ここで興味深いのは、反乱者にとらえられ、清正に引き渡された二人の王子の境遇とその後の人生です。

 歴史学者・辻善之助の『日本人の博愛』(大東出版社、昭和16年)によると、日朝の講和交渉後、清正は秀吉の命によって両王子を解放しました。二人は文禄元年7月にとらえられて以来、約1年間、保護され、厚遇されていたことに感謝し、感謝状を贈りました。

 いまも紀州徳川家に所蔵されているというその書状には、「その慈悲は仏のごとし」「この恩を忘れ、後日、日本および清正に対してわずかにも背くの意あらば、これ人情にあらず、天地の神々これを知らん」と記されているそうです。

 また二人は恩を忘れないため、京城・南大門外に清正の廟を建て、肖像を掲げて、生きながらの社とし、親しく祭文を読み、後世に伝えさせた、といいます。

 北関大捷碑が伝える「日本軍撃退」の歴史とはかなり違います。


▢3 「子孫の承諾」を裏付ける資料

 次にこの碑がなぜ靖国神社で保管されるようになったのか、を考えます。少なくとも日本側の資料からは「略奪」は確認できません。

 同社の資料によると、100年前の日露戦争当時、朝鮮半島北部に進出した日本軍の池田正介少将が苔むした同碑を発見し、建設者の子孫の承諾を得て、日本に送付されました。明治39(1906)年に池田少将の寄贈を受け、以来、同社で保管されてきました。

 神社側の資料のほかに、「建設者の子孫の承諾」を裏付ける公文書が残されています。分厚く、ずっしりと重い「満大日記」(明治三十八年十二月上、陸軍省。いまは防衛庁防衛研究所が所蔵)に綴じられた「加藤清正公征韓記念碑下付出願ノ件」です。

 この資料は、①明治38年11月5日付で碑の下付を陸軍大臣に願い出る熊本・本妙寺(清正の菩提寺)の願書、②熊本県知事から陸軍大臣に宛てられた「御詮議相成りたく」とする12月2日付の副申書、③「大臣官房受領・結了12月11日」の印が押された陸軍省高級副官から熊本県知事宛の回答、の3文書から構成されています。

 ③の回答には、「碑は、清正軍が引き上げたあと、朝鮮人が清正を撃退したかのようにこじつけた。碑の存在は日韓親善の妨げとなると考え、建設者の子孫に諮って、承諾を得、還送した。本妙寺に下付するのも妙案だが、実現が難しい」などと記されています。

「承諾」は当時の新聞や研究雑誌にも明記されています。

 明治38年12月23日付の読売新聞の記事は、「池田旅団長が苔むした碑を発見し、所在地の有力者に、撤去せられたい、と趣旨を諄々(じゅんじゅん)と説くと、彼らはその至誠に感じて譲与し、三好師団長凱旋のとき東京に持ち帰った」と伝えています。

 学術雑誌「歴史地理」(8巻1号、明治39年1月)は、「趣旨を諄々説くと、彼ら(石碑所在地の住民代表)も大いに(池田)少将の至誠に感じ、ついにこれを撤去して少将に譲与したので、同将軍は深く彼らの厚意を徳とし……」と記しています。

 北関大捷碑は結局、陸軍省の判断で靖国神社に寄贈され、以来、同社の境内で展示・保管されてきました。


▢4 政府の合意文書は「引き渡し」

 納得ずくで日本にもたらされたはずの碑が、今度はなぜ北朝鮮に里帰りすることになったのでしょうか。

 里帰り話が持ち上がったのは今から30年前にさかのぼります。

 日韓・日朝そして南北朝鮮外交関係打開の平和のシンボルにしようという考えから、朝鮮・李王家の子孫、李玖(イク)氏(平成17年7月死去)の意を受けた日韓仏教関係者から靖国神社に打診があったのは昭和50年代です。

 神社側は「もともと国からお預かりしているものなので、韓国と北朝鮮との間で調整がつき、日本政府から正式の要請があれば『引き渡し』に応じる」との見解を示してきましたが、表立った進展がないまま長い年月が過ぎました。

