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禁教時代のキリスト教文化 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月5日月曜日)からの転載です

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禁教時代のキリスト教文化
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 江戸時代初期に日本各地で殉教した188人のキリシタンが福者に列福されると伝えられます。20数年前からの準備を進めてきた関係者にとって、どれほどうれしいニュースだったことでしょう。ただ、水を差すようで恐縮ですが、江戸時代の禁教・迫害がこれを機に、過度に強調されないことを願っています。

 というのも、以前にも書きましたように、秀吉の時代に始まるキリシタン迫害はけっして理由のないことではないからです。

 カトリックの世界宣教には教会法に基づくポルトガル、スペインによる世界2分割征服論という荒々しい野望があったことが知られているし、九州のキリシタン大名の領地では領民が強制的に改宗させられ、神社や寺院が焼き払われました。1575年には日本はポルトガルの「マカオ司教区」に含められ、80年には長崎・茂木はイエズス会領となりました。バテレンたちは日本人を奴隷として明、朝鮮、南蛮に売りさばいていたといわれます(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』、松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』など)。

 禁教・弾圧の促した要因には、カトリックとプロテスタントとの血で血を洗う宗教戦争の影響もありました。島原の乱で、原城に立てこもるキリシタンに対して、沖合の船から大砲で攻撃したのはプロテスタント国のオランダです。オランダは南蛮貿易の独占をはかって、カトリック国の侵略的意図をさかんに吹き込み、ポルトガル、スペインとの貿易停止を働きかけたのでした。

 近世のキリシタン殉教史が日本の宗教史上もっとも苛酷であったとしても、世界に例を見ないほどに残虐であったわけではありません。ヨーロッパとその植民地で行われた陰惨な宗教裁判、魔女裁判で、数十万人から数百万人が処刑されたといわれます(松田「キリシタンの殉教」など)。

 しかもです。二十六人のキリシタンが処刑されたあと、長崎ではキリスト教がかえって盛んになったといわれます。開港後、建てられた「岬の教会」は慶長6年(1601)に改修され、「被昇天のサンタマリア教会」と改称されます。東洋一の規模をほこる教会で、日本宣教の中心でした。全国の信徒数は75万を数え、慶長14年、長時の諏訪・藤崎・住吉の三つの神社が破壊されます。

 キリシタン武将による贈収賄事件や暗殺未遂事件をきっかけに、徳川幕府が禁教令を発したのは、慶長17年です。教会が破壊され、キリシタンが処刑されました。

 そのあと、「長崎くんち」で知られる諏訪神社が再興するのは寛永2年(1625)ですが、興味深いのは相殿にまつられている藤崎神社です。長崎岬の突端の藤崎にしずまっていた神社がキリシタンによって破壊され、サンタマリア教会が建てられ、禁教後、今度は教会が破壊され、その跡地に祠(ほこら)が置かれ、やがて諏訪神社再興のときに相殿にまつられたのではないか、とも考えられています。

 それかあらぬか、藤崎神社の御霊代(みたましろ)は諏訪神社、住吉神社とは異なって並外れて重く、もしかしたらサンタマリア教会の建造物などに関係するものなのではないか、とも想像されています。キリシタンたちは神社信仰にかたちを変えて、その信仰を守っていたのかも知れません。

 長崎の歴史もさることながら、さらに驚きなのは、京都の祇園祭です。中国の故事をモチーフにした函谷鉾(かんこぼこ)の正面を飾る前掛けの織物タピスリーは16世紀のベルギーで製作されたもので、そのデザインはなんと旧約聖書のイサクの嫁選びがテーマです。

 徳川三代将軍家光にオランダ商館長が献上したもので、その後、京都の豪商の手にわたったもののようです。江戸中期、18世紀半ばのベストセラー「祇園御霊会細記」の木版画にはこの前掛けが確認できます。

 キリシタン迫害が苛酷さを増し、島原の乱が起きた時代に、プロテスタント国のオランダ商館長は聖書の物語をテーマにしたタピストリーを将軍に贈り、その後、京都の人々は年に一度のお祭りでこのキリスト教美術を鑑賞していたのです。

 江戸期の日本は世界に冠たる法治国家でもあります。江戸時代を「キリスト教禁教の時代」とひと言で呼ぶべきではありません。

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