SSブログ

長崎の「二十六聖人」追悼ミサ [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月6日火曜日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
長崎の「二十六聖人」追悼ミサ
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


26seijin.gif
 昨日、長崎の二十六聖人殉教地で追悼のミサが行われ、信徒ら2800人が参列したそうです。二十六人がこの地で「殉教」したのは410年前の2月5日でした。

 近世のキリシタン迫害はとても正視に耐えられるものではありません。宗教的に寛容なはずの日本でこのような宗教弾圧が起きたことは信じがたいほどです。だとすれば、なぜそのような「迫害」が起きたのか、たとえば二十六人はなぜ「殉教」することになったのか、そしてなぜ「列聖」したのか、冷静に、客観的に検証してみる必要があります。

 慶応大学の高瀬弘一郎教授(キリシタン史)によると、大航海時代、カトリックの布教はポルトガル・スペイン両国王室の後援によって推進されましたが、海外布教は国王の信仰に発するものではなく、教会法に基づいていました。ローマ教皇は両国諸侯に「布教保護権」を与え、未知の世界に航海して武力で異教世界を奪い取り、植民地としてこれを支配し、交易などをする独占的な権限を与えました。

 こうして両国の海外進出はカトリック世界の拡大をもたらし、地球は両国によって2分割されました。

 天文18年(1549)のザビエルの来日以来、日本はイエズス会の宣教によって「布教保護権」が及ぶことになり、1575年設定の「マカオ司教区」には日本が含まれていることがグレゴリオ13世大勅書に明記されています。

 このとき日本教会の保護者はポルトガル国王であり、日本は潜在的なポルトガル領と定まったのです(高瀬『キリシタンの世紀』など)。日本は知らぬ間にポルトガルの領土にされていたのでした。

 キリシタン大名の大友、有馬、大村、高山氏の領地では領民の多くが領主から事実上、強制的に改宗させられ、神社やお寺が破壊されました。バテレンにとっては、たとい強制的ではあってもキリスト教への改宗は神の御旨(みむね)にかなうことであると正当化されましたが、信長に代わって天下統一を目指す秀吉には当然ながら「邪教」と映りました。

 九州征伐の帰途、天正15年(1587)に秀吉はバテレン追放を命じます。禁教令には

「日本は神国であり、邪法をもたらしたのは良くない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 とあり、さらに

「日本人を明、朝鮮、南蛮に売り渡すことを禁止する」

 とも記されています。バテレンたちは奴隷貿易まで展開していたのでした。

 事件が起きたのはその8年後でした。文禄5年(1595)、スペインの豪華船サン・フェリペ号が暴風のため土佐の浦戸沖合に漂着しました。スペインは日本と国交はありませんでしたが、フランシスコ会のバウチスタ神父を「大使」として日本に置いていたことから、乗組員と積み荷は安全が保証されるものと考えていました。

 一方の秀吉はそうではありません。スペインとの通商の保証として「人質」となってとどまることを申し出ていたバウチスタ神父を、申し出のままに日本にとどめておいたという理解です。

 ところが、そのうち乗組員から「不用意な発言」が飛び出します。

「領土を得るのに宗教は役立つ」

 というのです。キリスト教布教の目的は「侵略」にあるということです。報告を受けた秀吉が激怒したのは無理もありません。そして二十六人の「殉教」へと事態は進んだのでした。

 フロイスの「日本史」全12巻の共訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一教授によると、のちに難破したサン・フェリペ号の積み荷と殉教者の遺骸の引き取りを要求してきたフィリピン総督に対する返書に秀吉はこう書いています。

「バテレンが異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに僧侶たちは帰国せず、異国の法を説いてやまぬので、誅戮せしめた。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲している……」(松田『豊臣秀吉と南蛮人』など)

 天下を統一し、「朝鮮征伐」どころか、明への遠征までも考えていたという秀吉であればこそ、キリスト教の「侵略性」に敏感であり得たということでしょうか。二十六人の「殉教」にはそれ相当の理由があったということになります。

 秀吉に続く徳川幕府もキリシタンを迫害・弾圧しました。しかし、その苛酷さが過度に強調される傾向があるようです。松田教授は、日本のキリシタン殉教史が「日本宗教史上、最大の迫害と殉教である」と認めたうえで、

「徳川幕府のキリシタン宣教師と信徒に対する拷問と処刑が世界に類を見ないほど残酷であったとはいいえない」

 と述べています。

 松田教授によれば、日本の殉教者の数は、信仰のため殺害された者3171人、獄中または飢餓その他迫害で死亡した者874人、と教会が昭和26年に発表しています。

 アジアでは日本のほかに中国や朝鮮、インドシナでの殉教史が知られていて、朝鮮では1801年の辛酉の大迫害で140人、1839年の己亥の迫害で78人が殉教し、インドシナでは宣教師や信徒3万5000人が殉教しています。

