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改憲を牽制する司教団メッセージの妄想 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月1日木曜日)からの転載です

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改憲を牽制する司教団メッセージの妄想
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 先月下旬、カトリック教会の臨時司教総会が都内で開かれ、「信教の自由と政教分離メッセージ」が可決承認された、と伝えられます。

 メッセージは日本のキリスト教の歴史を振り返り、キリシタン時代の「迫害と殉教」、明治憲法下における信教の自由の限界性、昭和期の国家神道による神社参拝強要を取り上げ、「社会的儀礼」として信徒の神社参拝を許容し、戦争協力に向かった歴史を反省したうえで、「信教の自由」「政教分離」原則を明記した現行憲法を改め、「社会的儀礼または習俗的行為」の範囲内で国の宗教的行為を認めようとする憲法改正の動きを強く牽制しています。

 ここに色濃く展開されているのは、いわば「弱者の論理」「被害者の論理」ですが、歴史的に考察する立場からすれば、「弱者」「被害者」の視点があまりに強調されすぎているのではないか、という疑いがぬぐえません。

 なぜなら、キリシタン時代の「迫害」は日本の宗教史上、苛酷なものですが、その背景には大航海時代の世界布教には武力征服の隠れた野望があったこと、カトリックとプロテスタントとの宗教対立の影響があることが知られています。「迫害」にはそれなりの理由がありました。ところが、この司教団メッセージはその歴史に触れることなく、

「中央集権化の妨げになると考えられた」

 ともっぱら被害者としての歴史を描き立てています。

 明治憲法下の宗教政策についても、政府は「国家は宗教に干渉せず」が基本姿勢で(大正10年4月6日付「大阪新報」掲載の粟屋宗教局長談話など)、今日以上の厳格な分離政策がとられていました。

 たとえば、大正12年の関東大震災後の追悼式は、宗教者が参加しない、神道にも仏教にも偏しない、完全な無宗教で行われました。今月10日は東京大空襲の日で、東京都慰霊堂では犠牲者の慰霊法要が行われますが、いまは仏式で、僧侶が読経し、参列者が焼香します。戦後の新憲法下になって政教分離が確立されたという司教団の歴史理解は間違いです。

 昭和戦前期にキリスト教が「迫害」されたという歴史にも疑いがあります。当時のカトリック新聞を読めば、皇室がカトリックの社会事業を一貫して支援していたし、キリシタン時代に殉教した二十六聖人を記念して建てられた長崎・大浦天主堂は昭和8年に国宝に指定されています。公有地の払い下げを受けて建てられた教会さえあります。「迫害」は司教団の妄想というべきでしょう。

 もっとも疑われるのは、バチカンの布教聖省が1936年に出した指針「祖国に対する信者のつとめ」に関することです。

 この指針は昭和7年、上智大学の学生が軍事教練で配属将校に引率され、靖国神社まで行軍した際、信者の学生数名が敬礼しなかったことをきっかけに大騒動に発展した事件のあと、日本の教会からのたび重なる照会を受けて与えられたもので、靖国神社の儀礼に参加することを「国民的儀礼」として許したのでした。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民としての義務(つとめ)だという判断です。

 事件は第一次大戦後の軍縮の時代に起きました。当時の大学関係者が書き残しているように、配属将校は軍縮時代の将校の失業対策でした。ところが、今回のメッセージは

「国家による宗教統制が強まる」

「教会の存亡を左右しかねない問題」

 とますます妄想をたくましくしています。

 たしかにキリスト教は一神教ですから、唯一神以外の存在は認められず、信仰が篤ければ篤いほど、異教の神に拝礼することはあり得ません。事件の本質は、日本のような多神教的、多宗教的異教世界で一神教信仰を守りつつ、国民としてどのような義務を果たすべきなのか、という信仰の問題です。国家の宗教政策問題だととらえる司教団のメッセージは一面的すぎます。

 その点、1936年のバチカンの指針が、1659年の指針を引用していることは重要です。この古い指針は中国に布教する宣教団に与えられたもので、

「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり、傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」

 と書かれています。

 16世紀末に中国宣教を開始したイエズス会は、当時としては画期的なことに、現地語を学び、現地語で説教し、さらに中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認めました。この適応政策は功を奏し、イエズス会による中国宣教は大成功を収めたのです。

 そして、適応政策は20世紀によみがえり、日本の教会に対しては1936年に靖国参拝が認められ、39年には中国では孔子廟での儀式参加が許されました。司教団メッセージがいうように

「昭和になり、国家と国家神道が一体となって戦争に邁進するなかで……神社参拝を許容した」

 のではなく、数世紀間におよぶ教会の布教戦略の成果でしょう。今回のメッセージは、教会の世界宣教の歴史をねじ曲げています。

 時代は変わったという理由で、

「そのまま現在に当てはめることができない」

 と1936年の指針の無効を主張している司教団ですが、それならバチカンはこうした主張に同意しているのでしょうか。

 驚くべきことに、靖国参拝を国民儀礼として認めた指針をバチカンは1951年に再確認しています。戦没者に敬意を示す儀礼は、数世紀を経て、宗教儀礼ではなく、国民儀礼に変化した、という判断で、宣教の使命を第一義と考えるなら当然ですが、今回のメッセージはこの新しい指針についてまったく触れず、改憲阻止という政治行動を優先させています。

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