雪中行軍遭難者が合祀されない理由 [靖国神社]
以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月20日火曜日)からの転載です
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雪中行軍遭難者が合祀されない理由
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青森の東奥日報によると、14日に八甲田山で発生した雪崩事故の捜索に加わった陸上自衛隊の隊員が、毎年恒例となっている演習中の昨日、八甲田雪中行軍・後藤伍長銅像前で、両方の犠牲者の死を悼む捧げ銃の追悼式を行いました。
新田次郎の小説でひろく知られるようになった八甲田雪中行軍遭難事件が起きたのは明治35年1月、冬季訓練に参加した210名中199人が死亡するという日本の冬山登山史上最悪の事故といわれます。立ったまま仮死状態で発見されたのが後藤伍長でした。幸いにして生き残った将兵も重い凍傷にかかり、四肢を切断せざるを得なかったといわれます。
まことに苛酷な事故ですが、犠牲になった将兵は靖国神社にはまつられていません。戦時の戦死ではなく、平時の殉職だからです。
そのことについて、戦前、30年の長きにわたって宮司をつとめた賀茂百樹が、当時最先端のメディアであるラジオで講演したことがありました。柳条湖事件で満州事変が始まってから半年、昭和7年4月のことでした。
戦時色が強まりつつあった時代ながら、その時代でさえ靖国神社は誤解されていました。いまと同じように、「靖国神社は軍人ばかりをまつっている。不公平だ」という批判があったのです。それどころか「警察官や鉄道員も公平にまつるべきだ」という署名運動が起こり、しかもその署名簿に名士の名前がずらりと並んでいることに衝撃を受けたのが、賀茂宮司の講演のきっかけでした。ある種、リベラルな時代だったといえます。
明治35年の青森・雪中行軍の殉職者は199人、同41年の軍艦松島爆沈では207人、大正7年の軍艦河内爆沈では615人、同11年の軍艦新高遭難事故では320人、しかしこれら平時の殉職者はひとりも合祀されてはいない、と賀茂宮司はマイクの前で語りはじめます。
「平時に殉職した軍人はおびただしい数にのぼり、各官衙の文官の殉職者総数をあわせても比較にならない。悲惨をきわめる多数の殉職者は気の毒千万だが、靖国神社にまつられてはおりませぬ」というのです。
それならどういう人が合祀されているのか。宮司はこう説明します。
「日本国民にして職役および事変に際して国難に殉じたものが合祀の栄典に浴するのです。国家危急のときに当たり、自己の生命を国家の生命に継ぎ足した、神たるの資格のあるものがまつられるのです」
戦時であれば、戦闘死でなくてもまつられます。「直接戦死にあらざるも、出征して死因が戦役に関係あるものは病死といえども、特別合祀の恩典に浴することとなっています」
「いつも軍人が国防の第一線に立ちますから、殉難するものが多く、したがって合祀される人も軍人が多数を占める結果となります」
しかし「軍人以外でまつられた人々は多数あります」として、賀茂宮司は地方官、外交官、鉄道員、警察官などをあげています。
なぜ戦時の殉難者をまつり、平時の殉職者はまつられないのか。宮司は次のように説明します。
「戦争の勝敗は国家興亡の分かれるところ、出征将士の責任は重大であり、一段の決心をもって生還を期しません。戦争における戦死や負傷は不意のケガではなく、覚悟の前の結果であります」
この覚悟こそが普通人の学びがたい精神であり、それゆえに古来、わが国では神として祀ってきたのだ、と賀茂宮司は述べています。
誤解のないように申し添えますが、「だから国家に率先して命を捧げよ」などと、国民を鼓舞しているのではありません。昭和9年、脳溢血で倒れた宮司が病床で口述した冊子の中で、こう語っています。
「カムナガラの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未発に防止し、平和を保障するのが最上である。国をとるとか、資源権利を獲得するためではない」
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雪中行軍遭難者が合祀されない理由
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青森の東奥日報によると、14日に八甲田山で発生した雪崩事故の捜索に加わった陸上自衛隊の隊員が、毎年恒例となっている演習中の昨日、八甲田雪中行軍・後藤伍長銅像前で、両方の犠牲者の死を悼む捧げ銃の追悼式を行いました。
新田次郎の小説でひろく知られるようになった八甲田雪中行軍遭難事件が起きたのは明治35年1月、冬季訓練に参加した210名中199人が死亡するという日本の冬山登山史上最悪の事故といわれます。立ったまま仮死状態で発見されたのが後藤伍長でした。幸いにして生き残った将兵も重い凍傷にかかり、四肢を切断せざるを得なかったといわれます。
まことに苛酷な事故ですが、犠牲になった将兵は靖国神社にはまつられていません。戦時の戦死ではなく、平時の殉職だからです。
そのことについて、戦前、30年の長きにわたって宮司をつとめた賀茂百樹が、当時最先端のメディアであるラジオで講演したことがありました。柳条湖事件で満州事変が始まってから半年、昭和7年4月のことでした。
戦時色が強まりつつあった時代ながら、その時代でさえ靖国神社は誤解されていました。いまと同じように、「靖国神社は軍人ばかりをまつっている。不公平だ」という批判があったのです。それどころか「警察官や鉄道員も公平にまつるべきだ」という署名運動が起こり、しかもその署名簿に名士の名前がずらりと並んでいることに衝撃を受けたのが、賀茂宮司の講演のきっかけでした。ある種、リベラルな時代だったといえます。
明治35年の青森・雪中行軍の殉職者は199人、同41年の軍艦松島爆沈では207人、大正7年の軍艦河内爆沈では615人、同11年の軍艦新高遭難事故では320人、しかしこれら平時の殉職者はひとりも合祀されてはいない、と賀茂宮司はマイクの前で語りはじめます。
「平時に殉職した軍人はおびただしい数にのぼり、各官衙の文官の殉職者総数をあわせても比較にならない。悲惨をきわめる多数の殉職者は気の毒千万だが、靖国神社にまつられてはおりませぬ」というのです。
それならどういう人が合祀されているのか。宮司はこう説明します。
「日本国民にして職役および事変に際して国難に殉じたものが合祀の栄典に浴するのです。国家危急のときに当たり、自己の生命を国家の生命に継ぎ足した、神たるの資格のあるものがまつられるのです」
戦時であれば、戦闘死でなくてもまつられます。「直接戦死にあらざるも、出征して死因が戦役に関係あるものは病死といえども、特別合祀の恩典に浴することとなっています」
「いつも軍人が国防の第一線に立ちますから、殉難するものが多く、したがって合祀される人も軍人が多数を占める結果となります」
しかし「軍人以外でまつられた人々は多数あります」として、賀茂宮司は地方官、外交官、鉄道員、警察官などをあげています。
なぜ戦時の殉難者をまつり、平時の殉職者はまつられないのか。宮司は次のように説明します。
「戦争の勝敗は国家興亡の分かれるところ、出征将士の責任は重大であり、一段の決心をもって生還を期しません。戦争における戦死や負傷は不意のケガではなく、覚悟の前の結果であります」
この覚悟こそが普通人の学びがたい精神であり、それゆえに古来、わが国では神として祀ってきたのだ、と賀茂宮司は述べています。
誤解のないように申し添えますが、「だから国家に率先して命を捧げよ」などと、国民を鼓舞しているのではありません。昭和9年、脳溢血で倒れた宮司が病床で口述した冊子の中で、こう語っています。
「カムナガラの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未発に防止し、平和を保障するのが最上である。国をとるとか、資源権利を獲得するためではない」
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