 イギリス、オランダ、ロシア、メキシコ、アフリカで、あるいはフランス革命時にカトリックが迫害された歴史がありますが、他方、カトリックがプロテスタントを迫害した例もあります。1572年のサン・バルテルミーの大虐殺は有名で、フランス全土での殉教者は5万人に達しました。

 もっとも悲惨なのはヨーロッパおよびその植民地で展開された宗教裁判で、異端審問所が魔女裁判を管轄すると、拷問や処刑は陰惨を極めました。

 スペインの異端審問中央本部の初代長官トルケマーダは在職中、9万人を終身禁固にし、8000人を火刑に処しました。宗教裁判はカトリック国でもイギリスでも行われました。ヨーロッパでの宗教裁判では数十万から数百万が処刑されたと推計されています(松田『キリシタンの殉教』)。

 さて、それでは二十六人がなぜ「列聖」したのかです。二十六人が「聖人」となるのは処刑から265年後、日本では江戸時代末期の1862年です。

 不思議なことに、「殉教」を書きつづった文献はたくさんあるのですが、「列聖」の理由と経緯についての資料はほとんど見当たりません。ほとんど唯一の資料と思われるのは昭和6年に翻訳発行されたレオン・バジェスの『日本廿六聖人殉教記』です。

 これによると、「殉教」には、

①迫害による死か、
②宗門のための死か、
③自分の意志による死か

 ──の条件があるといいます。そして、「殉教者」が「聖人」かどうかは神自身が「奇蹟」によって証明する。教会は慎重な態度でこの証明を待つのだ、と説明されています。

 二十六人の場合、処刑のとき十字架上に火の柱が出現し、夜なのに周囲が明るくなった。星々に囲まれた女性が現れた。処刑者の遺体が腐敗しなかった。刑場で死んだはずの宣教師が教会でミサをあげているのが目撃された、といわれます。

 処刑から7年後の慶長8年(1603)、京阪地域のキリシタンから「列聖」の請願書が提出され、1616年には法王庁の調査が始まりました。十数年後、法皇は二十六人について「殉教者」のためのミサをあげることを許可し、「列聖」の前段階としての「列福」の栄誉を授けました。

 けれども、その後、「列聖」の本調査が許可されながら、

「積極的な措置がとられなかった」

 といいます。それはなぜなのか、『殉教記』は理由らしい理由を記述していません。

 フランシスコ会トマス・オイテンブルク神父の『十六〜十七世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』によれば、17世紀初頭の法王庁は多くの列福訴訟を審議中で、多忙を極めていました。けれども二百数十年を経て、日本は安政元年(1854)に外国人に門戸を開き、同6年には宣教師の再入国を許可します。その結果、二十六人の「列聖」が促進されたというのです。

 しかし、日本の開国だけが理由なのかどうか、疑問が残ります。

『キリスト教史』などによると、19世紀初頭、ヨーロッパでフランス革命の熱狂とナポレオン戦争の殺戮が収まると、18世紀の啓蒙思想が疑われ、カトリック教会は復興の時を迎えました。ガラガラの修道院と神学校にふたたび人材が集まり、解散されられていた、日本布教の先駆けであるイエズス会は再建されます。

 1846年、教皇ピウス9世が登位します。教皇は第一バチカン公会議を開き、「教皇の不謬権」の教義を確立させた人として知られ、反自由主義的な態度で教皇権を強化しました。32年間の在位中、世界宣教が奨励され、ヨーロッパの植民地拡大と並行してカトリック教会は海外に向かって発展します。

 日本宣教に関しては、プロテスタント宣教師が日本の「お雇い教師」として入国し、教師や医師として日本人と直接接触して布教活動を展開したのに対し、カトリックの宣教師は在留フランス人のためにフランス国家から派遣されていて、日本社会との直接的関係を持たなかったといいます。

 プロテスタントに対抗するため、カトリックはまずゴシック様式の荘厳な天主堂を建設しました。文久2年(1862)には横浜に天主堂が建ち、同4年には長崎・大浦に「二十六聖人」を記念する天主堂が竣功します。アジアで唯一の「聖人」である二十六人が日本宣教のため大いに利用されたであろうことは十分に推測されます。

 さて、この二十六聖殉教者天主堂、通称、大浦天主堂は昭和8年に国宝に指定されています。

 今日、教会指導者たちが靖国批判を目的に「迫害」の典型例としてしばしば取り上げる上智大学生靖国神社参拝拒否事件が起きたさなかの国宝指定です。先述した『殉教記』も同じ時期に出版されています。

 事件の当事者たちが手記などに書いているように、キリスト教が「迫害」されていたなどという歴史はないことの証明といえるのではありませんか。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。