 それが、終戦60年の昨年、韓国・朝鮮にとっての「植民地解放60年」を迎えて、にわかに外交の表舞台に浮上してきたのです。

 日本外務省の発表によれば、平成17年5月の日韓外相会談で話題の一つとなり、韓国の潘基文(バンキムン)外相が「同碑『返還』は日韓関係、ひいては南北関係の改善にも資する。日本側の積極的な対応を期待する」と述べたのに対して、日本の町村信孝外相が「引き続き靖国神社とも相談しつつ、誠意を持って仲介したい」と応じました。

 6月にソウルで行われた小泉純一郎首相と盧武鉉(ノムヒョン)大統領との日韓首脳会談でも取り上げられたのに続いて、韓国政府から日本政府に対して正式に打診があり、他方、同じ6月の韓国・北朝鮮の閣僚級会談で「返還」に向けた協力が合意文書に盛り込まれた、と日韓双方のメディアなどが伝えています。

 8月上旬に日本外務省から靖国神社に文書で「南北間の調整が整った」との通知があり、これを受けて神社は「引き渡し」を最終決定し、10月12日に神社内で、神社と韓国大使館、日本外務省の代表者が出席して引渡式が行われ、合意文書が調印、交換されました。

 引渡式には同碑の「移送」運動を進めてきた日韓仏教関係者らが来賓として同席し、内外のメディアが集まりました。式の数日前には、神社関係者のほか韓国大使館代表者などが参列して、同碑の清祓式が行われました。

「略奪」でない以上、「返還」ではありません。だからこそ合意文書は「引き渡し」と表現しています。また里帰り運動を進めてきた日韓仏教関係者は「移送」と呼んできました。「略奪」「返還」の表現はもっぱら韓国メディアが使ってきたのです。「日露戦争当時は朝鮮の国全体が日本に奪はれていた」というような歴史理解があるからです。

 しかしこの理解も一方的でしょう。

 たとえば古くから朝鮮には国家が祭祀を行う殿と陵、祭祀が公認されている祠と院があり、名儒賢臣をまつる祠・院には、北関大捷碑にも記述されている、秀吉の朝鮮出兵の際、陸戦で日本軍を迎え撃った権慄や、水軍を率いて日本軍を撃破した李舜臣の祠もあったのですが、日本統治時代にはこれらが公認されています。

 朝鮮総督府は、いわば旧敵である「朝鮮の英雄」の祠廟を公認し、祭祀を認めていたのです(『施政二十五年史』朝鮮総督府、昭和10年)。「国全体が奪われていた」と単純にはいえないのではありませんか。


▢5 「A級戦犯」東郷外相は陶工の子孫

 ついでにもう一つ、日米開戦および終戦時の外相を務めた東郷茂徳についてお話しします。中国と同様、韓国は「A級戦犯をまつる靖国神社」に批判的ですが、東郷元外相は、そのA級戦犯の一人で、そしてじつは沈寿官氏と同様、秀吉の朝鮮出兵の際、日本に連れてこられた朝鮮陶工の子孫です。

 文禄・慶長の役は別名「茶碗戦争」といわれますが、なぜ多くの陶工が朝鮮から連れてこられたのでしょうか。

 薩摩焼14代・沈寿官氏(『韓国のやきもの3 李朝』淡交社、1977年)によると、インド以西の国々では宝石が美の頂点です。しかし中国や朝鮮には玉(ぎょく)を美の頂点とし、金・銀と続く美の体系があります。ところが日本は違います。宝石も玉も産しないからです。室町時代に中国や朝鮮から入ってきた陶磁器の美しさに日本人は目を見張ります。やがて陶磁を頂点とする美の体系が組み上げられました。

 文禄・慶長の役当時、朝鮮には見事な粉青沙器(ふんせいしゃき)の名品がありました。ここに多くの陶工が日本に連行されることを余儀なくされた理由がある──と沈寿官氏は書いています。

 しかしもっと興味深いのはその先の歴史です。江戸時代になり、日朝の和平が急転し、陶工たちをすべて朝鮮に帰還させることが国家間で約束されたにもかかわらず、帰還者が集まらなかったのです。囚われの身のはずの陶工たちは異国の日本であたたかく保護されたため、喜んで帰国するどころか、逆に特権者たちが専制支配する暗黒の故国に帰ることを欲しなかったのです。

