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撤去されたクリスマス・ツリー [政教分離]


以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年12月13日水曜日)からの転載です

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撤去されたクリスマス・ツリー
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 この時季、夜の街を華やかに彩るクリスマス・イルミネーションが各地で話題になっています。そんなとき、アメリカから興味深いニュースが伝えられました。シアトル近郊の国際空港に飾られていたクリスマス・ツリーが撤去されたというのです。

 ユダヤ教の指導者が、「ユダヤ教の燭台(メノーラー)も設置せよ。そうでなければ法的手段に訴える」と主張したのでした。ユダヤ教の燭台を設置すれば、それ以外の宗教シンボルの設置をもとめる声が上がる可能性がある。というわけで、当局は撤去を決めたのです。

 ところが、この話題には第2幕があって、これがまた面白い。当局は撤去の2日後、ツリーの再設置を発表したのです。「撤去」がマスコミに大きく報じられると、「復活」をもとめるメールが空港に殺到したといいます。「撤去」を要求していたわけではない、くだんのユダヤ教指導者も「提訴しない」と譲歩を表明し、これを受けて空港側が再設置を決めたのでした。

 アメリカでは、公共の場にキリスト教のシンボルであるツリーを飾ることが「政教分離」に反するのではないか、という議論が以前からあるようですが、それでは日本ではどうでしょうか。

 たとえば、さいたま新都心の「けやきひろば」では、イルミネーション「ANGEL WINK」が来年2月まで実施され、クリスマス前後には「サンタ・サンタ・サンタ」などのイベントが実施されます。国営昭和記念公園では3500個のシャンパングラスを積み上げたオリジナル・ツリーが今年もクリスマス当日まで来園者を魅了することになっています。

 問題はこれが憲法が定める「政教分離」原則に抵触するのかどうかです。

 政教分離問題にくわしい研究者はこう語ります。

「クリスマスのような宗教的行事は観光政策上は認められていい。公機関と宗教との関わりは一定の範囲で肝要に認められるべきだ。違法か合法かの法的判断は、宗教性の濃淡、支出される公金の額によって、個別的に判断されるべきである」

「政教分離」問題に厳しい態度を示してきたのはキリスト者たちですが、キリスト者はどう見ているのか、といえば、じつに歯切れが悪いのです。

 あるプロテスタントの牧師はこう語っています。

「キリスト者が問題にしてきたのは靖国神社や護国神社と国家との関わりである。クリスマス・イベントなどキリスト教と国家との関わりについては議論したことがない」

 これではまるで、憲法の政教分離原則は神社・神道を規制するためだけにある、ということになってしまいます。「敵を愛しなさい」とはキリストの言葉ですが、日本のキリスト教指導者は他宗教の批判にばかり血道を上げているということでしょうか。 

 それにしても、なぜこんなにもクリスマス・イルミネーションが当世、流行るのでしょうか。その答えはクリスマスとは何か、という問いに答えることでもあるでしょう。

 ヨーロッパのクリスマスは古代の冬至の祭りに由来するといわれます。初期キリスト教団がキリストの生誕を祝うことはありませんでした。

 12月25日がキリストの誕生日であるなどとは聖書には書かれていません。この日はローマの古い暦では冬至であり、ローマ帝国で信仰されていた太陽神ミトラの誕生を祝う日でした。ミトラの祭日をキリスト誕生の祭日と定め直したのが今日のクリスマスといわれます。

 やがてキリスト教がローマの国教となり、キリストは「世の光」「義の太陽」と宣言されるようになったのです。クリスマスが光の演出によって祝われるのにはそのような背景があります。

 日照時間が最短となる冬至は、太陽が生まれ変わる日であり、年が改まる節目である、という考えは日本人の自然観と共通します。実際、火と光をモチーフにした冬至の祭りが各地の神社などに数多く伝えられています。

 各地で行われているクリスマス・イベントに日本人が心を騒がせるのは、精神の深層レベルでは冬至の祭りとして意識されているからではないでしょうか。
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