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天皇制存続を進言した賀川豊彦 [天皇・皇室]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月24日土曜日からの転載です

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 近代日本を代表するキリスト者の1人である賀川豊彦が、敗戦後の日本に進駐してきたマッカーサー総司令官に天皇制の存続を進言していたことはよく知られていることですが、あらためてこの事績と意義を紹介する、賀川の親族による論文が、最近、発行された賀川を記念するNPO法人の会誌に収録されている、と徳島新聞が伝えています。
 http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_117219459816&v=&vm=all

 終戦間もない昭和20年8月30日付の読売新聞には、

「マッカーサー総司令官に寄す」

 と題した賀川の長いコラムが載っています。

「日本人は最後まで戦うつもりでいました。たとえ身は焼かれても、粉砕されても、戦争は陛下の指揮のあるまで続けてゆかなければならぬことを、毛ほども疑った日本人は1人もなかった。それが、陛下の詔書によって戦争から平和へ完全に変向しました」

「陛下はあの御詔書で、この戦争の国民におよぼす困難を奪い、御身をもってお受けになられました。国民はこの詔書を拝して、泣いてわが身を懺悔しないものは1人としてありませんでした。国民はただ従来の自分の行為が、陛下の御期待に副い得なかったのを悔悟して、その自責の心を、陛下の御明示の如く、世界文化への貢献、世界平和への奉仕へと直ちに回心したのです」

「日本はいま詔書のお示しのままに、立派な世界国家として出発しようとしています。日本人の陛下に対するこの心情と人間としての実力とをもり育ててやるならば、日本の新世界奉仕の出発は予想より、はるかに強力になされるでしょう」

 賀川がマッカーサーと会談したのは翌9月21日のことでした。

 賀川にかぎらず、当時のクリスチャンが尊皇の意識の強かったことは多くの事実が示しています。たとえば、皇室史上、画期的な大正10年の皇太子御外遊に随行した随員には、珍田捨己(宮内省御用掛、供奉長、メソジスト)をはじめ、山本信次郎(海軍大佐、カトリック)、澤田節蔵(外交官、クエーカー)がいました。

 珍田は青森・津軽出身の伯爵で、のちに東宮太夫から侍従長にまでなっています。山本はカトリック新聞に御外遊について連載しています。澤田は公式な御外遊記の共著者の1人です。戦前の天皇制を側近として支えていたのがクリスチャンです。

 日本のクリスチャンの尊皇意識は、戦後しばらくは変わりませんでした。たとえば、昭和21年6月、昭和天皇の関西御巡幸の折、神戸にあるキリスト教女子教育では関西でもっとも古い歴史を持つ学校にお立ち寄りになり、昼食をとられたときの心温まるエピソードが伝えられています。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』によると、お出迎えのあと、陛下が御座所に入られると、立ち去りかねた生徒たちが窓の下にたたずんでいました。陛下はブラインドを開けて、ご覧になり、生徒たちはそれを見つけ、窓を見上げてうれしそうに笑っています。陛下もお笑いになったのか、生徒たちが続々と窓の方に寄ってきました。

 やがて出発の時間になり、陛下が玄関に姿を現されると、生徒たちは校庭にならび、「祖国」と題する讃美歌を歌いました。

「♪わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおきませんでした。陛下はポーチにお立ちになったまま、動かれません。校長が敬礼して何度、促しても動かれない。讃美歌は二度、三度と繰り返されました。そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わりはじめました。陛下の目にも光るものが浮かんできました。大金侍従長は

「この親和、この平和の境地」

 と書いています。

 ところが、戦後数十年が経ち、クリスチャンたちは反天皇色を強めています。キリスト教イデオローグの1人だった飯坂良明・学習院大学教授は

「天皇制という体制の論理をつきつめれば、天皇の神格化、絶対化ということになり、キリスト教と原理的に矛盾せざるを得ない」(『天皇制と日本宗教』)

 と断言しているほどです。

 先述したミッションスクールも例外ではありません。大正末に出された「五十年史」では、皇室との関わりについて、大正11年に貞明皇后が九州行啓の途中、職員一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校ではこれを受けて、懸賞論文「地久節論文」の基金を設立したことを記録しています。学校を創設したアメリカ人女性は西洋かぶれを排し、「キリスト教魂をもつ日本風の女性」を育てることを教育目標としていたといわれ、それだけに生徒たちの皇室崇敬の気持ちは強かったと伝えられます。

 ところが、戦後、刊行された『百年史』では、先述した昭和天皇のエピソードがまるで別の話として記録されています。

 いわく、天皇の車の前後には多くのジープやトラックに分乗して銃を構え、肩を怒らせた米兵が取り囲んでいた。ある学生はこみ上げてくる腹立たしさを感じ、それまでの

「天皇は戦争の責任のゆえに潔く退位すべきだ」

 という持論を放棄した。戦後の天皇巡幸は軍国主義日本の主権者の変身の場であった。

 また、この学校につとめる大学教授はこう書いています。

 ──生徒が讃美歌を歌い、天皇も感慨深げであられたというエピソードそのものが、「あわれ大御代におくれで進み、おみなのまさみちたどりていそしまん」という天皇礼賛の「学院歌」が歌い続けられている理由を物語っている。

「キリスト教主義教育を維持するという名目上、つねに国家権力に妥協することを余儀なくされ、そのかぎりにおいて天皇制に対する態度はいつもあいまいであった」というのです。

 この落差をどう見ればいいのでしょうか。『百年史』が書いているように「軍国主義日本の主権者」が「変身」したのか、それともクリスチャンが「変身」したのか。

 たとえば、昨年の8月、日本キリスト教協議会は小泉首相の靖国参拝に反対する声明を出しています。その声明は、かつて国家の戦争政策に協力したことを反省したうえで、「神道を利用した国家神道」が侵略戦争、植民地政策を推し進めたことを非難し、「侵略戦争と植民地主義を肯定する特殊な歴史観を持ち、これを主唱している靖国神社」および首相参拝を批判するものでした。

 しかし、主流派の神道人たちが、戦前、中国大陸での日本軍の暴走を必死で止めようとし、さらに日米が開戦すると早期和平の工作をしたという知られざる歴史はありますが、政府や軍の中枢にいたはずの日本のクリスチャンたちが、アメリカとの人脈もあったでしょうに、日米開戦を阻止し、あるいは和平工作を試みたという歴史は聞きません。
 http://homepage.mac.com/saito_sy/war/H1002asahi.html

 日米交渉の舞台裏には賀川豊彦らの働きかけがあったといわれますが、賀川豊彦全集は賀川の対米工作について、ほとんどまったく言及していません。日本のクリスチャンが反省しなければならないのは、国家の戦争政策に協力したことではなく、天皇の詔書を引き合いにする賀川豊彦のコラム風にいえば、

「四方の海 わが同朋(はらから)と思う世に など波風の立ちさわぐらん」(明治天皇のお歌)

 という天皇のご心情をわが心として、開戦を阻止できなかったことではないのでしょうか。

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