 運命に翻弄され、日本に連れてこられた陶工たちに切々たる望郷の思いがなかったはずはありません。けれども沈寿官氏によると、儒教によってきびしく律せられる朝鮮の身分社会では、工人はもっとも卑しい人種とされ、名もなく貧しい生き方を押しつけられたのでした(『韓国のやきもの2 高麗』淡交社、1977年)。

 それが日本では帯刀さえ許された。とすれば、朝鮮陶工たちが帰国ではなく、帰化を選んだとしても不思議はありません。『朝鮮王朝実録』によれば、帰還者はわずかに5720人、「九牛の一毛」でしたが、それは当然の結果といえます(内藤雋輔『文禄・慶長役における被擄人の研究』東京大学出版会、1976年)。

 朝鮮陶工にとって帰国と帰化のいずれが幸せだったかは分かりませんが、薩摩焼の里・鹿児島の苗代川にとどまった沈寿官氏や東郷元外相の祖先たちは、丘の上に朝鮮建国の祖・檀君(タングン、だんくん)を祀る玉山宮(たまやまぐう、玉山神社)を建て、沖合に浮かぶ甑島(こしきじま)の島影に望郷の心を慰めました。

 陶工たちは秋祭りには故国・朝鮮の礼服を着て、歌い、舞い、踊りました。お祓は戦前まで朝鮮語で行われました。祭りの歌や祝詞は朝鮮語が使われ、いまも旧家にはカタカナ表記の朝鮮語やハングルの古文書が残されているそうです。

 玉山神社では、東郷が外相として初入閣したとき、健康と奮闘を祈る祈願祭が行われ、境内は参列者であふれました。

 日米開戦への道を回避するために心血を注ぎ、非戦に努力することを約束しての入閣でした。あえて火中の栗を拾ったのですが、日米交渉が行き詰まり、戦争が始まります。大東亜省設置に反対して辞任し、野に下ったとき、娘いせが結婚しました。相手の親戚筋の祖先は秀吉の時代に朝鮮に出兵した武将でした。まさに歴史の妙といえます。

 東京裁判は全体的共同謀議と侵略戦争の責任を問い、東郷元外相に「禁固20年」を言い渡し、その2年後、元外相は獄中で亡くなりました。

「戦犯」の汚名を着せられたとはいえ、日本人の多くは元外相を尊敬してやみません。東郷元外相の生家の庭に建つ頌徳碑には「終戦工作の主役を演じ、大業を完成し、国家と国民を救った」と結ばれています(萩原延壽『東郷茂徳』原書房、1985年、東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』文藝春秋、1993年など)。

 一昨年の暮れ、鹿児島県指宿で小泉首相と盧武鉉大統領との日韓首脳会談が開かれた翌日、大統領は韓国名誉総領事の沈寿官氏を苗代川に訪ねました。しかし残念なことに、あれほど「正しい歴史理解」を強調する大統領が、目と鼻の先にある東郷元外相の生家に足を向けることはありませんでした。そのことを伝える報道もありませんでした。


▢6 韓国仏教関係者からの「感謝状」

 さて、話をもとに戻しましょう。

 昨年10月下旬、韓国に到着した北関大捷碑は、「植民地解放60年」を記念してソウルに開館した新国立中央博物館に展示されたあと、今年3月、北朝鮮に里帰りしました。

 韓国メディアは「返還」と表現していますが、北関大捷碑が靖国神社で保管されていた状態のまま北朝鮮に運ばれたのかといえば、そうではありません。

 同社にあったときには台座も最上部も荒削りの自然石でしたが、韓国の新聞報道によると、韓国国立文化財研究所が成形された台座と最上部に「復元」したのです。日本の研究者によると「亀扶(きふ)」と呼ばれるもののようですが、なぜそのような「復元」がなされたのか、韓国メディアがどのような根拠に基づいて「復元」と表現しているかは明らかでありません。

 それにしても、北関大捷碑の1世紀ぶりの里帰りを、北朝鮮メディアは歓迎するどころか、「侵略と破壊・略奪を告発する証拠」と強い調子で批判しています。なぜそこまで批判しなければならないのでしょう。わずかな慰めは、長年、「移送」を靖国神社に働きかけてきた韓国の仏教関係者が昨年10月、同社に「感謝状」を贈ったことでしょうか。

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