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国民として未熟な大空襲訴訟原告団 [戦争の時代]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月11日日曜日)からの転載です


 坂本多加雄・学習院大学教授(故人)は『国家学のすすめ』の、国民と民族をテーマとした章で、じつに興味深いアメリカ留学の経験をもつ女子学生の逸話を紹介しています。

 アメリカの高校の授業で原爆投下が取り上げられました。

「アメリカの行動がよくないと思う人は手を挙げて」

 と求められ、日本人学生は、当然のごとく手を挙げ、ほかの生徒もそうするだろうと思い込んでいたら、何のことはない、手を挙げたのは彼女一人だけでした。アメリカ人の生徒たちはみなアメリカの原爆投下を擁護したというのです。

 原爆投下についての見方の何が日米で異なるのか、坂本教授はこう説明します。

 ──アメリカでは政府も学校も、国際法の存在を自覚したうえで、原爆が「残虐な兵器」ではなく、原爆投下は戦争の終結を早め、被害を減少させた、という認識が共有されている。
 アメリカ人の多くは、個人としては、原爆の悲惨さに心を動かされ、犠牲者に同情するかも知れないが、原爆投下はそのまま戦勝と世界平和をもたらしたという歴史理解と結びついており、その歴史を共有するかぎり、原爆投下の解釈を簡単に変えることはないだろう。アメリカには自国の国家の立場を意識し、アメリカという国家の歴史と今後の世界戦略を踏まえたうえで、原爆投下の意義を語る用意が備わっている。
 ところが、日本人は、そうではない。原爆投下は「人類の悲劇」と考える。最初の被爆国として「核廃絶」に向けて努力する資格と任務があると考えている。そこには、人類すべてが、原爆投下はあってはならない、という認識を共有しているという無意識の前提がある。
 ここにあるのは「アメリカ国民」と「日本人」との対立である。日本人の考え方は必ずしも「日本国民」のものではない。

 このように坂本教授は日本人の「国民」としての未熟さを指摘するのですが、まさにそのことをうかがわせるような訴訟が起きました。

 昨日、3月10日は東京大空襲の日で、それに合わせるように、大空襲の被災者や遺族112人が国を相手に総額12億円あまりの損害賠償と謝罪を求める訴訟を起こした、というのです。報道によれば、空襲で被害を受けた民間人による初めての訴訟で、

「戦争をしたのは政府が悪い。空襲で被害を受けた自分たちに謝罪せよ。補償せよ」

 と、平均年齢74歳の原告団は意気盛んだと伝えられます。

 前日に開かれた支援の集いには470人が参加し、陳述書が朗読され、以前から犠牲者の氏名を記録する運動を展開してきた原告団長が

「私たちが死んだとき、空襲の事実が歴史から抹殺される」

 と決意表明し、参加者は

「国民、都民に空襲の実相を広め、裁判闘争を戦い抜く」

 というアピールを採択したそうです。支援者の1人である作家は、

「この裁判は戦後史の1ページをつづることになる」

 と激励した、と伝えられています。

 アメリカ軍による空襲が個々人に悲惨な被害をもたらしたことは事実でしょうが、平和が回復して、何十年も経ついまこの時点で、原告たちは何をしたいのでしょうか。

 じつに興味深いことに、原告団が責任を追及する相手は東京に焼夷弾の雨を降らせたアメリカではなく、日本政府です。

「東京大空襲が国際法違反の無差別爆撃だったことを裁判所に認めさせ、戦争を始めた政府の責任を追及したい」

 というのです。

 さらに興味深いことに、原告団は中国・重慶爆撃の対日訴訟原告団とも連携しているようです。両者の交流の場で、日本の弁護団長は

「日本政府に戦争を起こした責任を認めさせ、戦後補償をさせることが、次の戦争を防ぐことになり、日本と中国との友好を発展させていくことになる」

 と強調したといわれます。

 中国政府が民間による戦争賠償請求運動に支持を表明したのは1995年です。江沢民の権力掌握は順調ではなく、対外強硬姿勢を示すことで力を誇示しようとしたのでした。同年9月、江沢民は抗日戦争勝利50周年記念大会で

「日本侵略軍によって中国人3500万人が死傷し、南京大虐殺で30万人以上が死んだ。直接被害だけで1000億ドルをもたらした」

 と演説し、「反日」は頂点に達しました。

 日本が戦争を起こした、日本軍による重慶爆撃もアメリカ軍による東京大空襲も、原因は日本が作った、加害者は日本である、と原告団は認識し、きわめて政治的な中国の戦争賠償請求運動と共闘しながら、日本の戦争責任をどこまでも追及しようとしているようです。60年以上も前に戦争は終わったのにです。

 どうしてこのような訴訟が起きるのか。坂本教授は、先述した著書のなかで、こう述べています。

 ──戦争被害者の立場に個人として感情移入し、苦境を理解することは重要だが、日本国民としてどう処するべきかは別である。それを混同するのは国民としての未熟さの表れである。

 ──このような議論は、日本が国家としての戦後処理を果たしていない、という間違った前提から出発している。しかし日本は国際ルールに従って、完全に戦後処理を終えている。もちろん、アメリカの原爆投下やソ連の蛮行を苦々しく思っている日本人がいるように、相手の国にも「戦争は終わっていない」という気持ちを抱く人々はいる。
 しかし個人としての意識とは別個に国民としての立場がある。その立場において、国家間の戦後処理によって戦争状態は終了したと考えるべきであり、そのようにして国家間の関係を安定化させようというのが国際社会の知恵であり慣行である。

 今回の訴訟で、原告団は1人あたり1100万円の賠償を請求しています。大空襲の犠牲者は10万人。とすれば、今度の裁判で要求が認められれ、10万人が同様の裁判を起こせば、東京大空襲だけで日本国家は1兆円の賠償を支払うことになります。むろんほかの内外の民間人被害にも波及し、雪だるま式に賠償額は増えるでしょう。増税は必至で、負担は当然、原告団の子孫にふりかかります。

 最高齢者は88歳だという112人の原告団は、その点を日本国民としてどう考えるのでしょうか。

 おそらく同じ世代には、国民の1人として戦地におもむき、国家に命を捧げた友人・知人が数多くいるに違いありません。彼らにとっては、国家は身近にあり、自分の命と同じ価値を持っていたはずですが、戦争の時代を生き延び、天命を全うしようとしている人たちにはその感覚がうかがえないのはなぜなのでしょうか。

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