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相次いで亡くなった日韓の架け橋 [神社人]

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相次いで亡くなった日韓の架け橋
──高麗澄雄宮司と黄慧性さん
(2006年12月26日)
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 古代と現代の日本と韓国とをむすぶ、じつに印象深い2人の方が今月(平成18年12月)、相次いで亡くなりました。お一人は、埼玉県日高市にある高麗神社の高麗澄雄宮司さん。もう1人は、韓国の宮廷料理研究家・黄慧性(ファン・ヘソン)さんです。

 高麗神社のある日高市はかつては高麗郡でした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には駿河、甲斐など7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を置いた、と記されています。霊亀3年(716)のことでした。

 祖国滅亡という悲劇のあと、朝鮮半島から亡命してきた高句麗の遺民によって神社は建てられたのでした。祭神は高麗王若光といい、高麗宮司さんはその末裔で、59代目とのことでした。

 ある年の暮れに神社を訪ねたとき、宮司さんは「オヤジのころ」の話を聞かせてくれました。

「オヤジは2つ、イヤだと思ったことがある、といっていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」

 神社にお詣りする人を警察は警戒していたようです。もう1つは

「朝鮮人は各警察署ごとに『協和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことでした。

「警察はオヤジに『立派な日本人になるようにいってくれ』と頼んだ。そういわれるのがオヤジはイヤでイヤで仕方がなかった」

 戦時中の高麗神社は、「一方では監視され、一方では利用される対象だった」ようです。

 そのころ警察に連れてこられた在日の人たちがいまも参拝にやってくるのですが、宮司さんにいわせると

「むかしはいやだったが、いまはここに来るとホッとする、というんだ」そうです。

 神社には外交官や経済人もやってきます。時代が代わり、いまや高麗神社は在日の人たちの心の故郷となっているようです。それは祭神である高麗王若光の子孫が神社にいるからです。

「韓国人が日本人の悪口をいうのも腹が立つが、オレは日本人が韓国の悪口をいうのも腹が立つんだ」

「高麗郡建郡1300年まで長生きして、神社主催で盛大に祝おうと思うんだ」

 と語っていた宮司さんは、晩年は杖を必要とする不自由な体でしたが、誰の世話になることもなく生活し、亡くなる数分前まで近所の人と談笑して、その後、ひとり静かに旅立ったそうです。79歳でした。

 黄慧性さんは忠清南道の裕福な両班の家庭に生まれ、日本の女学校に学んだあと、長年、朝鮮の宮中料理を研究しました。重要無形文化財に指定され、ソウル大など各大学の教壇に立ち、後進の養成に尽くしました。

 韓流の人気ドラマに便乗して、「チャングムの母」と呼ぶ人もいますが、韓国文化にくわしい友人によれば、黄慧性さんこそチャングムその人でした。じつは友人が「韓国のお母さん」と親しんで呼ぶのが黄慧性さんです。友人が留学中、韓国人と韓国文化のすばらしさを学んだのは黄慧性さんとその家族との交流があったればこそでした。

 逆に、黄慧性さんの偉大さは日本と日本人をしっかりと理解し、評価していたことにあります。戦後、失われかけていた朝鮮の宮廷料理を研究できたのは、日本時代に朝鮮総督府が李王職を設け、宮廷文化を保存、記録していたからでした。

 何年か前、友人につれられてソウルを旅したとき、南山の宮廷料理の店で、優雅なチマチョゴリ姿の黄慧性さんが語った言葉が印象的でした。

「最近の人はすぐに栄養学的な意味を考えようとする」

 国王が毎日、食する宮廷料理には儒教的な意味づけがある、それが現代の韓国人には理解できない、と嘆くのでした。

 韓国の文化をきちんとした日本語で説明してくれた黄慧性さんは長い闘病生活のあと、日本と日本人を愛した多くの韓国人のあとを追うようにして、この世を去りました。86歳でした。

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