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戦没者を「神」として祀る靖国神社の伝統 ──「非宗教化」に反論する五つの視点 [靖国神社]

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戦没者を「神」として祀る靖国神社の伝統
──「非宗教化」に反論する五つの視点
(「神社新報」平成18年8月21日号)
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 この記事が新聞に掲載されるのは終戦記念日のあとだから、注目される小泉首相の参拝のことなど靖国神社を取り巻く状況はさらに進んでゐるに違ひない。だからここに書きつづることは読者には旧聞と映るかもしれないが、避けて通るわけにはいかないと思ふので、あへて書くことにする。

 それはこの数週間、ポスト小泉に名乗りを上げる政治家などが口にしてゐる靖国神社の「無宗教化」である。いはゆるA級戦犯(靖国神社がいふ昭和殉難者)の「分祀」を目的とする国立施設化はじつは非宗教化であって、したがって明治天皇の聖旨に基づく創建以来の祈りの伝統を破壊し、神を冒涜することにほかならないことを指摘しないわけにはいかない、と思ふからである。


▽ 「分祀」目的の国営化

 たとへば先月末、自民党の古賀誠・元幹事長は、テレビ番組に出演し、「国民全体が尊崇の念をもてる施設として残すためには無宗教化があっていい」と語った。激しさを増す靖国批判に日本遺族会会長の立場から反論する、といふのならまだしも、逆に神社の宗教法人格を外すことに含みをもたせ、A級戦犯の合祀を取り下げるといふ意味での「分祀」を促す発言をしたと伝へられる。

 古賀氏は、徴兵で召集され戦死した一般戦没者と戦争指導者とは区別すべきであり、いっしょに祀られるべきではない、といふ考へで、「分祀」の検討を以前から主張し、「国家護持の施設として宗教法人格を外す議論を始めないといけない」と述べてゐる。

 古賀氏は靖国神社の総代でもあったが、「分祀」に関する考へ方の相違から、さすがに総代を六月に辞任してゐる。けれども遺族会は自民党の総裁選後、「分祀」論の本格的議論を開始させると伝へられてゐる。

 続いて自民党の中川秀直政調会長は今月六日、テレビ番組などで「国が責任をもち、非宗教法人で誰を合祀するかは政府が決めるといふかつての(靖国神社)法案のやうなものを党と(日本)遺族会とで検討していくべきだ」と、A級戦犯「分祀」を視野に入れた非宗教法人化の考へを述べたといはれる。

 さらにその二日後、麻生太郎外務大臣は、靖国神社が自主的に解散したあと、国立の特殊法人の国立施設に移行し、祭式は非宗教的・伝統的なものに変更する、慰霊対象は国会審議で決定する、とする非宗教法人化への見解を発表した。A級戦犯「分祀」を可能にする案で、谷垣禎一財務相も賛同したと伝へられる。

 これらの主張は、たとへば麻生氏が「靖国神社の代替施設はあり得ない」とし、「神社を可能な限り政治から遠ざけ、静謐な祈りの場として、未来永劫に保っていく」ことが必要だと強調してゐるやうに真摯な考へではあらうが、結局は靖国の祈りの伝統を蔑ろし、戦没者慰霊についての世界的な流れからもかけ離れてゐるといへる。靖国問題の解決はA級戦犯「分祀」か国立追悼施設建設かのいづれかの選択しかない、とする短絡的思考は認めようがない。

 まづ第一に、靖国神社はいまは民間の一宗教法人だが、これは終戦直後の占領下に宗教法人化しなければ廃止のやむなきに陥る、といふせっぱ詰まった状況下で苦渋の選択をしたといふのが歴史の真実である。

 国の非常時に命を捧げた国民を慰霊する責務をまづ果たすべきなのは、間違ひなく国である。国家同士が激しく火花を散らした近代といふ過酷な時代に、国の中心的慰霊施設として機能してきたのが靖国神社であり、戦後は国に代はって日々、祭祀が斎行されてきた。

 その歴史は簡単に忘れられるべきではない。

 第二に、A級戦犯の合祀は靖国神社が勝手に進めたことではない。

 殉国者を認定できるのは国以外にはない。A級戦犯の十四人が合祀されたのは、東京裁判で絞首刑になった七人、公判中に病死した二人、受刑中に死亡した五人の死を、日本政府が公務死と認めたからである。

 もし日本政府として靖国神社のA級戦犯合祀を問題視するのなら、国が認定した十四人の公務死を取り消し、戦犯遺家族に支払った年金などを返還請求しなければならないだらう。そんなことができるだらうか。

 第三に、前線で戦ひ落命した一般戦没者と戦争指導者とは区別すべきであるといふ考へもおかしい。国は分け隔てなく戦没者と認めたのであり、だからこそ神社も一座の神として祀ってゐる。徴兵され命を落とした兵士以外は「分祀」すべきだといふことになれば、合祀されてゐる外交官や警察官、樺太・真岡の女性郵便局員や沖縄・ひめゆり部隊なども「分祀」しなければならなくなる。

 そもそも一部の祭神の合祀を取り下げる、といふ意味での「分祀」はあり得ない。一座に合はせ祀られてゐる神霊を分割することは不可能だし、神霊をよそに分けたとしても元の神霊はそのまま残る。これが日本人の伝統的霊魂観である。

 第四に、靖国神社の国家機関化はむしろ神社側が表明してきたことである。数年前にも、そして最近も神社の最高責任者が「いづれは国にお返ししたい」と表明してゐる。

 殉国者の慰霊は国家の責務であり、この六十年、靖国神社の慰霊に国が主体的に関はれなかった歪さこそ正されなければならない。しかしだからといって、百数十年の歴史と伝統を曲げるべきではないし、憲法の政教分離の原則からいってもその必要はない。

 なぜなら、たとへば厳格な政教分離主義の本家本元であるアメリカではワシントン・ナショナル・カテドラルといふキリスト教会で国の慰霊行事が行はれてゐる。靖国神社を全体的に非宗教施設に移行させる必要はない。靖国批判に余念のない韓国では国立墓地で宗教者による慰霊式が催されてゐる。祭式を無宗教化する必要はない、といふことになる。


▽ 国民の祈りの重み

 最後に、なぜ日本では戦没者を神として祀ってきたのか。靖国神社はなぜ神社といふ形態をとってきたのか、その本質をあらためて考へてみるべきではないだらうか。

 イギリスでは十一月の戦没者追悼記念日に記念碑セノタフで国王や政府関係者が参列する式典が催され、追憶と感謝が捧げられる。宗教儀式もあるが、戦没者はGodではない。セノタフより古い歴史をもつ靖国神社が、殉国者を神として祀るのは、近世の義人信仰を引き継ぐもので、これ以上丁重な戦没者に敬意を表する方法が考へられないからではないか。

 靖国神社の本殿には大都会の真ん中にありながらも、外界の喧噪とは隔絶した静寂があり、社頭では気づかない神気が漂ってゐる。ここに神あり、として日本国民が日々、捧げてきた祈りの重みが迫ってくる。

 国家存亡のときにかけがへのない命を捧げた戦没者たち、私を去って公に殉じた精神を神として祀ってきた歴史を、なぜいま否定しなければならないのであらうか。

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