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ぶり返される戦争責任論 [慰安婦]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月9日金曜日)からの転載です

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ぶり返される戦争責任論
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 来週の15日にアメリカ下院外交委員会で開かれる日本軍慰安婦聴聞会にオランダ人元慰安婦が証人として発言する、と韓国の中央日報が伝えています。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=84460&servcode=500§code=500

 記事によると、この女性は、

「慰安婦問題に対して日本政府が公開で謝罪しなければならない、という内容の慰安婦決議案がアメリカ下院で成立してほしい」

 と語り、証人出席要請を快諾したのだそうです。

 80代半ばの老境に達したこの女性も、記事を書いた記者も、日本政府の謝罪を望んでいるのでしょうか。

 日本軍が占領統治したインドネシアでオランダ人が慰安婦にされた歴史は、残念ながら事実のようです。

 慶応大学の倉沢愛子教授によると、インドネシアでは当初、現に売春を営んでいる者のなかから本人の自由意思に基づいて「慰安婦」が採用されたといいます。やがてオランダ人女性が目をつけられ、収容所から「強制的」に連れ出された女性もいたのでした。

 戦後の戦犯裁判では、このオランダ人慰安婦問題に関して、13人が起訴され、1名が死刑、10名が懲役刑となりました(ジャン・ラフ=オハーン『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語』の倉沢教授の「解説」)。

 法に違反した者は法によって裁かれ、その罪を償ったのです。

 一方、次のような歴史も伝えられています。「文藝春秋」昭和34年10月号に掲載された「白い肌と黄色い隊長」と題するエッセイには、ホッとさせられる、ある抑留所の秘話が紹介されています。

 ──この抑留所には1800人の婦女子が収容されていたが、総督令嬢や知事夫人、市長夫人など反抗的、ヒステリックな女性たちは扱いづらかった。
 そのなかで山地正二所長(27歳、海軍二等兵曹)はヨーストラ夫人というリーダー格の協力を得、抑留者の自治を認めて、安心して生活できる抑留所づくりに努力した。新しい宿舎のほかに診療所や老人ホーム、教会や学校が建てられた。200台のミシンが導入され、農園もつくられ、自給自足の体制ができあがる。
 衣服や靴、食器、鏡、石けんなども支給され、抑留所は「女の楽園」の異名をとる。明るく秩序のある模範的存在として知られ、陸軍から見学者も訪れるほどだったが、民生部長官の決裁で慰安婦の提供を求められたときにはさすがの山地も頭を抱え込んだ。
 悩んだ末に大河原長官に決死の直訴を試み、やがて慰安婦採用は不許可になる。
 終戦後、ヨーストラ夫人は「人間山地はわれわれか弱い婦女子をよく理解し、民族を超越した人間的なあたたかい愛情を注いでくれた」と感謝の言葉をささげ、2451名の抑留者は山地への感謝状に署名した。視察にやってきた連合国軍の調査団は「抑留所内に学校があるというのは連合国内のも見られない。感謝と敬意を表する」と山地に握手を求めた。
 のちに本国オランダに帰国したヨーストラ夫人は「オランダ金鵄勲章(きんしくんしょう)」を授与され、山地との交流も続いた。

 このエッセイによると、戦争の記憶はけっして悲惨なものばかりでないことが分かります。

 インドネシアでの戦犯裁判では236名が死刑に処せられ、サンフランシスコ条約に基づいて日本政府は抑留民間人への補償金1000万ドルをオランダ政府に支払いました。

 にもかかわらず、オランダの日本に対する「戦争責任」の追及はやみません。それはなぜなのでしょう。

 元慰安婦がアメリカ議会で証言するとのことですが、誰にでも言論の自由があり、発言権はあるけれども、恨みを残す生者の証言によってのみ歴史を判断することは公正とはいえないでしょう。元慰安婦たちが心に負った傷は深いかもしれませんが、すでに死んだ者たちには発言権さえありません。

 アメリカ下院は元慰安婦の証言をどのように判断するのでしょうか。

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